日本の手製紳士靴の、隠れた聖地
東京・多摩地区でいわゆる23区との接点になる西東京市。中心である田無駅こそいかにも急行の停まる駅らしい立派な身構えだが、5分も歩けばあちこちに昭和の風景がまだ残っている。
区画整理しきれていない狭くて微妙に曲がった道路、地元の方がそれこそサンダル履きで訪れそうなひなびた商店街…… そんな一角に、看板らしい看板もなく小笠原シューズのアトリエはひっそりとある。
車道と歩道の区別がない狭い通りに面した小笠原シューズ。紙に書かれた表示に気付けないと、恐らく通り過ぎてしまうひっそりとした外観。
初めて訪れる方は多分、気付けずに通り過ぎてしまうだろう。しかし、もしここが生き延びていなかったら、日本の「ハンドメイドの紳士靴」は間違いなく一旦、完全に絶滅していたはずである。
小笠原シューズの自社ブランド・συναντωの靴たち。スタイルは専らトラディショナルど真ん中だ。
小笠原シューズの起源は、1955年に小笠原光雄・茂好兄弟により虎ノ門で創業した「小笠原製靴」。
美しくしかも履き心地に秀でた靴作りは当時から評価が高く、自らの店舗向けのみならず、東京の著名な靴店や百貨店に置かれる紳士靴のビスポークなど最高級品の製造をこれまで数多く手掛けてきた。
田無に移転し社名を現在のものに改めた1988年以降は、インポートブランドの攻勢に押されつつしばらくOEM生産に徹していたが、2012年に社長が小笠原茂好氏から根岸貴之氏に世代交代したのを機に、待望の自社ブランド・συναντω(シナンド)を立ち上げた。因みにσυναντωとはギリシャ語で「会う」とか「出会う」の意味だ。
あくまで「受注」を軸とした生産体制
συναντωの靴は大きく3つのグレードに分かれる。デザインのみならず足の採寸を基に木型も独自のものを作製し仮縫いも行う「カスタムメイド」は、言わばビスポーク的存在。
サンプルの中から木型・デザイン・素材・細かな仕様それに底付けの製法を選んで仕立てる「パターンメイド」は、途中に仮縫いこそ挟まないものの、小指部のアタリなど木型の「盛り」で済むような多少の修正なら応じてくれる。
そしてサンプルの中からデザイン・素材・底付けの製法だけを選べば済むお手軽な「レディメイド」であっても、その都度作製する完全受注生産品であり、予め作り置きされた靴は存在しない。
パターンメイドの作品例。この靴の底付けは出し縫いまで手縫いのハンドソーン・ウェルテッド製法十分仕立てだからか、表情の精悍さが際立っている。
土踏まず部のくびれに、品質の高さが表れている。
かかとのコンパクトな造形も、履き心地の良さを保証する。
3つのグレードはあくまでも選択肢の広さの違いであり、靴自体の品質には全く違いはない。
また、どのグレードであっても底付けの方法を好みや靴の性質、それに予算を踏まえて幾つかの種類の中から選べる点も何気にありがたい。例えば、カスタムメイドでマッケイ製法をチョイスしても構わないし、パターンメイドでも出し縫いまで手縫いのハンドソーン・ウェルテッド製法十分仕立てを選択できてしまう。
ただし、あまりにきれいな仕上げをしているが故に、一体どの製法で底付けされたかが完成品では判断し難いのではあるが。
こちらはマッケイ製法で底付けした一例。アッパーが起毛素材ながら、無駄に膨張した印象は皆無だ。
マッケイグッド製法で底付けした一例。構造上アウトソールが二重になるので、気持ち重厚な雰囲気に仕上がっている。
大ベテランも若手も、同じ部屋で作業に集中
アトリエに入ると、聞こえてくるのはアッパーの各パーツを縫い付けるミシンのリズミカルな音や、それを木型に添わせる釘打ちの小気味良い音、そして薄く流れるAMラジオ…… 決してうるさくはなくピリッと引き締まった空間は、昔ながらの「工房」「製造現場」のイメージそのままだ。
職歴50年以上の大ベテランから若手まで、根岸社長を含め総勢5名のスタッフが黙々と自らの作業に励み、それを顧問役である前社長・小笠原茂好氏が時折り見守る。
いかにも昔ながらの工房と言った雑然とした雰囲気とは対照的に、一人一人の職人の集中力が並大抵でなく、神聖ささえ感じる。
驚かされるのは作業のスピードと圧倒的な手際の良さ。まるで動画の早送りを見ているかのようで、無駄な動きが一つとしてない。
「うちはもともと製造屋、つまりある程度纏まった足数のOEM製品を、お取引先様に決まった期日に納品する靴づくりが本業でした。だからでしょうか、一足一足の靴を『正確に、しかも速く』作れるよう、自分で言うのも何ですが、各自の集中度は常に高いかもしれませんね」
社長になった今でも、根岸氏は企画や素材の調達だけでなく、もちろん靴の製造にも従来通り日頃から取り組んでいる。
年齢的にはちょうど中間の根岸社長は穏やかに、そして若干恥ずかしそうにこう話す。
「かと言って、全く話をしてはいけない神経質な雰囲気なんて言うのはありません。各自が別々の作業をしてはいるけれど、疑問や確認事項が出てきたら、目の前の大先輩にすぐに尋ねることができるのも、やはり強みなのでしょう。生き字引みたいな方々と一緒に仕事ができるのは、とてもありがたいです」
だからこそなのだが、根岸社長には悩みもある。このままでは大先輩から継承しきれない技術が、中には出てきそうなのだ。
穴飾りも型にはめて一発で開けるのではなく、ポンチとトンカチで一目一目丁寧に開けてゆく。この工程もカスタムメイドでもレディメイドでも同じ。
敢えて名を出さないことで鍛えられた、安定した品質
例えばやや年配の男性向けの靴に多く見られる、完全な手作業による袋モカシン縫い。
80歳代の大ベテランの職人は、年齢が嘘のように細かく綺麗に、しかも素早く仕上げる。しかも針を通す場所も事前にマークせず全て目見当だ。
「私も他の若手も教わっているのですが、これがなかなか上手くゆかないのです。単にきれいにだけならばもう、十二分にできます。でも大先輩のように『速く』はまだできないので、製造屋として一定の期間で数をこなすまでにはいかず、緊急の課題です」
弾力の高さ故非常に縫い難いペッカリーの革で、細かく歪みなくしかも素早く仕上げた、 正に「名人芸」的な袋モカシン縫い! 次世代に何とか引き継ぎたい技術の筆頭だ。(写真提供:小笠原シューズ)
根岸社長と話しているとこの「製造屋」と言う表現が多く出て来るのだが、そこからは彼の、そして小笠原シューズ全体の穏やかな、しかし並々ならぬプライドを感じさせてくれる。
取引先から同じ商品の注文を複数いただくからには個体差、つまり一つ一つの商品に変な癖や優劣があってはならない。同じモデルは全て同じに見えなくては、そして全く同じに作らなくてはいけない。もちろん納期に間に合うように……。
底付けの出し縫いの糸を目立たなくする「目付け」の工程。ビスポークであっても車輪のような工具で一気に行う工房がほとんどの中、小笠原シューズではこのように一目ずつ手作業。
ほんの少し前までの日本製品の最大の特徴だった、しかし今日のそれには薄れつつある「匿名であるが故の緻密さ」を、彼らはまだ大切に守り抜いているのだ。
雰囲気のみ重視、そして自己満足が最優先するような靴作りとは無縁の、ある種の覚悟と潔さ。その姿勢は自社ブランド、そして一品一様であるσυναντωの紳士靴であっても変わらない。
細かいところに見て取れる正常進化
「それでも最近は、ちょっと考え方が変わったと言うか、やっと深くなったと言うか……」根岸社長ははにかむ。
「これまではお取引先様が企画した靴を、あくまで自分なりにどう考えて『纏める』か、つまりどう造形し品質を極めるかに全力を費やしていたのですが、あるタイミングから、そのお取引先様の期待みたいなものにどう応えて行くのかにまで、ようやく考えが及ぶようになりました」
アッパーを木型に吊り込むのも、このように当然手作業。革の特性を確かめながら、トンカチを用いて丁寧に沿わせてゆく。
確かに、根岸社長に代わってからの小笠原シューズの作品は、OEMのものであっても微妙に見え方が変化している。
出し縫いの糸を隠すコバの目付けを一つ一つ行ったり、内くるぶし側のヒールの角をきれいに丸めるなどの丁寧な仕上げは相変わらずだ。しかし、トウキャップの位置を若干前に移動したり、ヒールをよりコンパクトなものに改めたりなどを通じ、ここの紳士靴でしか表せない凛々しくスッキリとした造形に、いっそう磨きがかかっている。
自動車のモデルチェンジで言う「正常進化」を明らかに遂げているのだ。
用いる素材の吟味にも手抜かりはない。アッパーに比べてないがしろにされがちな底材も、靴の性質に合わせて最適なものが選択される。
ファンからの熱狂的な支持を集めるオーダーブーツの名店・WHITE KLOUDとの合同展示会を行うなど、これまでの枠組みを超えた活動も作風の進化・深化に大きな影響を与えているのだろうか。
今春にはOEM先からのリクエストに応じ、スニーカー的な要素を再解釈した靴を初めて納品し、大きな評価を得ている。根岸社長は情報発信にもこれまで以上に積極的に取り組んでいるので、小笠原シューズのインスタグラムを是非ともご覧いただきたい。
OEMでは、最近はこのようなスニーカー的要素の入った紳士靴も製造するようになった。とは言え注ぎ込まれている技術には変更や省略は一切ない。
先代から継承した靴作りの基本軸、そして時代に媚びないディテールを一目すれば、男性が長く愛用すべき靴とはどのようなものか、答えは自ずと浮かんで来る。そして、その一つ一つの技術が絶えてしまわないことを、祈らずにはいられなくなる。
ーおわりー
インタビューに快く応じてくれた根岸社長。その暖かくも筋の通った人柄が、小笠原シューズの作品には素直に表れている。
小笠原シューズ
1955年創業の手縫い靴の老舗。創業当時から美しく履き心地に秀でた靴は評判がよく、東京の著名な靴店や百貨店に置かれる最高級のビスポーク品などを手がけてきた。2012年に代表取締役が小笠原茂好氏から根岸貴之氏に世代交代したのを機に、待望の自社ブランド・συναντω(シナンド)を立ち上げる。職歴50年以上の大ベテランから若手まで、総勢5名のスタッフが作り出す緻密で美しい靴には自己満足とは無縁の潔さが宿っている。現在は主にインスタグラムでの情報発信をおこなっている。
συναντωの靴は大きく3つのグレードに分かれる。デザインのみならず足の採寸を基に木型も独自のものを作製し仮縫いも行う「カスタムメイド」。サンプルの中から木型・デザイン・素材・細かな仕様それに底付けの製法を選んで仕立てる「パターンメイド」。そしてサンプルの中からデザイン・素材・底付けの製法だけを選べば済むお手軽な「レディメイド」。レディメイドであってもその都度作製する完全受注生産品であり、あらかじめ作り置きされた靴は存在しない。
<価格例>
・カスタムメイド(木型製作・保管代5万円+税を含む。完全オリジナルシューツリー付き)
ハンドソーン・ウェルテッド製法十分仕立て(完全手製)…30万円+税~
ハンドソーン・ウェルテッド製法九分仕立て(出し縫いのみミシン)…23万円+税~
マッケイグッド製法…20万円+税~
マッケイ製法…17万円+税~
・パターンメイド(オリジナルシューツリー付き)
ハンドソーン・ウェルテッド製法十分仕立て(完全手製)…18万円+税~
ハンドソーン・ウェルテッド製法九分仕立て(出し縫いのみミシン)…13万円+税~
マッケイグッド製法…11万円+税~
出し縫い仕様マッケイ製法…10万円+税~
マッケイ製法…9万円+税~
・レディメイド
ハンドソーン・ウェルテッド製法九分仕立て(出し縫いのみミシン)…8万4000円+税~
マッケイグッド製法…7万2000円+税~
出し縫い仕様マッケイ製法…6万4000円+税~
マッケイ製法…6万円+税~
終わりに
小笠原シューズの製造現場は、正直華やかとは言い難い環境。しかしそこから生み出される靴からは、もの静かで凛とした美しさがひしひしと迫ってくる。コツコツと地道に作り上げることの大切さ。これが、次の世代にも引き継がれることを願ってやまない。