懐古趣味とは異なる、知的な表情の靴
学生街そして演劇の街・下北沢から小田急線で一駅の世田谷代田。BRASSはそこから歩いてわずかの距離、環状7号線沿いにある靴好きにはよく知られたお店だ。
BRASSの店舗は世田谷代田駅側(写真左)も環七側(写真右)も存在感抜群。
CLINCH(クリンチ)はここがリリースする靴のブランド名で、「突き出た先を折り曲げて留める」とか「先をつぶす」「締めつける」「固定する」あるいは「片をつける」「決まりをつける」「まとめる」という意味の米語から採ったもの。実際、丁寧に靴を作るには様々な道具を用いたこれらの行為が不可欠。そしてCLINCHは木型の設計からデザイン、アッパーの縫製、底付けそして仕上げに到る靴づくりの全行程を、BRASSのこの店舗と近くのアトリエだけで行っている。まさに名は体を表すネーミングなのだ。
「ドレス」や「ワーク」の境界がまだ明確に存在しなかった20世紀初頭までの紳士靴をイメージして作られているCLINCHの靴。道路事情やその他の理由で、当時はまだブーツが男性の屋外での履き物として主流だったのを踏まえ、ここの靴もメインメニューはブーツだ。後述するが、BRASSは特にワークブーツ系のリペアで全国的に有名なお店でもあるので、CLINCHがブーツ主体というのは確かに自然。でも、単に「懐古趣味的な素朴さ」や「ワークブーツ的なワイルドさ」とは似て非なる、どこか知的で普遍的な凛々しさをその表情からは感じる。
専ら実用に重きを置いた、緻密な設計
代表の松浦さんのワークウェア姿が自然過ぎ。完全に板に付いています。
「過去の靴のリスペクトは物凄くしているけれど、『復刻』という発想は、実はないですね」代表の松浦 稔さんは開口一番そう、明るく話してくれた。
「むしろ、20世紀に入ってからの『量産化』を通じて靴が捨ててしまった・失ってしまったものにもう一度光を当てようとする、と言うのか、靴づくりのフローチャートの原点を掘り進めている感覚が強いです。それらが決して『構造的に劣っているから廃れた』のではないことを検証したい感覚、ですかね」
つまり端正な表情も、表面的な意図ではなく理由を突き詰めたが故の結果なのだ。「靴の真価は単なるデザインよりも履いた時、そしてそれ以上に歩いた時に発揮されると思っています。長時間そして長期間歩き続けられるかどうかが肝心なんです」実際、CLINCHの靴は「作りやすさ」ではなく「歩きやすさ」に重点を置いているのが、個々のディテールから明確。
ジョッパーブーツを内くるぶし側からチェック。閂止めの位置も含めて、土踏まず部のダイナミックな造形が、履き心地・歩き心地を保証する。
例えばジョッパーブーツは今日の代表的なものに比べ履き口が狭く、アッパーのヴァンプ(つま先から甲にかけての革)とクウォーター(土踏まずからかかとにかけての革)を縫合する「閂止め(かんぬきどめ)」の位置も高く後方に寄せている。これだと靴の成型=吊り込みも難しくなるし開口部が狭まるので脱ぎ履きもし難くなるものの、いざ足が入ると歩行時の安定感は抜群だ。
シビアに履き込めるからこそ出てくるリアルな迫力
これらの快適性は、CLINCHの靴が製品になるまで、そして製品になった後も多くの「実証実験」を松浦さん自らが行っているから得られるものでもあろう。それもかなりハードな環境下で。今日の運動靴の原型から着想を得たマストトレーナーを開発した時は店から江ノ島まで歩いたし、目下開発中のブーツでもメキシコの山(標高4600m)に登って性能をチェックした。近々その靴でアフリカ大陸最高峰・キリマンジャロにもトライするのを計画中なのだとか!
松浦さんが当日履かれていたブーツは、完全に心身と一体化していた!
もちろん取材時も使い込んだ同社のブーツ。「今日履いているハイライナーも、いつもの作業時に使い続けているものです。性能の検証という以上に、実用たるものを自らの頭脳と心理に『腑に落とす』ある種のリアリティが大事だと思っています。そうしないと、お客様に納得してお渡しできませんから」
松浦さんの履いていた一足が典型なのだが、CLINCHの靴は経年変化で得も言われぬ迫力が備わることでも靴好きには有名だ。履き込むと表情の彫が深くなるとでも申せば良いのだろうか。
履き込まれたCLINCHのエンジニアブーツ。この皺と色褪せに一目惚れで購入する顧客も多い。
「ウチのお店では新品と履き込んだものの双方を商品サンプルとして置いてあります。『変化』を見た上で買われる方も多いので」そのためアッパーの革選びにも手抜かりはない。ややドレス寄りのものにはフレンチキップ、タフさが求められる一足にはアメリカ・Wickett&Craig社のラティーゴレザーなど。後者はモデルによって素仕上げに染料で色付けするものと顔料で塗装するのとを分ける程の徹底ぶりだ。また独特の質感で人気のホースバット(馬革)は、革の取りどころが難しいので一枚一枚チェックしてから購入している。
履き込む前と後を容易に比較できるのも、BRASSでCLINCHの靴を買う楽しみの一つだ。
松浦さんはこの靴でお店から江ノ島迄まで歩き通し性能を確かめた!
製造と修理との両輪が支える、確固たる技術
「せっかくだからアトリエに行きましょう!」松浦さんに誘われ場所を店舗からアトリエに移し、作業を拝見しつつ取材を再開。CLINCHのジョージブーツの底付けを見せていただけた。
ハンマーを叩く、目安線を引く、外底を縫い上げる……すべての作業が整然と、リズミカルに行われてゆく。そしてアトリエにはCLINCHの靴だけでなく修理やカスタム待ちの他社のワークブーツも多く置かれていた。そう、BRASSは自社製品の製造・販売とリペア業との双方が主軸になっている、世界的にもユニークな靴店。
そしてそのことが松浦さんの「靴と仕事との向き合い方」に大きな影響をもたらしている。
いざ作業となると松浦さんの表情は真剣そのもの。「集中」とは正にこのような状態なのだと実感。
「まず、修理で靴をバラすのを通じて、靴の構造がより深く理解できます。そこから靴を作る際の課題を、一つ一つ確実にクリアできるのです。つまり直せないと作れない。作れないと直せない。喩えるとトンネルを双方の先端から掘り進めることで、両者がある一点でピタッと貫通できる感覚!」
製造と修理の両方ができるからこそ、修理でも他店では断られてしまうような高度なこと、例えばリビルドやリラストといった類の修理(もはや修理の域ではないが)も可能になっているのだそうだ。
向かって右がCLINCHの靴を製造する際の木型の底面。他社の既製品を修理する際に用いる左の木型に比べ細かな起伏があり、人間の足により近い造形になっているのが明らか。
中底と外底の間にギッシリ詰められるコルク。履き込むとこれが沈み込み、持ち主の足の形状に成形される。
「例えば修理に持ち込まれたグッドイヤー・ウェルテッド製法の既製靴で、土踏まずの『えぐれ』を深く出したいが故の副作用で、すくい縫い(中底とウェルトとを縫う)を出し縫い(ウェルトと外底とを縫う)で意図せず切ってしまっているケースとかを見ることがあります。どうすればそれを防げるか? それを防ぎつつ土踏まずのカーブをしっかり出して履き心地の良い靴にするにはどう設計すればよいのか? 修理の現場で様々な『実物』をチェックできるからこそ、自分の製品の品質向上に一つ一つ取り組めます」
つまり松浦さんは、修理を貴重なデータベースとして捉えているのだ。そのストックが増えると、リペアでも製品作りでも改善点が明確になり、より説得力を持って実践できる環境にある。
経験と演繹。CLINCHの靴は松浦さんの思考そのもの
終始笑顔が絶えない一方で、順回し的な発想と逆回し的な発想とをリンクできるロジカルな頭脳も有する松浦さんは、大学の専攻が理工学部物理学科とのことで、なるほどと頷かされる。卒業後は一旦電気系の会社に勤務したものの、「仕事が嫌になったのではなく、自分よりもっとこの仕事を『好き』で取り組めている同僚が何人もいて、このままだと埋没してしまう気がしたのです。そこで、『では、自分が好きなことって一体何?』を考え抜いた結果、靴の修理店の門を叩きました」
そこに在籍中、現在はミュンヘンで活躍中の日本のビスポーク靴職人きっての国際派・早藤良太氏などとの交流を通じ、ゼロから靴を作ることを直に見て・聴いて覚える機会にも恵まれた。
色々と明るく話してくれる松浦さん。でも頭脳は明晰そのもの!
「既製靴の修理だけでなく、惰性に陥らず常にベストを探求するビスポークの靴作りを知れたことで得たものは計り知れなかったです」
今日のBRASSという店、そしてCLINCHという靴は、正にこれらの経験のストックと演繹から生み出された知的な賜物なのだろう。当然ながらCLINCHの靴は海外でも評価が高く、目下卸し先は国内が3に対して海外が7。この比率も日本の靴ブランドでは異例中の異例だ。最近はBRASSの店舗を直接訪問しオーダーを入れる外国の方も多いらしい。
国内だけでなく海外での人気も加速!
「そもそも彼ら向けの大きなサイズが在庫にないケースも多いので、受注生産となる分木型の微修正も行ってしまっています。ただ、外国のお客様はワイドな木型とかイージーフィット的なリクエストが多いですね。今後はトランクショー的なものを通じて、海外のユーザーにも直接会ってより良い製品作りにフィードバックしたいです」
また松浦さんは、YouTubeでの情報発信もこれからの課題と考えているようだ。
外底が縫われた段階のジョージブーツ。理に叶って成形された立体的な底面が美しい。
「修理も製造も、今までのノウハウをもっと知ってほしいです。変に隠したいなんて思いません。『こう思っているから、こう考えているから、こう修理しています・こう作っています』をもっと伝えたいと思っています。商品そのもの以上に、そこにたどり着くまでの『道のり』をもっと知ってほしいなと」
リペアの経験が膨大にある分、修理しながら長く履ける、そして飽きずに履けるスタンダードな靴として作られるCLINCHの靴。生産数こそ限られるだろうが、よりグローバルなファンの間で、次世代やその次の世代まで修理されながら履かれる一足に、ますます深化すること確実だ!
ーおわりー
ワーク・ミリタリー・ストリートを一層楽しむために。編集部おすすめの書籍
世紀を超えるキング・オブ・ジーンズ
時代を超えたFRYE(フライ)のブーツ
Frye: The Boots That Made History
ロックで都会的、アクセサリーで羨望の的、仕事でもラフでも、他に類を見ないスタイルとオールアメリカンなクールさを持ち合わせているフライのブーツ。
ハーネスブーツから高級ラインのアメリカ国旗(the American flag)までフライの最も人気のある製品の特徴的なデザインとハンサムなディテールのスタイルと個性を読者に紹介しています。
20ポンドの圧力にも耐えられる最強のレザーと数十種類ものデザインで、フライの品質は常に変わらず、このブランドを単なるビジネスではなく生活の一部としています。
BRASS
井の頭線 新代田駅から徒歩5分、下北沢駅から徒歩10分のところにあるBRASS。ブーツのリペアやカスタムをはじめ、オリジナルブランド「CLINCH」の製作・販売もしている。
革靴が「一生もの」として付き合っていけるよう、リペアに関してはオールソール交換からアッパー縫いまでの全工程に対応。
ヴィンテージシューズなどでも柔軟に対応してくれる為、直すか迷っている方は一度、足を運んでみてはどうだろうか。
BRASSによる革靴のお手入れ記事はこちらの記事をチェック
終わりに
インタビューにも出ていた松浦さんのYouTube、非常に分かり易く解説してくれているので、絶対にご覧あれ。一つ一つの細かな工程に、靴に対する真摯な気持ちが見て取れます!