白洲 次郎 正子夫妻 カントリーライフ 武相荘 そして イタリアンハンギングクロック
白洲 次郎、正子夫妻の足跡をたどる、
後半生を過ごした旧白洲邸、武相荘
旧鶴川村は武蔵野国と相模国の境に位置し、そこから白洲次郎は自らの居を、不愛想をもじって「武相荘」と名付けた。
41歳の次郎は、「隠居」と称して 多摩丘陵の一隅 ここ鶴川村に居を移した。1942年(昭和17年)の事である。 敷地面積約二千坪。
当時から次郎は「カントリー・ジェントルマン」を自称。
敢えて中央の政争や喧噪から距離を置き、地方に在住しつつ中央の情勢に目を光らせるという英国貴族の考え方で、
これはケンブリッジ大学留学時代の学友で生涯の親友であった、
7世ストラトフォード伯爵 ロバート・セシル・ビングの影響が大きいと言われている。
敗戦後、次郎は吉田茂の要請で終戦連絡中央事務局の参与に就任してGHQとの交渉や、日本国憲法制定、通商産業省(現在の経済産業省)設立に尽力した。
政界引退後は東北電力会長などを歴任。
戦後の日本を駆け抜け行った次郎の半生は武相荘とともに綴られている。
周辺の景観は大きく様変りしたが、次郎が愛した「カントリー・ジェントルマン」の片鱗は、ここ武相荘で垣間見ることが出来る。
正子は青山二郎や小林秀雄との交流を通じて骨董・随筆家として活躍するが、夫妻とも亡くなるまで武相荘を住まいとした。