ビスポークテーラー「Sartoria Raffaniello」 ――不撓不屈の職人 ――

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文・写真 / 石見豪

インタビュー第5弾は、Sartoria Raffaniello(サルトリア・ラファニエッロ)代表、テーラーの東徳行(ひがし のりゆき)さんを訪ねました。
ストラスブルゴの専属テーラーとして、その名を知る読者も多いと思います。是非彼に誂えてもらいたいというファンを世界中に持つ、人気の職人です。
そんな氏が遂に独立し、先月10月、大阪・北浜の船場ビルディングにビスポークテーラーをオープンされました。
今回のインタビューでは、ストラスブルゴで展開していたレーベル「Sarto Domenica(サルト・ドメニカ)」ではなく、ラファニエッロを屋号にした背景や、職人同士の横の繋がりに触れながらも、人となりを中心にお話を伺いました。
芸術大学を卒業し、リングヂャケットに7年間勤め、本場ナポリでの修行を経て、ストラスブルゴの専属テーラー、そして独立へ。いかにも順風満帆に見える、その裏側にもフォーカスし、センスの根源を探っていきたいと思います。私自身の経験や思いと重なり、話に耳を傾けながら涙腺が緩むのは、初めてのことでした。

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高校時代からリングヂャケットでの7年間。

自身の店舗兼アトリエで仕事をこなす東徳行さん。店舗を訪ねて、テーラーの技術を眺められるは嬉しい。

自身の店舗兼アトリエで仕事をこなす東徳行さん。店舗を訪ねて、テーラーの技術を眺められるは嬉しい。

石見(以下、I):ファッションに興味を持ったきっかけは、何ですか?

東氏(以下、H):最初は、いとこから影響を受けました。僕の出身は広島県の庄原市(しょうばらし)で、いわゆる田舎育ちなのですが、いとこは都会っ子でした。彼は毎年夏に僕の家に泊まりに来ていたのですが、高校一、二年の時に突然ファッションに目覚めたようで、お洒落について熱く語りはじめて。その話を聞いて服に興味を持ちました。ちなみに、いとこはメンズ・ノンノの街角スナップのコーナーで大賞を受賞していました。

I:すごい。高校生の時から、めちゃくちゃお洒落な方なのですね。

H:そうなんですよ。でも彼と違って、僕の関心は、最初から着ることよりもデザインを考える方に向いていました。

I:それは、何かの影響ですか?

H:ひとつに、既製のものを着ても、痩せ型のいかり肩という体形のせいで、あまり似合わなかったんですよ。あと、僕は野球部だったんですが、監督から「ユニフォームがダサいから変えよう」という話が上がって、ワッペンとか細かい部分のデザインを任されたのも、今思えば大きな出来事です。服のデザインを考えるのが楽しいと思うようになったし、野球部内でもユニフォームの話題で盛り上がって、メンバー同士で「あの高校のユニフォームはこうだよな」と議論していました。

I:面白いですね。プレイよりもユニフォームを見ているという。(笑)

H:はい。(笑)そんなこともあって、卒業後の進路を考えた時も、すぐに服のデザインを学びたいという結論に至りました。

I:プロフィールを拝見すると、宝塚造形芸術大学を卒業されていますが、服飾の専門学校ではなく、芸術大学を選ばれたのはなぜですか?

H:子供の頃から絵画が好きだったので、昔から漠然と芸術関係の職業に就きたいと考えていました。更に何の分野を専門にするかという部分が、高校時代に焙り出されてきて、芸術大学のファッションデザイン学科を選んだ、という感じです。大学の方が色んな分野の学生と関われるし、4年間しっかりと勉強できるのも魅力でした。

I:なるほど。先に芸術への興味があったのですね。大学では、具体的にどんなことを学ばれたのですか?

H:レディースの洋服を勉強しました。入学当初は「デザイナーになれたら良いな」と考えていたのですが、友人が着ていたジャケットに惹かれたのをきっかけに、どんどん紳士服の方に興味が移っていきました。

I:それはいつのことですか? 

H:一年の終わりか、二年の頃です。振り返ってみれば、そのジャケットは襟が尖った特殊な形の、今の僕とは全く違う方向性のものでしたが、当時は良いなと思いました。影響されて、大学の課題はドレスのデザインなのに、ずっとテーラードジャケットのことばかり考えていて。友達からも「お前はテーラードジャケットばっかり描きすぎや」と言われていました。

I:現在の片鱗がうかがえるエピソードですね。そんな中、卒業後はレディースの会社に就職されていますが、経緯を教えていただけますか。

H:大学で専門的に勉強したのは、あくまでレディースだったので、最初はどの紳士服の会社にどうやって入れば良いのか、わかりませんでした。それに当時はちょうど就職氷河期で……。

I:僕もだいたい同時期に社会に出た人間なので、よくわかります。

H:大学の友人も過半数は、就職できていない状態でした。僕も「なんとか服飾の仕事をしたい」と何社も受けて、最終的に採用してもらえたのがその会社でした。

I:その会社からリングヂャケットへの転職に至るまで、どんな展開があったのですか?

H:最初に就職した会社が福利厚生の一環で、繊研新聞を購読していて、毎日読んでいたら、たまたまリングヂャケットの記事が出てきました。ちなみに記事には、現サルトリア・コルコスの宮平康太郎(みやひら こうたろう)君がプレスを当てている写真も載っていたんです。

I:なるほど。そこから繋がるわけですね。

H:はい。記事には、リングヂャケットでは「イタリアに追いつけ追い越せ」の精神で、ボタン着けひとつまでこだわって紳士服を作っていることや、工場長の金子さんが日曜日に金子塾を開いて、若手にジャケットの丸縫いを教えていることが書かれていて。それで「ここだ!」と確信しました。結果的にレディースの会社は1年足らずで辞めることになりましたが、思い切って飛び込みました。

I:リングヂャケットには7年間勤務されていますが、さっき名前が挙がっていた宮平さんや、現サルトリア・チッチオの上木規至(うえき のりゆき)さん、前回インタビューさせてもらった現Laboratorioの羽賀友一郎さんも一緒に働かれていたそうですね。

H:はい。僕を含め、4人が一緒に働いていた期間が3か月くらいありましたね。今思えば貴重な思い出です。

I:すごいメンバーですね。東さんは、当時はどのようなお仕事をされていたのですか?

H:プレス機(アイロン掛け)に始まり、前返しと言われる工程から、裾をまつるミシンを使った工程等、パーツごとに色々していましたね。最後の数年は、肩しつけと呼ばれる最も重要な工程を任せてもらっていました。でも工場なので、出来ることはある程度限られていたのですが。

I:その間も、同時進行で日曜の金子塾で学ばれていたのですね。

H:はい。僕にとっては、それが一番の目的だったと言っても過言ではないです。仕事は仕事として1日の決まった量をきちんとこなして、日曜日に丸縫いを習って、休日にそれを反復してという日々でした。

I:丸縫いの習得にはどれくらいの期間掛かりましたか?

H:2年目には一応出来るようになっていました。残りの5年間は、いかに仕事の効率を上げて、早く家に帰って、自分の洋服に向かう時間を作るかを、ひたすら追求していましたね。

渡航までの劇的な展開と、ナポリでの90日間。

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東さんが作るスーツには、見た目のカッコよさだけでなく、”雰囲気”を身にまとっているように感じられる。

I:そんな中、海外に目を向けるようになったのは、何か葛藤があったからですか? 例えば、これ以上同じ環境にいるのは、頭打ちだと感じられたとか。

H:そうですね。イタリアでの修行を終えて帰ってきた上木君が作った服を見て、自分はまだまだだと思い知らされたことが、最初の転機ですね。それまでは、ある程度のものが作れるようになったと、そこそこ満足していたのですが、すべて覆されました。上木君の服を細部まで繰り返し見せてもらって、見よう見まねで肩や袖の手縫いを試しましたが、全く再現できなくて。

I:本場の高い壁があったのですね。

H:はい。上木君はリスクを背負ってイタリアに渡って、向こうで4年も苦労して今の服に辿り着いたのだから、変わらず日本にいて、会社に守られながら服を作っている自分が、彼に追いつけるはずがない。自分もナポリで修行するしかないと思いました。

I:他のインタビューでもお話しされていましたが、ナポリでの修行は、上木さんからアントニオ・パスカリエッロ氏に紹介してもらい、実現したそうですね。

H:はい。上木君からの紹介がなければ、弟子入りは実現していなかったです。親方は、ナポリの著名なサルトの間で高く評価されている職人なのですが、メディアへの露出も少ないし、お店もナポリの郊外にあるアパートの一室で、看板も上げずにやっているので。

I:まさに知る人ぞ知る職人なのですね。イタリアに渡る話は、すぐに決まったのですか?

H:この時のことは忘れられません。元々は妻も一緒に行って、もっと長く向こうにいる予定だったのですが、渡航準備もほとんど済んで、会社にも「辞めます」と伝えた翌日に妻の妊娠がわかって。

I:劇的ですね。

H:結婚当初から子供は欲しかったのですが、中々授からず、それならそれで、2人だからこそ歩める人生もあるはずだと考えて、夫婦でイタリアに渡ろうと決めたので、いざ出発するタイミングで妊娠するなんて、なんという天の悪戯だろうと思いました。これから子どもが産まれるのに無職になり、身重の妻を1人置いてイタリアへ修行に行くなんて考えられなくて、一度は渡航を諦めようとしたんです。でも妻が「今回を逃したら、もう二度とこんなチャンスはないと思うから行ってきて欲しい」と後押ししてくれました。

I:素晴らしい奥様ですね。

H:はい、良き理解者です。それで、パスポートで滞在出来る日数の90日間だけ、ナポリに行く事にしました。仕事の引き継ぎを終えて正式に退社し、出発する時には、妻は妊娠5ヶ月でお腹も膨らみ始めていました。今思えば本当に無茶な事をしたなと思います。帰国した10日後に子どもが産まれたので、まさに綱渡りでした。

I:90日間と言うと、修行期間としては短いと捉える人もいると思いますが、僕はそんなに簡単に計れるものではないと考えています。ちょっと妙な例えかもしれませんが、イチロー選手が日本の野球界で活躍してからメジャーに渡り、アメリカでもすぐに結果を出したように、本場へ飛び立つ時点で高いレベルにいることが重要なのだと思います。そうでなければ、ナポリに行ったところで、わからないことが多過ぎて腑に落ちないし、上手く吸収できないと思います。

H:正直なところ、90日しか向こうにいなかったことを負い目に感じているので、そう言ってもらえると有り難いです。でも確かに、もし何も知らない状態でイタリアに行っていたら、比較するものがないから、本場のやり方のどういうところが優れているのか、わからなかったかもしれません。リングヂャケットでマシンメイドのやり方を学んだ上で、じゃあ、ナポリのハンドメイドはどう違うのか知りたいという、はっきりとした目的を持てたのは、良かったと思っています。

I:だから、以前のインタビューで「本が1冊書ける」とおっしゃったくらい、たくさんのことが吸収できたのですね。

H:本と言っても「ナポリ仕立ての全て」と題付けできるほどの内容ではないのですが。工程ごとに――肩縫い、芯据え、芯作り、襟付け、袖付け――学びたいポイントを明確にしてからイタリアに渡りましたが、持って行った課題はすべてクリアできました。むしろ想像以上に、多くの技法を見ることが出来ましたし、目から鱗が落ちるような発見の連続でした。それでも、もっともっと学びたいと帰国する日まで思っていましたが。

イタリアの親方から学んだ技術は、現在も色濃く反映されている。

イタリアの親方から学んだ技術は、現在も色濃く反映されている。

I:お話しを伺っていて、実は、東さんは物凄く効率の良い方法で学ばれたのかもしれないと思いました。

H:そうだったら良いなと思います。

I:イタリア人から学び、一緒に働く上で、何か日本人との違いを感じましたか? 

H:向こうの職人は、何でも包み隠さず教えてくれるという印象を受けました。日本では、何年も丁稚奉公してようやく伝授されるところがあるかと思いますが、イタリア人は初めから「好きに見て良いよ」というスタンスでした。

I:かなりオープンなんですね。価値観の違いを感じます。

H:そうですね。親方も、限られた時間の中で何としても全て見て帰りたいという、僕の気持ちを理解してくれていたようです。親方が芯据えしているのを、自分も作業しながらチラチラ覗き見していたら、親方の方から「傍に来て見なさい」と言ってくれたこともありました。そんな時はじーっと見て、ひたすらメモを取っていました。

I:ナポリにいる間は、朝早くから夜遅くまでアトリエで作業して、宿でも朝方まで生地と向き合っていたと、これまた別の記事で拝見しました。宿にミシンがなくて、試しに全て手縫いで仕上げたのが、今のスタイルの源流になっているのですね。

H:はい。元々手縫いは好きだったんですが、全て手縫いでやろうとは考えていませんでした。でも、そういう状況に追い込まれて、親方から教わった方法を取り入れながら、自分なりに仕上げてみたら、今までで一番好きな服が出来ました。

親方との一枚は、作業台のよく見える場所に置かれている。

親方との一枚は、作業台のよく見える場所に置かれている。

帰国後、ブログ「Sarto Domenica(サルト・ドメニカ)」とストラスブルゴ

I:帰国されてから、一時は他業種の企業に勤められていたそうですね。成功者の話は、苦労した時間が短縮されて、あたかも全てがスムーズに進んだかのように語られることが多いので、今回はその典型にはまらずに、敢えてサラリーマン時代についても伺えればと思います。

H:少し時間をさかのぼってお話しすると、イタリアに渡る前から既に景気が傾いていたので、高いスーツが売れない時代に、ハンドメイドのスーツの製法を学ぶ意味なんてあるのかという不安はありました。でも、むしろ今だからこそ動くべきだと思って、腹をくくりました。

I:そこでリスクを負わないと、得られないものがあると考えたのですね。

H:はい、そうです。だから、帰国してから厳しい状況になるのは、ある程度予想していました。……が、現実は更に厳しいものでしたね。当時はリーマンショックの真っ只中で、想像以上に景気が悪化していました。

I:いわゆる未曾有の不況のさなかですよね。

H:はい。業種に関係なく、仕事がない状況でした。僕自身、イタリアで3カ月修行したからと言って、すぐに独立して「私、テーラーです」と公言できるとは考えていなかったし、もっと経験を積む必要があると思っていたので、何軒も国内のテーラーの門を叩きました。でも「注文も入らないご時世に、ハンドメイドなんか話にもならない」と、全く相手にしてもらえず。その時はもう子供も生まれていたし、働かないわけにはいかないので、サラリーマンになったという流れです。

I:僕も生活のために靴磨きと並行して他の仕事をしていた頃もあって、1日でも早く本業にしたいということばかり考えていました。同時に、理想とかけ離れた場所にいる時にこそ、現状をどう捉え、どう行動するかが問われると思っていました。東さんはサラリーマンをしている期間、どんなことを考え、どんな風に過ごされていましたか?

H:身に着けた技術を無駄にしたくないという思いは、ずっとありましたね。有り難いことに、コッチネッラの中條敬(ちゅうじょう たかし)さんから、丸縫いの注文をいただいていたので、勘が鈍らないように、必死で下請けの仕事をしていました。本業に出来ていないことを情けなく思っていたのですが、諦めずに続けていれば必ず糸口が見つかると信じて、目の前のことに取り組んでいました。

I:伺っていて、共感する部分が多いです。ひとつ気になったのですが、中條さんは、以前からお知り合いだったのですか?

H:はい。僕がイタリアに渡る準備をしていた時期に初めてお会いして、色々と相談に乗ってもらいってました。それ以来、ずっとお世話になっています。

I:そうなのですね。

H:はい。でも一度だけ、中條さんからの下請けの仕事が途切れた時期がありました。その時は、本当にどうしようか悩みましたね。このまま縫う機会もなくなって、人知れず終わってしまうのなら、たとえ悪あがきになっても、何もしないよりは良いと思って、始めたのがナポリで学んだ技術を紹介するブログでした。文章にまとめることで知識を整理したかったし、ブログを読んだ誰かが「イタリアに行ってみたい」とか「職人になりたい」と思ってくれたら、自分の経験も無駄にはならず、少しは人の役に立ったことになるだろうと考えたんです。

I:そのブログの名称が「サルト・ドメニカ」だったのですね。

H:はい。ブログを始めるのに、タイトルと自己紹介文が必要だったのですが、サルトリアを名乗るのはおこがましいから、何か別の自分に見合った肩書きはないかと考えていました。そんな時、久しぶりに会った友人から「もう服は作っていないの?」と聞かれて、「今は空き時間に作っているから、日曜大工ならぬ日曜サルトだね」と自虐的に答えたのが、ぴったりの名前だと思って。
*ドメニカは、イタリア語で「日曜日」の意味

I:カッコいい響きでありながら、実は当時の東さんの境遇を表していたのですね。では、ブログで発信するだけでなく、実際にお客さんから受注するようになるまでに、どんな展開があったのですか?

H:ブログを始めてから少しして、中條さんからの仕事がまた入るようになりました。しかも、その注文が「全部手縫いでやってくれ」というものでした。それを機に、ブログでも総手縫いのやり方を紹介したら、フォロワーが一気に増えて、個人的な注文が入るようになって。「サルト・ドメニカ」という名前が独り歩きしていったという感じです。当時は、仕事して帰ってきてブログを書いて、服を作って少し寝てまた仕事に行ってという毎日で、我ながらよくやっていたなと思います。

イタリア修行の帰国後、苦しい時代を乗り越え、2017年に自身のアトリエを開店。

イタリア修行の帰国後、苦しい時代を乗り越え、2017年に自身のアトリエを開店。

I:どれくらいの期間、そういう生活をされていたのですか?

H:だいたい4年ですね。

I:4年! 正直なところ、予想していたよりも長いので、驚きました。まさに今、夢の実現の一歩手前にある人には、大きな励ましになると思います。では、その期間を経てストラスブルゴに入社されたのは、どんな経緯だったのですか?

H:ブログ上で、ストラスブルゴに所属されている山神シャツの山神正則(やまがみ まさのり)さんと知り合って仲良くなり、一緒に食事に行く機会がありました。その時に、今後僕はどうしていきたいのかという話になって。サルト・ドメニカも4年目で、二足の草鞋を履いているのが体力的に辛くなってきたことや、休日に作るだけでは技術的な進歩に限界があること、一方で2人目の子供も生まれて、今すぐ独立するような見切り発車は出来ないという現状について、率直に伝えました。そしたら、山神さんが上層部の方に僕の話をしてくれたようで、そこから話が進みました。上層部の方とも会って話して、僕が総手縫いをする職人だと理解した上で採用してもらいました。

I:他業種の会社をお辞めになり、ストラスブルゴに入社されてからは、年10着作っていたのが100着へと大幅に増えましたが、数を熟すことで見えたことはありましたか?

H:はい。お客様の数が増えることで、ありとあらゆる体形の方に合わせて作るようになったので、フィッティング、いわゆる型紙を作る技術が飛躍的に伸びました。

I:経験からしか見えてこない部分があったのですね。

H:はい、それは絶対ありますね。あと、ティンダロ・デ・ルカピロッツィといった海外の一流サルトが来た時に、直接質問できる機会があったのもすごく良かったです。

I:良い環境だったのですね。

H:はい。自分が成長できるベストな環境が、ストラスブルゴにはありました。

独立、そして今後

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オープンしたての店内は、仮縫いのジャケットと共に、お祝いの花でいっぱいだった。

I:お話を伺っていると、以前から独立を考えられていたというよりは、コツコツと積み上げてきたものが、自然と現在の形になったという印象を受けました。

H:そうですね。僕にとって、独立は目的ではなかったです。むしろ、お店を持つのは手段でしかなくて、満足できる環境で納得のいくものが作れるかどうかが問題ですね。

I:今の東さんにとって最適だと思ったから、この環境、このお店なのですね。

H:はい。初めてこの船場ビルディングを見た時に、「ここで服を作りたい」と強烈に思いました。

I:お店の屋号を「サルト・ドメニカ」にされなかったのは、やはり自虐でつけた名前だったからですか? 

H:いいえ、自分のお店を持ったら「サルトリア・ラファニエッロ」にしようと前々から決めていました。ナポリの親方につけてもらったニックネームなんです。日本人の名前がイタリア人には覚えにくいみたいで、ある日突然、親方が「お前はラファニエッロだ」と言いだして。(笑)

I:(笑)そう言えば、上木さんのチッチオもそんな風につけられた名前ですよね。

H:はい。チッチオは「坊や」という意味です。実は、僕が弟子入りした時、既に兄弟子である韓国人のジュン・ビョンハ君がチッチオと呼ばれていて、チッチオが2人いると紛らわしいから、僕はラファニエッロになったんです。ちなみに、その兄弟子は帰国して、今はサルトリア・ナポレターナというお店をしています。

I:韓国で有名なテーラーですよね。彼がチッチオで、どうして東さんがラファニエッロになったのでしょう。人名のようですけど。

H:芸術家のラファエロと響きが似ているので、僕も最初は立派な名前をもらったと思っていたのですが、本当の意味は少し違っていたようです。でもその辺のエピソードについては、来店されたお客様にお話しするのに取っておきたいと思います。

I:かしこまりました。(笑)

H:はい。(笑)それで、親方から「日本に帰ったら、サルトリア・ラファニエッロでやっていけ」と言われたのですが、ブログを始めた時は、まだこの名前は早いと思って使いませんでした。ストラスブルゴ時代も含めて7年も「サルト・ドメニカ」でやってきて、変えるのはもったいないと言われることもありますが、未練はないですね。

I:この屋号での出店は、本当におめでたいことなのですね。

H:はい。この間、以前からのお客様が「遂にサルトリア・ラファニエッロになったんですね」と言ってくださって、すごく嬉しかったです。

I:今後、東さんがラファニエッロでも追求していきたいと思う、理想とする服作りとは、どんなものですか?

H:パッと見て「東さんの服って、なんか雰囲気あるよね」と言ってもらえるものを作りたいです。理論に偏ってしまうと、その雰囲気が出ずに、面白味のない、ただ上手いだけの服になるので、緻密に作りながらも、必ず感覚的に決める部分は残しています。

I:では、尊敬している同職の職人はいますか?

H:まず、ナポリの親方はもちろんそうですが、上木君も同じくらい尊敬しています。彼は最高のサルトだと思います。よく「同い年なんだから、超えるように頑張れよ」と怒られるのですが、彼の背中を見てここまでやってきたので、僕にとっては恩人です。いつか東のチッチオ、西のラファニエッロと言われるように頑張りたいです。

I:西のラファニエッロ、良いですね。業種は違いますが、僕を含め、大阪を拠点にしている職人にとっては、東さんが大阪で独立されたこと自体が、励みになっていると思います。

H:そう言ってもらえると嬉しいです。東京と比べるとハンデはあると思いますが、僕は大阪で頑張っていきたいです。

I:最後に、今の仕事は好きですか、嫌いですか、それとも愛していますか?

H:それはもう、愛していますよ。辛い時もありますが、朝から晩まで飽きずに出来るのは、やっぱり愛しているからだと思います。

シンガポールのセレクトショップ、Last & Lapelのオーナー、 Alvin氏も東さんが作る服のファンのひとり。 スーツの美しさがよく伝わる一枚を拝借してきた。 全体にメリハリがあり、ディテールが立体感を出している。 ひと目で良いものとわかる雰囲気が漂っている。

シンガポールのセレクトショップ、Last & Lapelのオーナー、 Alvin氏も東さんが作る服のファンのひとり。 スーツの美しさがよく伝わる一枚を拝借してきた。 全体にメリハリがあり、ディテールが立体感を出している。 ひと目で良いものとわかる雰囲気が漂っている。

東氏のセンスの根源は?

今回、東さんにお話を伺い、最初はまるで小説のようだと感じました。フィクションの中で伏線が回収されるように、一見すると繋がりのない出来事が、後から予想だにしない効果を発揮して、彼をテーラーの道へと後押ししたように思ったからです。
しかし、それは誤解だとすぐに考え直しました。
大学で4年、リングヂャケットで7年、先の見えない中で進み続けた4年、ストラスブルゴで2年。15年以上ひとつのことに向き合い続けて実現したのが、現在の服でありSartoria Raffanielloであるということに思い当たったのです。
東さんは、こだわりを捨てずに邁進してきたからこそ、ナポリでも即座に本質を捉えることが出来たし、理想を形に出来るようになった。はたから見えるのは、本人が見ている景色の断片にすぎないと痛感しました。

職人、東徳行のセンスは、スーツが醸し出す雰囲気が証明していますが、その根底にあるのは、どこまでも理想を追求する、ひたむきな姿勢にあるのだと思いました。

ーおわりー

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リングヂャケット、ストラスブルゴ、そしてイタリア・ナポリで著名な職人であるアントニオ・パスカリエッロ氏の元で修行をしてきた東徳行(ひがし のりゆき)さんが、2017年10月にオープンさせた、本格的なビスポークテーラー「Sartoria Raffaniello(サルトリア・ラファニエッロ)」。
大阪市中央区にある國登録有形文化財に指定されている「船場ビルディング」に店舗兼アトリエを構える。

公開日:2017年11月15日

更新日:2022年5月2日

Contributor Profile

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石見 豪

大阪の船場ビルディング(登録有形文化財指定建物)に構えるカウンター式の靴磨き店「TWTG」のオーナー兼靴磨き職人。 靴磨き職人としてのキャリアは5年以上になり、今までに磨いてきた靴の数は、3万足を超える。2016年には、雑誌GQが毎年発表する「JAPAN ゴッドハンドリスト THE 25 ARTISANS 」にて関西圏の職人として唯一の選出。 靴磨き日本選手権大会2018にて優勝、日本一の靴磨き職人の称号を得る。 Instagramでは、10,000人以上のフォロワーから支持され、日々の靴磨きの活動を投稿中。▶︎ Instagram:@twtgshoeshine_osaka

終わりに

石見 豪_image

お店が目と鼻の先にあるので、東さんとは毎日のようにお話していますが、知れば知るほど面白い方だと感心させられます。意外にも趣味は食べ歩きで、ラーメン好きなところは私と同じです。早速、最近のお気に入りの店を伺うと、二両半だそうで、色々食べた末に原点回帰したとのこと。
もうひとつ驚いたのは、インタビュー第二弾で訪ねた靴職人の長谷川一平さんは、大学の後輩だそうです。世間は狭いです!

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