宮本茂紀さんが職人として腕をふるいはじめたのは1952年、15歳の時。それから人生を家具作りに捧げ、いまでも戸越銀座近くの3つの工房を行ったりきたり。現場の最前線で手を動かしつづけている。その確かな技術は迎賓館や白州次郎氏の椅子など歴史的価値のある椅子の修復、宮内庁の儀装馬車の修復や家具の製造などに活かされている。
白洲次郎氏の椅子 サイズ:420mm(W)×530mm(D)×1080mm(H)×445mm(SH) 素材:ケヤキ(板厚30mm)
宮本さんが神様と呼ばれる理由は積み重ねた技術に加えてもう一つある。それは家具モデラーとしてデザインの可能性をどこまでも追求する姿勢。家具モデラーとは、デザイナーが描くイメージの実現を目指して試作開発を行う仕事だ。どんなに攻めたデザインの椅子でも形にし続ける宮本さんを頼りに、梅田正徳、喜多俊之、倉俣史朗、フィリップ・スタルク、ザハ・ハディドなど気鋭のデザイナーが工房を訪れた。
そんな宮本さんも2020年で84歳になる。誰しもが情報を発信して主役になれる時代、縁の下の力持ちとして日々ものづくりに励む職人の業(わざ)に触れられる機会はますます貴重になっていくのではないだろうか。
シリーズ「家具の作り手たち」第一回は家具モデラー宮本茂紀さんにお話を聞いた。
宮本茂紀さんが手掛けた銘木コースターを販売しています
「僕は自分の固定した美意識を持たないようにしている」
椅子は人が触れるものであり構造的な堅牢性を求められる。また、「椅子ひとつでその場所の雰囲気が変わる」と言われるくらい空間の中で存在感を放つ家具だ。機能とデザイン。その両方を兼ね備えた椅子を作るために、世界中のデザイナーや職人たちは心を砕いてきた。
宮本さんが徒弟として働いたころ、家具業界にはデザインという言葉がまだ浸透していなかった。建築家の先生は図面を描く。職人は口ではなく手を動かし図面のとおりに正確に作る。しかし、美しさと耐久性を兼ね備えた一脚の椅子を作るためには、デザイナーと職人が密にコミュニケーションをとる必要があると宮本さんは考えていた。
現場で職人たちが作りやすく、使う人に十分な機能があり、クリエイターの要望どおりのデザインに仕上げる。その間に橋を渡すのが家具モデラーの役割だと宮本さんは言う。想像力、技術的ノウハウ、コミュニケーション力が高度に求められる。
建築家のザハ・ハディドと取り組んだFluffy Chair(フラッフィーチェア)は、まさに宮本さんのモデラーとしての技術が活かされた椅子だ。
Fluffy Chair デザイン:ザハ・ハディド・アーキテクツ 製作/五反田製作所グループ サイズ:W480×D530×H700(SH445)mm 発表年/1990年
座面には羊毛をあしらい、背面には金属を使用している。柔らかさと硬さ。優しさと厳しさ。相反するものを一つにまとめあげたザハらしい椅子だ。宮本さんはザハのデザインをみて「哲学を感じた」と話す。前衛的な椅子に、宮本さんはどのように携わったのだろう。
最初にザハから出てきたスケッチでは、背面後方の金属部分の角金属の部分が尖りすぎていて、体を引っ掛けた際に怪我をする可能性があった。そこで宮本さんは、ザハの哲学的なデザインにも破綻が生じない程度に角をとる。そして完成品の後脚を試作よりも長くし、座面がやや傾斜を起こして飲食により適した形に仕上げた。
「家具モデラーは常に対話を大事にするべきだ」そう宮本さんは考えている。自分の美意識を入れ込むのではなく、クリエイターの考えていることを汲み取って形にする。前例がない家具づくりでも「自分のわからない世界もあるんだなあ」と受け入れ、依頼主の要望に応えるところに心血を注ぎ込む。だからこそ気鋭のデザイナーたちに頼られてきた。
椅子の神様と呼ばれるまで
宮本さんは1937年に東京・芝に生まれ、静岡・伊東市で育った。中学卒業後、担任であった教師・斎藤健一氏の勧めで、その父・斎藤巳之三郎氏が親方を務めていた、東京・深川の斎藤椅子製作所に徒弟として入る。当時の斎藤椅子製作所はまだ分業されていなかった。室内装飾椅子張業と言われるように、ひとりの職人が椅子やカーテンや絨毯などを作っていた。
その後、3年間の修行を経て独立。椅子張り職人としてさまざまな現場を経験し、29歳で現在も代表取締役を務める五反田製作所を創業する。以来東京・五反田や戸越周辺を拠点に仕事を続けてきた。1970年代に近づくと輸入家具の国産化が進み、宮本さんは1966年ごろからエアボーン、オバーマン、C&B、アルフレックス、ウィルクハーン、カッシーナ、コア、ノルなど海外の有名家具メーカーの、日本国内でのライセンス生産を請け負うようになる。36歳の時にイタリア・ミラノ郊外にあるアルフレックスの工場で研修を受け、デザイナーと職人たちの間を取り持つ家具モデラーの存在を知る。
アルフレックスでの仕事風景。著名なデザイナーとも現場の職人ともわけへだてなく会話をしながらものづくりを進めていくアルフレックスのモデラーの姿に感銘を受けた宮本さん。日本に帰国してから「家具モデラー」と名乗り活動をはじめる時、背中を押したのは建築家のル・コルビジェの『都市開発の仕事で、道路工事をしている現場の連中とも意見を交換した』という言葉だった。(画像提供:五反田製作所)
帰国後、日本初のモデラーとしての活動を本格的に開始。デザイナーや家具メーカーと積極的に関わる傍ら、自動車メーカーともつながりを持ち座面の研究開発にも貢献。2006年には卓越技能章(現代の名工)を、2007年には黄綬褒章を受章している。
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素材と向き合った宮本茂紀の仕事の足跡
「僕は自分の固定した美意識は持たないようにしている」と語る宮本さん。ただ、それはあくまで他のクリエイターと仕事をする時のこと。決して自分でプロダクトを作らないわけではない。
日本に椅子の文化が入ってきたのは江戸時代、根付いたのは明治時代の文明開化に合わせてだと言われている。宮本さんが徒弟として仕事をしていたころはまだ明治時代のロココ調の椅子の作り方が一般的だった。それから四半世紀近く経つ間に、金属やプラスチックなどたくさんの素材が生まれ家具に用いられてきた。その様子を目のあたりにしてきた宮本さんが手がけたオリジナルプロダクトには木を用いたものが多い。
1960年代、当時は木工技術と言えばデンマークをはじめとする北欧が秀でていた。そこで、宮本さんはデンマークの王立アカデミーに組手を教わりに行く。しかし、先生からは「木工の技術を日本人が教わるのはおかしい。組手は大航海時代から日本から学んだんだ」といわれてしまう。ならば、と日本に帰った宮本さんは早速組手の研究に邁進。仕事の終わり、残って木の端材で組手をまずは作ってみる。組手の仕組みを一層理解するために、木に色を塗ったりもした。その試作開発を通し、昔の職人たちは強度に加えて見た目の美しさまで理解をして組手を用いていたことを知る。
組手の技を集約してつくった椅子の模型
20本の部品から構成されており、それぞれが異なる組み方で組まれている。
そうしてのめり込んでいった木の研究。1974年に制作したBOSCO(ボスコ)は、宮本さんの「それぞれの木の木目の美しさや個性を知ってほしい」という想いから生まれた椅子だ。戦後、生産効率を重視した家具作りを進めていった結果、ブナやメープルなど、色が白くて表情が少ない、かつ加工しやすい木を用いることが増えてきた。加えて分業が進んでいった結果、若い職人が多様な素材に触れる機会が少なくなっていた。これに宮本さんが危機感を抱いたことがこの椅子を開発したきっかけだ。同じデザインなのに、同じ椅子ではない。仕事の合間を見て作り続けてきたこの椅子は200以上の樹種で作られた。
画像のBOSCOの樹種はクロガキ。クロガキは柿の中で、心材に黒い縞や柄が生じ、部分的には一面黒色となった材。日本で特に珍重されている。 メーカー/五反田製作所グループ サイズ:W420×D550×H1830mm 発売年:1974年
ライフワークとしてBOSCOに取り組んでいた宮本さんが、新たな視点で木の個性を引き出した椅子がMokusaiku(モクサイク)だ。プラタナス、メープル、オリーブ、コクタン、プラウッドなどの銘木の木片が並ぶ。それらは一同に会することでお互いを引き立てあい、木の表情の豊かさに気づかせてくれる。
時に宮本さんの活動は職人やモデラーという範疇を超え、企画・デザインから開発・製作までを一貫して手がけることも。これまで紹介してきた椅子だけでなく、どんな体型の人にとっても座り心地が良い椅子など、長年椅子の構造に向き合ってきたからこそのこだわりが感じられるデザインの椅子を製作している。
そんな宮本さんは現在、椅子に被せるファブリックウェアーの開発に没頭中。
「肌身に触れるという点で木とファブリックは共通しています。ただ、木工には繊細さが要求されるのに、縫製や型取り(パタンナー)についてはあまり意識されていません。デザイナーと話していても木工技術や造形、座り心地といったものに比べてあまり評価が高くないんです。それに、物語のあるものが生活の身近にあった方がいい。残りの人生も短くなってきたからさやりのこしはなくさないとね。得意なことを最後にとっておいたんだよ」
ーおわりー
五反田製作所
世界をリードする建築家の椅子から主要家具メーカーのソファまで、日本の椅子づくりを牽引し続けてきた五反田製作所は、その技術を活かして、歴史的な馬車の修復や生活を彩る雑貨も手がけている。
五反田製作所は創業以来、日本の家具づくりの一端を担ってきた会社であり、伝統技術を大切にしながらも、新しい素材に積極的に取り組み、数多くの国内外トップブランド家具のライセンス生産を行っている。
迎賓館や白州次郎氏の椅子など歴史的価値のある椅子の修復、宮内庁の儀装馬車の修復や家具の製造など、確かな技術がなければできない仕事を多く請負っているのも大きな特徴である。
また、五反田製作所グループとして特注家具の製作をはじめオリジナル家具の製作・販売も行うミネルバと連携して、日本の椅子とソファの発展に貢献し続けている。
代表の宮本茂紀が家具づくりに携わって、すでに70年近く。
日本の家具のなかでも椅子・ソファの分野において、家具メーカーや建築家・デザイナーと絶え間ない挑戦を続け、数多くの名作・ロングセラーをともにつくってきている。
インテリアを一層楽しむために。編集部おすすめの書籍
新しいことへの挑戦と実験。素材への探求心。過去、現在、未来をつなぐ椅子づくりとは――
椅子の神様 宮本茂紀の仕事 (LIXIL BOOKLET)
カッシーナ、B&B、アルフレックス、梅田正徳、藤江和子、隈研吾、ザハ・ハディド……。彼らは、日本初の家具モデラー、宮本茂紀(1937-)がともに椅子づくりに携わってきたメーカーであり、デザイナーたちである。一流の面々がこぞって宮本を頼るのはなぜなのか。
2019年4月、数年越しに完成した佐藤卓デザインによる、自然素材と伝統技術に拘った最高級のソファ「SPRING」の開発に関わった宮本。本書はその「SPRING」を皮切りに、デザイナーと試作開発に取り組んだいくつかの事例から職人としての宮本茂紀の仕事に迫る。ものづくりの現場に約65年。後半では、歴史から椅子の構造の変遷や技術を学び、素材や座り心地を追求し続け、さらに次世代へと継承する宮本の仕事も紹介する。写真家、尾鷲陽介の撮下しによる豊富な図版とともに、新たな角度から椅子の奥深さ、魅力に触れることのできる一冊。
歴史を彩った椅子から世界で活躍するデザイナーの椅子、そして暮しのなかの椅子まで。類書のない、椅子の物語であり技術史である。
椅子づくり百年物語―床屋の椅子からデザイナーズチェアーまで (百の知恵双書)
床屋の椅子は、いつから坐り心地がよくなったのか。旧帝国ホテルの設計者、フランク・ロイド・ライトが自らデザインした椅子に込めたものは。体の大きなマッカーサーが日本上陸後に使った椅子と、体の小さな吉田茂が愛用した椅子の違い。この一〇年で、自動車のシートはどのように変わったか。椅子の試作開発に永年携わる職人・宮本茂紀が、半世紀にわたって関わった椅子を、ものづくりの現場にいる者ならではの経験と洞察力で語る。