アート・コレクター棟田響さんより
先日、コートールド美術館展でエドゥアール・マネの傑作「フォリー=ベルジェールのバー」を見ました。イメージは何度も見ており批評も読んだ絵でしたが、絵の力が強すぎて見入ってしまい、しばらく動けませんでした。文脈やコンセプトとかどうでもよくなります。古今の傑作が並ぶ美術館では時折こういう体験をします。千葉さんの作品で、私は2回このような体験をしました。もちろんコンセプトも面白く、見たことのない斬新な絵です。加えて、絵に圧倒的な力があります。千葉さんは着実なキャリアを歩んでいます。様々な美術館が収蔵、展示をしています。この人が世界に羽ばたかなかったら、誰が行くのだろうと思える作家です。
アッセンブリッジ・ナゴヤは千葉さんが描いた絵のようだった
棟田:名古屋の港まちを舞台にしたフェスティバル「アッセンブリッジ・ナゴヤ」に行きました。会場は千葉さんが描いた絵のようでした。まるで村上春樹の小説の中に入ってしまったような。
千葉:会場のつくりが表裏をひっくり返すような構造になっているからかもしれないですね。
千葉正也「アッセンブリッジ・ナゴヤ 2019」展示風景 撮影者:武藤滋生 copyright the artist, courtesy of ShugoArts
千葉正也「アッセンブリッジ・ナゴヤ 2019」展示風景 撮影者:武藤滋生 copyright the artist, courtesy of ShugoArts
千葉正也「アッセンブリッジ・ナゴヤ 2019」展示風景 撮影者:武藤滋生 copyright the artist, courtesy of ShugoArts
千葉正也「アッセンブリッジ・ナゴヤ 2019」展示風景 撮影者:武藤滋生 copyright the artist, courtesy of ShugoArts
棟田:近年は人に指示をする絵を描いていることが多いように思います。その意図を聞かせていただけますか。
千葉:本当にばかばかしいことなんですけど。例えば「このにおいも作品に含まれます。」という作品には「においも作品に含まれます」と書いているんです。ペインティングの中にテキストを書くことで、鑑賞者に匂いを強引に感じさせることができる。例えば、どこか別の会場に「このにおいも作品に含まれます。」が展示されたとします。香水をつけた人が鑑賞者の近くを歩いていたとしたら、その匂いも作品に含まれる。つまり、会場やシチュエーションが変わっても指示しているという機能を永遠に持ち続けるかもしれない。
千葉正也《このにおいも作品に含まれます。》2019, oil on canvas, copyright the artist, courtesy of ShugoArts
千葉正也《こっちにも作品が展示されています。》2018, oil on canvas, 65.2x53.2cm, copyright the artist, courtesy of ShugoArts
棟田:千葉さんが2017年に制作した「みんなで冒険しようぜ #3」には文字が多く書いてあります。
千葉:「みんなで冒険しようぜ #3」は少年漫画のセリフをたくさん引用しているので、特に文字が多くなっています。少年漫画の冒険譚(たん)みたいな言葉が満ち満ちているように描きました。テーブルの側面には戦士・武闘家・魔法使い・僧侶などと書いてあります。この四つの選択肢は「ドラゴンクエスト3」からの引用です。
絵だけを描くより、文字も書いたほうがより直接的に言っているような気がします。トマス・ピンチョン(Thomas Pynchon)の小説はほとんどのページに注釈がついています。索引の世界というか、インデックス化した生物というか。そういう状態を描きたいと思ったときに文字が必要になってくるんです。
千葉正也《みんなで冒険しようぜ #3》2017, oil on canvas, 181.8x259cm, copyright the artist, courtesy of ShugoArts
千葉:あと、カタルシスみたいな要素を入れています。『北斗の拳』のケンシロウの「死すならば戦いの荒野で」とか、ボブ・ディランの歌詞とか。アインシュタインの言葉とか。これらは注釈ではなく、セリフを客体化し物体として扱うイメージです。
棟田:近年の作品の中で、特に印象に残っているものが鏡を見ている絵です。この作品が生まれた経緯をお話いただけませんか?
千葉:アイデアはシンプルで、実物が存在しないペインティングをつくってみたかったんです。鏡に映されたその状態が実物と設定すると、世界中に実物が存在しなくなる。だからインスタレーションでも、作品が部屋の内側を向いていて、鏡の中にいる設定にすると面白いかなと思いました。イリュージョンですからね、ペインティングは。
千葉正也《モーニングコーヒー、湯気 》2018, キャンバスに油彩、鏡、木材, 131x194cm (キャンバス) 150x210cm(鏡), copyright the artist, courtesy of ShugoArts
絵を描く出発点「モノの意味が分からない」
棟田:千葉さんはペインターや画家と名乗られていますが、2018年のgallery αMでのインスタレーションなど、総合格闘技的な作品も制作しています。そのような作品を作る時、ペインターとして絵を描く時とは違う感覚なのでしょうか。
千葉:まったく一緒です。ペインターとしてずっとやっています。ありとあらゆるものがペインティングのモチーフになります。ペインティングにしなかったものは、ペインティングにしなかったものになるだけ。そういう態度でやっています。
棟田:絵は実物を見ながら描きますか。それとも何か別の媒体を通して、例えば写真をもとに絵を描くこともあるのでしょうか。
千葉:写真も撮ります。一生同じ絵を描いているわけにもいかないので。どこかで「この光」と決めて写真に撮り、絵を描きます。色は実物とまったく同じになるようにします。だから実物がないと作品を作ることができません。
棟田:オブジェ全体の解像度を高くするイメージでしょうか。それとも、オブシェのあるパーツの解像度を高くするイメージでしょうか。
千葉:全部見えますよ。例えば、(コップを手に持つ)これを1週間ほど眺めます。そうすると、コップを眺めることが日常になってくる。それで、見えたものを気持ち悪くなってくるまで描いていると、モノが何だか分からなくなってくる。リアリズムの向こう側までいかないと気が済まなくなっています。画家の岸田劉生も同じようなことを語っています。
棟田:絵がすごく上手なのは鍛錬のたまものですか?
千葉:根気があれば誰でもこれくらい絵を描けると思います。僕は自分に見えているように描きたいんです。筆の勢いでサッと描くこともできますけど、ちょっと恥ずかしいというか、飽きたというか。「僕はこういうペインターです」っていう演技をしている気がして。描き始めはすごく興奮して、まるで自分が表現主義のペインターになった感じがして気持ちいいんです。「決まった!」「かっこいい!」の積み重ねである程度まで進めるんです。でも、ふと「本物と比べると違っているんじゃないか」という考えが出てくる。そうすると描いていたものが、自分がただいい気になっただけの痕跡とか、気持ちよかった跡みたいに見えてくる。最近は特にそうなんです。
佐谷周吾(以下、佐谷):絵にEMNと書いてあるでしょう。Every Monday Nightといって、毎週月曜日夜に彫刻のドローイングを26歳の時から今までずっとやっているの。ほとんど行のようなことです。
棟田:海外にいるときもやっているんですか?
千葉:やっています。なにか事情があってできない場合は、「これは先週の分」みたいな感じで描きます。モノをオブジェとしてみたとき、「意味が分からない」という単純な疑問が出発点です。オブジェが何だかを知るために、絵を描いています。
ディスは封印している
棟田:KRS-ONEがすごくお好きでしたよね。
千葉:ペインティングにも描いていますね。
棟田:ラップの歌詞に惹かれているのでしょうか。
千葉:いやいや。有名な曲を知っているくらいです。KRS-ONEは存在が面白いんです。『Wax Poetics』という雑誌のインタビューを読みましたか?「ヒップホップの国ができる」と言っていて、気持ちのいい人だなと。
僕が20歳ぐらいのとき、周りはKRS-ONEみたいな人ばかりでした。KRS-ONEらが結成したヒップホップグループ「Boogie Down Productions(ブギ・ダウン・プロダクションズ)」のセカンドアルバムが出たとき、冷蔵庫に住んでいたという伝説があって。「俺のまわりにもそういう人いたなぁ」と思い出すんですよね。
棟田:作品にも反映していますか?
千葉:反映しています。ヒップホップの引用は実は昔からやってるんです。海外ラップよりは日本語ラップからの引用を積極的にやっています。
棟田:千葉さんは仲のよい作家がたくさんいる印象があります。他の作家から影響を受けることもありますか。
千葉:仲のよい作家からの影響はすごくあります。僕の友達にサイプレス上野というラッパーがいるんですけど、彼がいるから僕はラップをしなくていいと思えるわけです。
棟田:本当は全部自分でやりたいと。
千葉:ミックスアップすることも、関係を切ることも、色々含めて友人とのネットワークは重要だと思います。内輪ノリというか、友達ノリのような作品があったほうがいい。どういう育ちでその人が形作られているかがわかるような。僕は、超内輪ネタのほとんどの人がわからないであろうことを明確に描いています。
千葉正也《大自然 #2》2013, oil on canvas, 88x143cm, copyright the artist, courtesy of ShugoArts
千葉:これは「大自然」というタイトルの作品です。
この絵を描いているとき、地元の知人が酒を飲みすぎて、バーで暴れて乱闘になり瓶で頭を殴られて流血したんです。次の日、バーに謝りに行って。それをバーのマスターが写真に撮ってInstagramにあげていたんです。「みんな悪かった」みたいな。その様子も意図的に作品に入れています。
バーのアカウントは300人ぐらいからフォローされているから、謝っている写真を見た人は世界に100人くらいいると思うんですけど、その写真を見たことがある人以外、わかるわけないじゃないですか。
棟田:内輪ネタも作品に入れていると。話はすこし逸れるのですが、これはしないと決めていることはありますか?
千葉:ディス(相手を否定する、または侮辱すること)です。ヒップホップはビーフ(ラッパー同士が楽曲を通してディスりあうこと)が基本じゃないですか。相手をののしる。僕もビーフみたいな作品をつくろうかなと思ったんですけど、禁じ手にしています。
棟田:誰に対してビーフを仕掛けようと思ったんですか?
千葉:いやいや、誰とかないんです。個人的に誰かを攻撃するペインティングもできるし、アイデアとして面白いかなとか思ったんですけどやらないようにしています。でも、そのうちするかもしれません。
棟田:攻撃対象は、例えば政治的なこととかですか。
千葉:政治的なことも個人攻撃もどっちもありだと思います。近所のおじさんの悪口がペインティングになっているとか、面白いじゃないですか。
棟田:有名なアジアのアートコレクターの絵を描いてる作家がいるのですが、完全にディスなんです。そのコレクターがブースに来て、絵を見たらどう思うんだろうなと。
千葉:作家のチャップマン兄弟もギャラリストのディスをしていますよね。そういうのがプロレスとして成立すれば面白いけど、成立していないレベル、例えばコンビニの店員とかでもいいかなと。でも、多摩美術大学で担当教授だった辰野登恵子さんから「表現すべきことと、表現すべきじゃないことを考えてください」と教えられたので、いまは封印しています。表現すべきじゃないことを明確に持っていないと、ヤバいと思うんです。
終わっていくニュータウンはF-ZEROみたいな空間だった
棟田:2009年に美術評論家の松井みどりさんがキュレーターを務めた展覧会「ウィンター・ガーデン」に出られています。
千葉:ウィンター・ガーデンでは松井みどりさんとたくさん話しました。メールで質問と松井さんの考えていることが送られてきたんですが、文章量や熱量がすごくて。「すごい人がいるんだな」と感動して。すごくポジティブに作用しました。
棟田:どのような質問をいただいたのですか?
千葉:「どうやって構図を決めているのか」「どういうカルチャーに影響された」とか。「好きなテレビゲームのタイトルを書いてください」という依頼もありました。
棟田:何と答えたのですか?
千葉:そのときはF-ZEROと答えました。
(C)1990 Nintendo
棟田:F-ZEROですか。
千葉:F-ZEROの空間が、生まれ育った郊外の様子に重なって好きなんです。僕は横浜のニュータウンで生まれ育ったのですが、とりとめのない暴力的な出来事がある。終わっていくニュータウンはF-ZEROみたいな空間だったんです。僕はF-ZERO的な空間のほうにいたんだなと思っています。僕にとっては、F-ZERO的な空間のほうが正しいというか、正確なものというか。
僕はオブジェが存在する事を歴史が担保して支えているように考えているのかもしれません。例えばプラスチック製のコップがあったとして、歴史が全く無いニュータウン的、F-ZERO的な空間では、コップの存在が担保されないどころか、その存在自体が削られてマイナスになってしまうように感じます。
棟田:F-ZEROみたいな空間だったという、千葉さんが生まれ育った横浜のことについてお話していただけませんか。
千葉:中学の先生は、サウンドインスタレーション作家の角田俊也さんでした。買ったCDを角田さんに見せると角田さんがコメントをくれる。そのやりとりを通し、自分が感動することの延長にサウンドインスタレーションがあることを認識しました。
高校は横浜高校に進学しました。スポーツがすごく強い学校で、野球選手の松坂大輔がいました。当時は不良がすごく多くて。それで自分に何ができるかを考えた時、アートが一番好きだったんですよね。救いというか。『美術手帖』でラリー・クラークが特集されている号があって、注射器が写っていたり、すごく悪そうな男女が裸でいるのを見て、「俺の日常だ。これが俺の日常だよ」と思いました。
棟田:その後、多摩美術大学に進学されるのですね。
佐谷:大学に入学したころは河原で小屋をつくって火をつけたり、悪いことばっかりやっていたよね。
千葉:「カルビハウス」ですね。(作品を見ながら)古いな、画質が。まさかこれを発表することになるとは思っていなかったな。
佐谷:ときどき「クックック」と笑っている声が入っていて。「けしからん!」みたいな(笑)。
千葉:今も全然変わらないですけどね(笑)。
世界中でメンバーを探すペインティング
棟田:最近、ヨーロッパへ行ってらっしゃったとお聞きしました。何か面白いことはありましたか?
千葉:いっぱいありました。スイスのパウル・クレー・センターはすごくよかった。あと、ドイツのケルンにあるクンストフェラインでやっていた、ジェイ・チュン&キュウ・タケキ・マエダ(JAY CHUNG & Q TAKEKI MAEDA)の展示「The Auratic Narrative」。あんなの見たことなかった。回顧展みたいな構成だったんですけど、すごくいい展示でした。
ケルンにあるカトリックの人たちが運営している美術館「聖コロンバ教会ケルン大司教区美術館」の天井も面白かった。建物はスイスの建築家「ピーター・ズントー(Peter Zumthor)」が手がけたんです。ローマ時代や中世の遺構の上に美術館を繋ぎ乗せています。その美術館では中世美術と、現代美術のコレクションを混ぜて展示してるんですけど、その見せ方も秀逸でした。コロンバのような展示が日本でもあったらいいですね。サイプレス上野の話じゃないですが、「現代美術は切り離されてないよ」って、誰かが言ってくれるような。
オルタナティブスペースにもたくさん行きました。アーティストが運営し、アポイント制で週末だけ開ける、オフ・スペースというスタイルがヨーロッパでは主流になっています。仲間みたいな顔をしてオープニングに混じったりしました。副業をしながらでも運営ができるので、オフ・スペースはリスクが少ないんです。日本でも増えています。僕がオープンスタジオをやっているのはそういう意味もあります。
棟田:最後に、今後の作品制作について考えていることを教えていただけますか。
千葉:ペインティングをちゃんとやりたいです。ペインティングだけで、いいものを作りたいです。今度、香港のレジデンスで新作を作ろうと思っています。「世界中でバンドメンバーを探す」というアイデアで香港が「ドラマー編」になる予定なんですけど、どうなるか全然分からないです。出会い次第だから。
棟田:ヨーロッパでも集められたらよかったですね。
千葉:そうですね。香港の次はアメリカに行く予定です。
—おわり—
終わりに
「イリュージョンですからね、ペインティングは」
「実物がないと作品を作ることができません」
「例えば、(コップを手に持つ)これを1週間ほど眺めます。そうすると、コップを眺めることが日常になってくる。それで、見えたものを気持ち悪くなってくるまで描いていると、モノが何だか分からなくなってくる」
さて、千葉さんの絵とは何であろうか?
アメリカの美術批評家クレメント・グリーンバーグは、1960年に発表した批評『モダニズムの絵画』の中で、絵画の純粋性を担保するのはその平面性で、そこにイリュージョンが生まれるためには、視覚性=オプティカリティが重要だと論じた。千葉さんがこの視覚性によって生まれるイリュージョンを求めていないのは明らかだ。
一方でグリーンバーグは、モンドリアンを槍玉に挙げて、図と地の対立、コンポジション、色の対比すら否定した。絵画らしい絵画はすべてダメだと。この主張をリテラル=文字通りに解釈するとミニマリズムになってしまう。図と地の対立といった絵画内部の形態をすべてなくして、外部のフレームだけを即物的に物体として提示すればよい。そこには絵画も彫刻もない、原初的物体=プライマリー・オブジェクトがあるだけだ。アメリカの美術批評家マイケル・フリードは、1967年に発表した批評『芸術と客体性』の中で、ドナルド・ジャッドやロバート・モリスの作品が持つ物体=客体=オブジェの「文字通り」の状態を指摘し、敢えてこれをミニマリズムではなくリテラリズムと呼んだ。
私はこのミニマリズムと同じ志向を持ちながら、「絵画→オブジェ」とは真逆の「オブジェ→絵画」というベクトルで描かれているのが千葉さんの絵だと考えている。絵画を究極まで突き詰めた結果現れるのがミニマリズムのオブジェならば、オブジェを究極まで突き詰めた挙句に描かれるのが千葉さんの絵だ。それでいて千葉さんの絵は、リアリズム絵画と見まがうばかりのオブジェに忠実な「見た目」を装っている。決してミニマルな抽象画にはならない。ここに千葉さんの絵の秘密があるのではないか。
「見えたものを気持ち悪くなってくるまで描いていると、モノが何だか分からなくなってくる」ということは、千葉さんの中で既にオブジェの実体は崩壊しているということだ。それを実在させるために千葉さんは描いている。その時点ですでにオブジェは目の前にある実物ではなく、描かれた絵の中に存在している。
千葉さんの絵を見ると私はいつもある種の「気持ち悪さ」を感じる。千葉さんの絵には「血が通っていない」感じがするのだ。それは千葉さんの絵が具象的な形と色を伴いながらも、実はミニマリズムのオブジェと同じ本質を備えているからではないだろうか。
今回の取材を通じて、私は一層その感を強くした。