Laboratrio(ラボラトリオ)代表の羽賀友一郎さん。
紳士服の世界に触れた、服飾学校時代。次の舞台は、実践の場であるリングヂャケットの工房へ
石見(以下、I):羽賀さんにじっくりとお話しを伺うのは初めてですね。
羽賀氏(以下、H):なんだか緊張しますね。
I:初対面みたいな雰囲気で可笑しいですね。よろしくお願いします。まず、服作りの世界に入ったきっかけを教えてください。
H:元々服が好きで、いわゆる古着少年でした。高校を出てから、これという目標が見つからなかったので、モラトリアムの期間と捉えて、一年ほどアメ村の古着屋でアルバイトをしていて。その時に初めて、服にも歴史があるということを知りました。例えばヴィンテージのデニムは古いから価値があるのが面白いと思って。もっと服について知りたくなったし、持っている服も「ここをこうしたら、もっとかっこいいのに」と考えるようになりました。それで自分で作りたいと思って、大阪モード学園に入りました。
I:学校では何を専攻されたのですか?
H:学科はファッションデザイン科で、レディースがメインでした。デザインからパターンの基礎と理論、縫製、ファッション史まで全般的に、四年間勉強しました。ちゃんと課題を熟さないと進学も卒業もできないので、学年が上がるごとに人数が減っていくという厳しさのある環境でした。それはそれで楽しかったのですが。
I:在学中に紳士服に興味を持たれたのですか?
H:はい。勉強するうちに、歴史や製法、背景にある文化という観点から見て、男性服のピラミッドの頂点にあるのは、紳士服だと知りました。卒業後は、紳士服をやりたいと思ったのですが、当時は景気が良くなかったし、ちょうどアパレル業界は国内から中国での生産に移行していた時期だったので、良いと思える就職先がなくて。10年以上前の話なので、今と違ってインターネットで簡単に調べたりすることも出来ませんでした。まだ携帯も普及していない、i-Modeもない時代です。(笑)
I:懐かしい単語ですね。(笑)今とは状況がかなり違いますね。
H:それで結局就職せずに、またアルバイトをしながら自分で服を作ることにしました。学校で習わなかったことも試したくて、今はない会社ですが、洋装社という出版社の教則本を見ながら作っていました。この頃にはISDNのインターネットが普及しはじめていたので、自分でホームページを作成して、作った服を載せていました。反響もあって良い勉強になったのですが、25歳を過ぎて、さすがに「就職しないと」と思って。その時たまたまリングヂャケットの求人を見付けたんです。
I:リングヂャケットのことは、以前からご存知だったのですか。
H:はい。僕が十代の時にアルバイトしていた古着屋は、アメ村のビッグステップの近くのサンビレッジにあったのですが、ひとつ上の階がリングヂャケットの会社だったので、名前は知っていました。
I:へぇ、アメ村にあったのですか。初耳です。工場は確か貝塚市にありますよね。
H:はい。僕がリングヂャケットで働きはじめた当時はクラシコイタリアブームの出だしで、ハンドメイドで背広を作るのに憧れて、若い子たちがちょこちょこ入っていました。僕より前からいたのが、宮平康太郎(みやひら こうたろう)君や上木規至(うえき のりゆき)君です。振り返ってみると、若手の中ではトップレベルのメンバーが揃っていました。今は、宮平君はフィレンツェでサルトリア・コルコスをしていますし、上木君はナポリで修行してから、南青山でサルトリア・チッチオをしています。
I:両方とも超有名店ですね。
H:2人とも当時から努力家でした。宮平君が「日曜日に勉強させて欲しい」と当時の技術主任に頼んだことがきっかけで、日曜塾という勉強会が開かれるようになったくらいです。
I:あの日曜塾ですか。今も継承されていますよね。
H:はい、やっています。実は、僕はあんまり行っていなかったのですが。
I:え、そうなのですか。
H:日曜くらい遊びたいと思って(笑)。情熱の量の差ですかね。でも仕事は順調で、最初の1、2年は襟周りを担当して、その後は肩の地縫いやしつけをしていました。
I:襟付けというと、重要な工程のひとつですよね。最初からそんなポジションに抜擢されるなんて、会社の評価はかなり高かったのですね。
H:どうでしょう。ただ、器用ではあると思います。2、3回試せばある程度出来ることが多かったです。モード学園でも、パターンが上手い人はデザイン画が下手とか、得意、不得意があるのが普通なのですが、僕は全体的に平均以上出来たんですよ。
I:何でもすぐに習得されるのですね。
H:でも逆に言えば、器用貧乏だと思います。才能に加えて努力を惜しまなかった宮平君や上木君が、今に至っているのを見ると思います。
I:きっと「羽賀さんが夢中で取り組めば、圧倒的な物を作れる」と周りは思っていたでしょうね。羽賀さんは、海外に行こうと思わなかったのですか?
H:思わなかったです。宮平君や上木君がイタリアに行った時、「僕自身は日本で出来ることがあるんじゃないか」と考えていました。表通りより、一本裏の道を歩きたくなる性格なんです(笑)
洋服のお直し(=オルタレーション)との出会い
I:リングヂャケットをお辞めになってすぐに、お直しの世界に入られたのですか?
H:いえ、以前から面識のあった、博労町にあるビスポークテーラーDMGに声を掛けていただいて、半年ほど働いていました。でも、自分で服を作る方に気持ちが動いて、悩みましたね。その時僕は29歳で、結婚を意識する年頃でしたし、親を安心させたいという思いもあって、これから修行生活をすることは出来ないと思って。
I:修行と言うと、ほとんど丁稚奉公みたいな形になってしまいますもんね。
H:はい。それで駄目元で試してみようと、知人や友人から依頼を請けて、材料代だけ貰って自分の服を作ることにしました。当然、それでは生活が成り立たないので、他に仕事が必要で、その時ふと頭に浮かんだのが心斎橋リフォームでした。
I:心斎橋リフォームとも面識があったのですか?
H:いや、まったく。でもリングヂャケットにいる時から、僕がジャケットの手穴の手本にしていたのが心斎橋リフォームの職人の仕事でした。
紺の糸で施されているのが、心斎橋リフォームのベテラン職人の手仕事。
H:紺色の方が、ベテランの職人がされたものです。この方は残念ながら、数年前に他界されたのですが。
I:これは手仕事ですか?
H:そうです。綺麗すぎてわからないですよね。この手本のことが頭にあって、働きたいと思って電話したら、社長がフランクな方で、すぐに「おいで」って言ってくれました。
I:現場では、テーラーとの違いを感じましたか?
H:はい。仕事の進め方がまず違いました。リングヂャケットでは、例えば襟付けを担当している時は、襟付けだけをしていました。1年で一生分じゃないかという量です。それぞれが担当している工程のスペシャリストになりますし、完成品の質も上がるので、ファクトリーとしては理に適っています。
I:心斎橋リフォームは分業制じゃなかったのですか?
H:違いました。ベテランの職人が黙々とそれぞれの仕事をしているという感じでした。初日から仕事を任されたのですが、その日は結局2着分しか仕上げられませんでしたし、雰囲気に圧倒されて、質問さえ出来ませんでした。これまで服を作ってきたから、お直しも出来るだろうという自負があったので、この時、人生初めての挫折というか、頭をバコーンと殴られたような衝撃を受けました。30歳くらいの時ですね。
I:羽賀さんにとって、お直しの仕事自体が難しかったということですか?
H:はい、当時は難しかったです。完成品を解いて、加工して、元に戻すのに、想像以上に手間取りました。自分の服を作ることを目指していた僕にとっては、思いもよらないところで躓いたので、悔しかったです。
I:仕立てとお直しは、似て非なるものだったのですね。
H:はい、考え方から違います。スーツを作る時は、10の工程があるとすれば、1から順番に作業していくのですが、お直しはいきなり6番目の工程から始めるようなことばかりです。それも10から6に遡ると時間が掛かり過ぎるので、最初から6の工程に入らないといけない。
I:常に新しい課題がありそうですね。
H:僕にとってはそれが良かったのかもしれません。経験と共に技術の引き出しはどんどん増えていくけれど、同じ仕事を繰り返すことはないので、毎回どういう方法でやるか考えます。だから飽きずに今も続いているのだと思います。
I:どのタイミングでお直し一本でやっていこうと決められたのですか?
H:心斎橋リフォームに入って6年目の時です。それまでは、仕事の傍ら自分の服を作り続けていました。
I:何かきっかけとなる出来事があったのですか?
H:服作りで、理想を実現したというのがあります。以前から、人体をデッサンするようにパターンを引けたらかっこいいなと思っていました。というのも、日本のジャケットの作り方とイタリアのジャケットの作り方では、日本画と西洋画くらいの違いがあって。簡単に言うと、起点が平面か立体かという差です。それで、一度自分で考えたやり方で、立体を基に、布に直接パターンを引いて試してみたら、「かっこいい」と言ってもらえるものが出来て。ひとつ納得のいくものを作り上げた時に、不思議と未練がなくなりました。
I:なるほど。
H:もうひとつは、宮平君や上木君、僕の後にリングヂャケットに入った東徳行(ひがし のりゆき)君が活躍しているのを見て、彼らと肩を並べるのではなく、他の道に行こうと決めたからです。この頃には、お直しの分野で僕なりに「既存のやり方のここをこう改善したい」という考えが固まっていましたし、僕が思う理想を形にしているところが他になかったので、可能性を感じました。
袖とツキジワ(首の後ろの部分)を直してもらった。なで肩に作られたジャケットなので、そこまでいかり肩でない私でもツキジワが出ていたが、 滑らかにストンと落ちるように綺麗に補正してもらった。また、袖口もシャツが1cm出るように、左右の腕の長さを考慮しながら補正してもらった。 今回は、比較的誰にでも起こるシンプルなお直しだったが、難易度が高ければ高いほど、羽賀さんの腕の良さが顕著になる。
Laboratrioとしての独立。そして、これから向かう未来とは?
I:お直し一本でやると決められた時から、独立は視野にあったのですか?
H:いえ、そういうわけではないです。心斎橋リフォームでは、最終的に工場長のような立場に就かせてもらって、やり甲斐を感じていました。当時はスーツよりも、レザーやダウンジャケット等、カジュアル寄りの重衣料を担当していましたが、これも仕立ての経験があったからこそ出来た仕事で、培ってきたものを活かせていました。ただ、組織ならではの難しさにも直面しました。職人がお客様の声を直接聞けないのが、歯痒かったです。当時から、同じ職人が接客から納品まで責任を持って対応するのが理想だと考えていました。
I:そこから今のお店の形が出来たのですか?
H:基本的にはそうですね。実は、心斎橋リフォームを辞めてから、独立までの準備期間が2年ほどあって、以前もお世話になったビスポークテーラーDMGに間借りして、お直しをしていました。
I:満を持して独立されたのですね。では、羽賀さんが同職で尊敬されている方はいますか?
H:お直しを始めた頃は、自分以外の職人は全員参考にしていました。お客さんの服を解いた時に、同業者が直した痕跡が残っている時があるのですが、それを見て研究していました。僕自身は、同業者が見ても、解くまで直していると悟られないクオリティーを目指しています。
I:今、羽賀さんご自身は、そのレベルにいると言えそうですか?
H:どうでしょう、一言に服と言っても色々な分野があって、例えばデニムとかニットとか、特別な技術が求められるので。でも、自分ではクオリティーもスピードも、悪くはないと思っています。
I:敢えて伺いましたが、間違いなくそうだと思います。だから、僕はいつも羽賀さんにお願いしています。
H:お直し屋さんはたくさんありますが、服のことをわかって、服が好きでやっているところは少ないように見受けられます。そういうお店が、お客さんに信用してもらえる仕事を出来ているのか、高い志を持っているのかという疑問がありますね。例えば、ジャケットの袖丈を直す時、僕は一度肩を解くことが多いのですが、これも服の構造をわかった上でやらないと、めちゃくちゃになってしまいます。
I:羽賀さんはいつも、高いレベルのことをサラッとされますね。以前雨降り袖をお願いした時も、綺麗に仕上げてもらいました。
H:ありがとうございます。既製のS.M.L展開の服をただ買って着るだけじゃなく、少し手を加えるだけで、その人にとってダントツで良いモノになるということを知ってもらえたら、と思って仕事しています。一度うちで直したお客さんがまた来てくれた時は、自分のしていることは間違ってないと思えますね。
I:それは嬉しいことですね。では、お店として今後の目標はありますか?
H:「あそこに持っていけば間違いない」と言ってもらえるお店を目指したいです。ロールモデルは、靴修理店のユニオンワークスさんです。クオリティーの高さはもちろんですが、さきがけですし、ブランドも確立されているところが理想的です。
I:最後に、今のお仕事は好きですか、嫌いですか、それとも愛していますか?
H:好きです。お客さんが喜んでくれて、着用時の見え方も変わっていると、役に立てたと思って嬉しいです。あと、服を通してその人の歴史を感じられる時があって、それもこの仕事の魅力です。先日も亡くなられたお父さんのコートを、娘さんが着られるようにして欲しいというご依頼をいただいて、職人冥利に尽きるなと思いました。
これからも、お客さんが言葉にしない部分も汲み取った、求められる以上の仕上げを目指していきたいと思っています。
羽賀さん自作のトートバッグ。趣味のキャンプで大活躍するそうだ。 古いテントの生地を張り替える計画もあるという。
本物のクラフトマンが備える、センスの根源とは?
今回お話しを伺い、お直しに惹かれたきっかけが「思いもよらないところで躓いたから」というのは、自分が納得できるかどうかを基準に進む、羽賀さんらしさがよく出ているエピソードだと思いました。
一点に固執するのではなく、更なる可能性を求める姿勢があるからこそ、お客様の要望を受け入れ、それに応じて新たな方法を生み出すことが出来るのだと思います。豊富な知識と、一流のファクトリーで研鑽した技術力は言うまでもありませんが、「職人、羽賀友一郎」のセンスの根源は、既存の価値観に縛られない柔軟性ではないかと思いました。
ーおわりー
Laboratorio
高校卒業後、古着屋でのアルバイトを経てモード学園に入学、4年間のカリキュラムを修了。卒業後は依頼を請けて服を作る。
リングヂャケットのファクトリーで3年強勤め、襟周り、肩の地縫い及びしつけを担当。心斎橋リフォームに入社後、工場を取りまとめる重要なポジションに就き、計9年間勤める。
2016年大阪、北浜の國登録有形文化財である船場ビルディングに、お直し(オルタレーション)専門店Laboratorioを構える。屋号は、お直しを始めた当初からの、様々な依頼に応じて実験のように試行錯誤を重ねてきた経験と、常により良い方法を探求する姿勢を反映している。イタリア語的な表記には、イタリアの手仕事の文化への尊敬と憧憬が込めてられている。
終わりに
羽賀さんからお話しをじっくりと伺ってみて、改めて飾らない人だと思いました。職人としての自負を十分に感じさせながらも、自身の短所も長所と同じように話す姿は、小気味よいくらいでした。
服だけでなく、布に関係することならば何でも、羽賀さんは器用にやってのけるのだろうなと思いました。