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近代洋風建築シリーズ 創画初日カバー集

1981年~1984年に発行された近代洋風建築シリーズの初日カバーを近岡善二郎氏(洋画家)創画をカバー絵にしています。切手よりもカバー絵の美しさに見とれてしまいます。 発売元は郵趣サービス社です。

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    大浦天守堂「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    表慶館「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    旧開智学校校舎「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    同志社礼拝堂「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    旧札幌農学校演武場「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    旧日本聖公会堂京都聖約翰教会堂「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    旧済生館本館「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    旧日本銀行京都支店「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    尾山神社神門「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    旧岩崎家住宅「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    北海道庁旧本庁舎「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    旧西郷従道住宅「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    桜宮公会堂玄関「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    旧睦沢学校校舎「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    豊平館「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    旧グラバー邸「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    旧五十九銀行本店本館「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    旧学習院初等科正堂「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    日本銀行本店本館「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    旧ハンター住宅「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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    大浦天守堂「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1981年8月22日発行

     わが国で現存するものでもっとも古いカトリック教会で、日本の近代洋風建築の中では、ただ一つの国宝指定建造物である(国の指定の重要文化財のうち極めて優秀で、かつ、文化的意義の特に深いものが国宝にしていされる)。カトリック長崎大司教区所属。

     1863年2月着工、1864年(元治元年)12月竣工。翌年2月19日長崎初殉教の二十六聖人に捧げる献堂式が行われた。設計者はパリ外国宣教会の神父で1863年に長崎へ来たフェーレとプチジャン。施工は天草出身の請負人・小山一族。とくに工事にかかわったのはプチジャン(Bernard Petitjean)神父で献堂式直後の3月17日、堂内に祭られていたフランス渡来のサンタ・マリア像の前で男女の農民10余名」の信徒を発見したのも彼である。250余年の弾圧に耐えてきた信徒が彼に向けて最初に発した言葉は「ワタシノヌネ(宗旨)アナタノムネトオナジ」であったという。

     現在は五廊式会堂となっているが、創建当初は身廊(祭壇に向かって中央の柱間部分)とその両側に側廊を持つゴシックとバロック、それに日本式の海鼠(なまこ)壁を混在した様式の教会堂で、金色の十字架の輝く3本のせん塔があり、構造上は土蔵造りであった。明治8年(1875年)ごろ(明治12年説もある)現在の姿に大増改築がされ、白シックイ塗りのレンガ壁になったが、内部は木造で日本人工匠たちのみごとな技倆が発揮されている。木造の高いヴォールト(円天井)、床が一段高くなっている身廊など、全体の意匠は単純素朴な味わいを持って宗教建築にふさわしい気品の高さを示している。なお、この建築の西に隣接してい木骨レンガ造の旧羅典学校(明治8年、重要文化財)がある。
    (国宝、長崎市南山手町)

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    • 登録日:2019/6/23

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    表慶館「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1981年8月22日発行

     大正天皇(当時皇太子)の御成婚(明治33年)を記念して計画されあ奉献美術館で、明治34年8月起工、同41年10月に竣工した。レンガ造りの外壁に花崗岩を貼り、2階建て、屋根は銅板葺き、19世紀にフランスに端を発してヨーロッパやアメリカに流行したネオ・バロックの建築様式を採用している。中央と左右の3つの円屋根、円形と長方形を組み合わせた平面構成など巧みにまとまっている。中央大ドーム(円天井)の下の吹抜けの円形ホールは見応えがある。また大理石モザイックタイル貼りの床も美しい。東京国立博物館正門を入って左にあり、現在は日本の考古学関係出土品の陳列館になっている。

     設計指導は東宮御所御造営局技監で、この工事途中で宮内省内匠寮長官、すなわち内匠頭になった宮廷建築家の片山東熊(1854~」1917)。彼の下で内匠寮の高山幸次郎が実際に当たった。片山は長州藩の出身。明治12年に工部大学校造家学科(東大工学部建築学科の前身)の第1回卒業生として世に出、その生涯を明治の宮廷建築家として送った。各地の離宮や皇族、華族の邸宅などの作品も多いが、現存している主なものに、この表慶館の他に奈良(明治27年)・京都(同28年)の両国立博物館と迎賓館赤坂離宮(もと東宮御所、明治42年)がある。表慶館はその東宮御所の工事とほぼ並行して行われたもので、片山の作品としては奈良国立博物館から東宮御所に至る作風の過程を示すものと言えよう。片山はこのような作品を通して明治国家をみごとに飾りたてることに功があttが、彼の部下たちも建築デザインに優れた者が多く、その流れは現在の国会議事堂の建築(昭和11年)にも及んでいる。
    (重要文化財。東京都台東区上野公園)

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    旧開智学校校舎「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1981年11月9日発行

     明治9年(1876)竣工した木造大壁造りシックイ塗り2階建ての小学校建築。寄棟(よせむね)造りの屋根中央に八角の天桜がつき、当座南北の文字付の風見が天にのびている。明治初期のいわゆる"擬洋風"建築の代表的な遺構であり、また日本の学校教育史上にも重要な存在で、げんに教育資料館としてさかんに利用されている。信州教育の発祥の場所とも言えよう。

     "擬洋風"建築とは明治初年の民間の大工・棟梁たちが見様見真似で西洋建築を設計し建てたもの。アーチ形の窓、上げ下げのガラス戸、バルコニー(露台)のついた車寄せ、建物壁すみのコーナー・ストーン(隅石)など、せいいっぱいに西洋を真似てはいるが、いたるところに伝統の日本的意匠もとり入れている。"擬洋風"といわれるゆえんである。今はないが錦絵で有名な築地ホテル館(明治元年)もその代表的な存在だった。文明開化を民衆の立場から歌い上げた日本近代建築史上の圧歓んが"擬洋風"建築である。

     旧開智学校校舎の設計・施工に当たったのは地元・松本の棟梁。立石清重(1829~1894)。彼は土地の人びとの期待に応えるべく東京や横浜にたびたび出て西洋建築を助っ人して学習し、設計そ、工事に当たった。彼の人柄を反映して重厚ではあるが文明開化の気運をよく表現したこの建築は。もと町の中心、女鳥羽川のほとりにあったが、昭和36年重要文化財の指定を機に、松本城の北に移築された。正面の唐破風はもちえろん日本の伝統の意匠、しび飾りは「開智学校」という字幕をかかげた2体のキューピット。新時代を迎えて、子弟の教育に情熱を傾けた大人たちの心意気が溢れている建築である。
    (重要文化財、長野県松本市)

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    同志社礼拝堂「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1981年11月19日発行

     同志社大学構内にレンガ造、平屋建て一部中二階および地下室つきのゴシック様式の礼拝堂で、明治19年(1886年)に献堂された。設計はアメリカ海外伝道協会の宣教師D.C.グリーンと伝えられる。

     天に向かって鋭い先端を見せる屋根と円形のばら窓、先の尖ったアーチの窓、それらの白いふち取りの石など、左右対称の簡素な正面デザインは、いかにも宗教建築らしい気品の高さと迫力を持っている。堂内は新教の礼拝堂に共通して見られる単身廊(壁から壁への梁間に柱列のない、すなわち身廊だけで側廊のない平面構造)で、天井は斜め張りの野地板を見せる化粧天井仕上げ。その高い天井を支える補助合掌が簡潔で力強い印象の堂内空間をつくり上げている。側壁の先に尖ったアーチのついた縦長で木製建具の二連の窓にはステンドグラスがはめられており、薄暗い堂内に神秘的な七彩の光を流している。

     同志社は幕末にアメリカへ渡り、ニューイングランドで学んだ新島襄が明治7年(1874)帰国のうち、アメリカ海外伝道協会(組合派)の協力のもとに明治8年に創立した学校で、その構内には、この礼拝堂の他に京都でもっとも古いレンガ造建築である彰栄館(明治17年、設計D.C.グリーン)、有終館(同20年)、理化学館(同23年)、神学館(クラーク記念館、同26年)の重要文化財建造物が建ち並んでいる。ともにレンガ造、グリーンら外人の設計で、互いにほどよい調和を保って大学らしい落着いた環境をつくり上げている。鉄板葺きの屋根の塔には建造当初は棟飾りは全長にわたってついていたが今はない。

    (重要文化財、京都市上京区烏丸通)

    ※1981当初の説明です

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    旧札幌農学校演武場「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1982年1月29日発行

     "チョビンとは俺のことか、とショパン言い"の類で、国の文化財指定ではまことにいかめしい建築名だが"札幌の時計台"で親しまれる北海道名物。北海道開拓と防衛のために明治2年設置された開拓使(明治15年廃止)は、多くの西洋館を建てたが、これはその中でももっともロマンチックな、香り高い建築である。

     明治11(1878)10月に完成した。木造2階建て、切妻造りでトラン葺き、正面中央に時計台を持つ。設計は札幌農業学校教頭で土木工学や数学・英語を教えていた米人のホイラー教授。札幌農学校は開拓使の設けたもので"青年よ大志を抱け"の言葉で有名なクラーク博士をはじめ米人の教師が多かった。今の北海道大学農学部の前身である。当初はこの正式名称のように演武場であり、2回の広い梁間の部屋は教練場・器械体操場、兵器庫として使われて、1階は博物学・農学・英語・数学などの教室として使われていた。厳しい風雪に耐える健全な身心の育成を目指して、このような文部両道の建物が建てられたのであろう。ここに学んだ若者たちの清冽な心情が現代に共鳴して北海道のシンボルとなっているようだ。

     建物の構造はアメリカ西部の開拓時代に考案されたバルーン・フレームという特殊な構造になっている。時計台は、はじめもっと小さいものだったが、アメリカ・ハワード社製の時計器械が到着したら、大きすぎて入らないので改めて現在の規模に造り変えられた、というのも開拓時代らしい。明治14年以来100年の時を刻んでいる。この建物はもと農学校の地にあったが、明治39年に現在地へ曳屋・移築された。

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    旧日本聖公会堂京都聖約翰教会堂「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1982年1月29日発行

     明治村の正面右手の小高い丘上に建っているが、もとは京都市下京区河原町通り五条下ルに明治40年(1907)竣工したプロテスタントの協会堂で、昭和39年に現在地へ移築されたものである。

     外観は細部にゴシックの要素をまじえたロマネスク風で、正面左右に高くどびええる双塔が印象的である。1階がレンガ造り、2階が木造だったが、移築に際して1階を鉄筋コンクリートに改め外装にレンガを貼った。2階の屋根は木造の合掌造りで、木のフレームが交差し面白い大空間をつくり出している。その化粧天井には竹簾(たけすだれ)は張られていてアジア的な雰囲気をもかもし出しているのも、やや異様な空間体験となろう。トタン(亜鉛鈹鉄板)屋根(現在は銅板葺き)を通して伝わってくる太陽光の熱気と、京都の気候を考慮しての設計者のくふうであろう。

     使われ方も変わっていて1階は幼稚園、2階が教会堂として移築前まで使われていた。いわば複合建築で、いかにも都会の中心部に計画された新教会堂らしい。解体移築に際して証明入口脇にあった「1906」と年号を刻んだ定礎石から設計青写真を含んだ多数の文章が発見され、設計者は在日アメリカ人建築家で牧師でもあったJ.M.ガーデナーであることがはっきりした。彼はハーバード大学で建築学を修め、明治13年(1880)来日し、布教教育活動に従事し、築地にあった立教大学校の校長もつとめたが、のちに建築家に転じて学校や教会堂の作品も多い。大正14年東京で亡くなった。むずかしい名称だが「聖ヨハネ教会堂」で通ていた。
    (重要文化財、京都市、現在明治村)

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    旧済生館本館「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1982年3月10日発行

     現在は山形市郷土館として使われているが、もとは山形県立病院として明治12年県庁舎前に、市の中心計画の一環として建てられたもの。洋風の病院もまた近代化の象徴であった。当時の県令(県知事)三島通庸も雄大な欧化計画構想の遺構である。鬼県令として自由民権主義者だったことも、明治の栄光と、かげりをよくあらわしている。

     黒い屋根瓦、うす暗い民家のひしめく日本の、とくに東北の風土の中に正面に木造3階建ての桜閣を構え、下見板ペンキ塗りの、しかも円形に近い14角形の内側廊下つきの明るい異様な建物が姿をあらわしたときの、人びとに与えた衝撃は大きかったに違いない。明治13年版の『県内名所図鑑』にも、この建物を評して「無双の壮観なり哉」とある。文明開化もただ底抜けに明るく陽気だったというわけでもない。むしろ新政府の権威を誇示して人民を威圧する風なきにしもあらずである。

     だが今は、そんな印象はまったくない。国の重要文化財指定に際して一度解体され、戦時中2階建てに縮められていたものをもとに復し、明るく閑静な旧城址に移築されたためもあろう。いかめしいヒゲの官員さんのイメージも、明治とともに遠くなってしまった。
     設計者は原口祐之とも筒井明俊とも言われるがはっきりしない。また当時の病院長が東京医学校や横浜の海軍病院などを訪ねていろいろの助言を得、それにもとづいてこの病院の平面を作成したとも伝えられている。とにかく"奇想"と称するにふさわしい形で、旧開智学校と並ぶ代表的な擬洋風建築である。よほど独創的な技術者が参加していたに違いない。
    (重要文化財、山形県山形市霞城公園)

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    旧日本銀行京都支店「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1982年3月10日発行

     赤煉瓦2階建て、一地階付きのスレート葺きの建物で、辰野金吾および長野宇平治の設計で明治39年(1906)に竣工した。戦後、昭和42年に財団法人・古代学協会の所有になり、現在平安博物館として利用されている。かなり大規模な近代建築の再利用の例として初期のものに属する。保存もよく明治時代の代表的な洋風煉瓦造建築である。

     赤い煉瓦の壁面に白い石の横線を入れて変化をつけ、塔屋を設けるなど設計者の独特の意匠が見られるが、様式はルネッサンスとバロックの混合したものである。この辺りにまだ西洋の歴史的な建築様式を、ただ意匠をまとめるだけのパターンとして理解し、その時代の精神とか様式の本来的な性格を十分に汲みとっていなかった当時の日本の建築家の成長段階を見ることができる。

     辰野金吾(1854~1919)は明治12年(1879)工部大学校造家学科(東大工学部建築学科の前身)第1回の卒業生で、明治から大正前半にかけての日本建築界最大の巨頭。日本銀行本店(明治29)・同大阪支店(同36年)・中央停車場(東京駅、大正3年)などの現存する大建築をはじめ作品も多い。とくに日本銀行の全国各地の主要支店は、ほとんど辰野および彼の協力者の作品であった。長野宇平治は辰野の教え子で明治26年帝国大学(後の東京大学)造家学科の出身、のちに日銀の技師となって辰野とともに、また辰野亡き後も各地の日銀の建物の設計に当たった。しかし、この建物は辰野の色彩が強い。これに隣接して建物の外観(外壁)保存に成功した中京郵便局(明治35年)があり、ともに三条通りのエキゾチックな景観を構成している。

    (重要文化財、京都市中京区三条通)

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    尾山神社神門「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1982年6月12日発行

     明治8年(1875)11月竣工の石および木造3階建て銅板葺きの建築。設計および工事は"匠工長"に任せられた地元の棟梁・津田吉之助。

     尾山神社は。加茂百万石の藩祖前田利家を祭った神社で、この神門は正面石段を上った場所にあり、和洋を混合した不思議な様式を持っている。竜宮の門のようなところは中国的ですらある。明治の西洋館の中でもちょっと特異なものだが、最初の設計図を見るともっと複雑で仏寺建築くさいものであったが、設計を変更して建てられたこの実物は、はるかにまとまりがよい。青味・赤味の越前石の加工や、ケヤキ材の彫り物など手がこんでいて、しかも本格的な堂々たる建物。三層桜の最上階には色ガラスの窓があり。昔は遠く日本海を行く船の灯台の役も果たしたと言う。また当初から避雷針が設けられていて、その"避雷器工手"の名も陳礼に記され、新時代への積極的な意欲が十分にうかがえる。芸術の伝統と百万石のプライドとがミックスして新しい時代を迎えると、こういう形になるのだろうか。

     津田吉之助(1829~1890)は、目に一丁字もなく、自分の名すら書けなかったという棟梁だが、洋風の建築や機械類の設計および操作に詳しかった。彼はこの建築を工事する前に、すでに様式の金沢製糸会社(明治7年開業)の建設に関与し、また明治10年開業の金沢撚糸会社の工場や機械の設計もしている。万能の天才的技術者だったようだ。彼を登用してその才能を発揮させた人物が、旧加賀藩重役の出で、後に金沢市長をつとめた長谷川準也。かつて市民を騒がせたであろうその珍奇さも、今はすっかり落着き、神域の雰囲気にピッタリと合って、さすがに名建築である・

    (重要文化財、金沢市尾山町)

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    旧岩崎家住宅「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1982年6月12日発行

     明治29年(1896)施工。地下室付き木造2階建て、ペンキ塗りスレート葺き。イギリス人建築家コンドルの設計で、さすがに現存する明治の木造洋風邸宅建築としては最高の作である。そのデザインの構想はイギリスやアメリカで住宅建築がもっとも多彩な展開を示した19世紀後半のありさまを忠実に反映し、シャコビアンという様式を中心にしている。それにアメリカ風やサラセン風まで加味されていて、内部もまた素晴らしい充実をみせている。明治の木造洋館としては、最大限の外部装飾をつけた建物だが、どっしりとして、栄華を誇った大三菱の岩崎一族の邸宅にふさわしい。建築主の男爵・岩崎久彌は、、三菱第3代目の当主で、エリザベス・サンダーズ・ホームを経営された沢田美喜さんのお父さんに当たる。

     敷地内に、この建物に隣り合わせて、同じくコンドル設計の撞球室の建物があり、ともに国の重要文化財に指定されている。これは木造平屋でスイスの山小屋風の建築。いかにも軽やかで楽しく、この邸宅とよい対象を示している。

     コンドル(Josian Conder.1852~1920)は、明治10年日本政府の招きで来日したお雇い外国人建築家。いまの東大工学部の前身に当たる虎の門の工部大学校で日本人建築家の育成にあたるとともに、もとの上野の博物館をはじめ、丸の内の三菱赤レンガ街の建物など、沢山の建築を設計して大正9年東京で亡くなった。日本建築界最大の恩人として尊敬されている。東京神田駿河台のニコライ堂の設計にも関与しているが、これを除けば70棟近いといわれた彼の作品の中でも、この旧岩崎家住宅が現存最古のものになってしまった。
    (重要文化財、東京都大東区池之端)

    ※1982当初の説明です

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    北海道庁旧本庁舎「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1982年9月10日発行

     札幌の街の中央に広大な公園のような敷地をとって、この"赤れんが庁舎"が建っている。札幌の街は、この地に明治6年に竣工した開拓使本庁を中心にして原野の中に都市計画がされたのだから、中心にあるのは当然とも言えよう。

     その木造の開拓使本庁が焼け、また開拓使が廃止されて北海道庁が設置されたのを機会に、明治19年7月、この本庁舎の建設が始まり、21年(1888)12月に完成した。明治42年1月火災にあって室内と屋根とが焼けたがレンガの壁は残り、それを補正して北海道本庁舎として永く使われてきた。昭和43年に新しい庁舎がこの構内に建ったので、この建物は記念館となり、ずっと撤去されていた中央の八角塔を復原するなど大規模な修復工事がされて、ふたたび創立当初の姿を道民の前にあらわした。昭和44年には国の重要文化財に指定された。

     レンガおよび一部石造で、地下1階地上2階の大きな建物で、レンガの化粧積み、屋根上のにぎやかな煙突や換気筒など、全体に大まかではあるが装飾的な意匠は、アメリカのヴィクトリアン・ゴシックに留学したことのある土木技術者である。建築家と少し違った大ぶりのデザインもそのためだろう。

     緑濃い敷地の中に赤レンガの色が映えて、いかにもノビノビした北海道の雰囲気がここにはある。明治20年代の日本人の設計になる本格的なレンガ造官庁建築としても、また北海道開拓の歴史的な意義をも併せ伝える建物として貴重である。傍に明治6年の開拓使本庁庁舎跡の遺構が発掘されており、この建物と併せて指定されている。

    (重要文化財、札幌市)

    ※1982当初の説明です

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    • 登録日:2019/9/25

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    旧西郷従道住宅「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1982年9月10日発行

     明治10年代半ばに建てられた木造2階建ての邸宅で、もと東京目黒の通称"西郷山"の広大な敷地の中に和風の日本館とともに建てられていた。和・洋を並置するのが明治の上流邸宅の特色だったが、もちろん和館はない。応接館的な用途であったためか、いかめしい明治の元勲の邸宅にしては、いかにも繊細で軽くスマートで女性的ですらある。明治前期の洋風邸宅の中では、もっとも洗練された意匠を持っている。

     西郷従道(つぐみち)は隆盛の実弟、陸軍・海軍・農商務・内閣など各省大臣を歴任し、明治初年にはヨーロッパ視察に出ている。明治22年5月には明治天皇がこの邸宅に行幸され、表の2階の半円形のベランダから前庭の相撲をご覧になった。そのベランダや軒回りは、細かく陽ざしに影がゆれて、この建物の印象をとくにやさしくしている。縦長の窓には外にヨロイ戸、内に両開きガラス戸と二重で、鉄製の窓手摺りも美しい。また室内の壁付暖炉の一つには日本三景を描いた陶製のものもあり、格式ばったものの多いこの時代の洋風邸宅の中では、きわだって明るく軽快なデザインである。

     設計者はフランス人技術者のレスカス(J.Lescasse)と言われている。全体的にフランス的なやさしさが漂うのもそのためだろうか。彼は屋根を軽くしたり。一回の腰の柱間に高さ1メートルほどの煉瓦を積んで、地震による建物の持ち上りを防ぐなど、耐震的な独自の考慮も払っている。レスカスには日本の地震と建築を考慮した論文もある。官営生野高山で働いたり。横浜でフランスからの建築金物の代理店を営んだり面白い動きをしていた彼が、西郷従道の洋館にかかわったいきさつは、はっきりしていない。

    (重要文化財、東京都目黒区、現在 明治村)

    ※1982当初の説明です

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    桜宮公会堂玄関「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1983年2月15日発行

     明治4年(1871)に完成した大阪の造幣寮(現造幣局)の金銀貨幣鋳造場の正面玄関部分を戦前に移したものである。鋳造場は明治3年秋に竣工しており、造幣寮の建築群の中でも中心になっていた建物である。流石に堂々とした石造りの古典様式の玄関で、とても工場建築の玄関とは思えない。それだけにこれにかけた維新政府の期待の大きさも想像できる。工場であると同時に記念的な建物でもあった。記念建築であれば当然そこに様式が要求される。設計を担当したイギリス人技術者ウォートルス(Thomas James Waters)は、じつに上手に古典様式をまとめ、流石に万能技術者の面目が躍如としているが、正面のペディメント(三画破風)の間のびした平板さ、六本の円柱の貧弱な細かさ、などにはどうしても埋めきれない正規の建築家的教養の欠如が見られる。また、最近の研究によれば、この建物の平面は当時の香港造幣局鋳造場の図面を忠実に参考にしたとされている。しかしその立面はウォートルスの手になったものだろう。ちなみに、ウォートルスは銀座煉瓦街の建設にも当たり、明治初年のお雇い外国人技術者のうちでは最も建築的活躍が顕著な人物であった。この建物に隣接して、やはりウォートルス設計の泉布観(重要文化財、明治4年)が建っている。これももと造幣寮の応接所だった建物である。

     開国直後の日本は、諸外国から信用できる貨幣の発行を強く求められた。それに応え、新興国家の面目にかけて建設したのが造幣寮の工場であり、近畿一円の石工を総動員して昼夜兼業で行った大工事の、これは記念の建物である。

    (重要文化財、大阪市北区天満橋)

    ※1983当初の説明です

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    旧睦沢学校校舎「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1983年2月15日発行

     明治8年(1875)竣工の木造2階建て、中央に塔屋(太鼓桜)付き桟瓦葺きの小学校校舎。もと山梨県巨摩郡敷島町(旧巨摩郡第7区睦沢村)にあったが、戦後に甲府市の武田神社境内に移され「睦沢記念館」として公開されている。日本の建築関係工匠の持つ伝統的な技法で、西欧の建築の意匠をあらわし、しかも細部に日本風のデザインを主張しているいわゆる擬洋風建築の代表的な作品である。設計は山梨県下山の大工棟梁の松木輝殷(まつきてるしげ、輝重とも書く)。

     当時の山梨県令(県知事)の藤村紫朗は着任早々県内の物産調べをして、ブドウがたくさんとれ、しかも品質が良いのを知り、ブドウ酒の生産を奨励、今日の山梨ワインの恩人とされているが、その開化政策の一環として県下の学校や役場などに独特の洋風建築をたくさん建てさせた。藤村式建築と俗称されたものであり、松木がその意を受けて活躍した。

     玄関車寄せの円柱や2階のヴェランダ、屋上の太鼓桜、上げ下げ窓、シックイで石のように盛り上げた窓のアーチや隅石(壁の角の部分の凸凹の模様)など、充分に洋風の情緒を盛り上げているが、土蔵式の壁も小屋組みも、軒の雲形の飾りなども、いたるところに伝統の日本建築の意匠が見られる。擬洋風たるゆえんであるが、それだけに甲斐の盆地に三峡に文明開化の熱気が雲のように流れこんだ明治初年の時代を象徴する建築と言えよう。

     また区長の長田友康以下当時の睦沢村民がこの学校建設にかけた期待と努力も大きかった。建物そのものも当時の文献記録も、よくそれを物がっている。

    (重要文化財、甲府市古府中町)

    ※1983当初の説明です

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    豊平館「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1983年6月23日発行

     木造2階建て白ペンキ塗り。時計台とともに札幌の街を象徴するかのような建物である。
     明治2年に設けられた北海道の開拓使が建てた接待所で洋式のホテルであった。明治13年(1880)に竣工したが、翌年8月、明治天皇の北海道行幸の行在所として正式に会館した。豊平館の名は三条実美の命名という。もと北一条西一丁目にあったが、昭和33年現在地の中島公園の緑の中に移され、市民の結婚式場などとして広く使われている。若者たちの社会に門出する場として、まことにふさわしい気品ある建物で、ロマンの香りも高い。
     設計は開拓使工業局営繕課。江戸の大工出身の御用掛・安達喜幸をチーフとする日本人技術者たちが担当したと考えられる。開拓使は有名なクラーク先生をはじめ、アメリカ人の学者や技術者をたくさん招いたので、北海道の建設は、アメリカの木造建築の様式・手法が色濃く残っている。

     この建物もその代表例だが、しかしそうした環境の中で、新しい洋風の技術を学びながらも、しっとりと落着いた日本建築の伝統を失わなかった法人建築技術者の心意気をよく伝えている。コリント式のオーダーの柱に支持された半円形の車寄せバルコニーの軒には円弧状の破風がつき、印象深い外観を構成しているが、そこはかとなく和風の香りがただよう。美しく翻訳された洋風建築とも言えよう。

     内部は1階中央にロビーと右側に客室4、左側に食堂2室があり。2階は右客室、左に舞踊室があった。舞踊室には大きく豪華なシャンデリアが2基下がっている。全体の骨組みにはアメリカの木造建築の手法がよく取り入れられている・

    (重要文化財、札幌市)

    ※1983当初の説明です

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    旧グラバー邸「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1983年6月23日発行

     日本最古の洋風住宅で、木造平屋建て。文久3年(1863)に竣工したが、当初は今日よりはるかに規模が小さく、港を眺める応接所として建てられたものではないかと考えられる。今日の形になったのは明治10~20年のころであろう。

     プッチーニの歌劇「マダム・バタフライ」は、この邸宅で構想されたかと錯覚するほど、ここからの晴れた南国の港長崎の見晴らしはすばらしい。この辺り一帯は今は「グラバー園」となり多くの洋風建築が移されているが。やはり目玉はこれである。

     安政5年(1858)の五ヵ国条約にもとづいて翌6年に長崎にも居留地が設けられるようになった。直ちに上海から乗り込んできたイギリス人のトーマス・グラバー(Thomas Blake Glover,1838~1911)が南山手3番地を借地してこの住宅を建てた。工事はすぐ隣りの大浦天守堂を施工した天草の小山秀之助が請け負ったものと思われる。西洋人が東南アジアの植民地に建てたハンガロー型式をとってはいるが、様式も技法も稚拙で、いたるところに日本的な技法が見られるものも、未だよく西洋建築を知らなかった日本人の手になったからである。しかしまたそれだけに開国の昔を語る貴重な建物でもある。

     グラバーは薩摩藩や長州藩に武器や艦船を売り込んだ冒険商人。伊藤博文・井上肇・山尾庸三・五代友厚ら明治維新の指導者で、彼の世話になった者は少なくない。グラバーの婦人ツルは日本女性だが、もちろんお蝶婦人とは関係ない。この住宅は戦前グラバーの息子倉場富三郎から三菱長崎乗船所へ譲られ、昭和32年に同造船所から長崎市へ寄付された。

    (重要文化財、長崎市南山手町)

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    旧五十九銀行本店本館「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1983年8月15日発行

     明治37年(1904)の上棟。現在は青森銀行記念館となっている。木造2階建てで正面に展望台を兼ね備えた屋根窓がある。壁面は木の下地の上に瓦を貼り、その上をシックイで塗籠にしているので、一見石造りのように見える。様式的にはルネッサンス調の意匠を基本にしているのが、屋根窓の半円を三つ重ねたデザインなど独創的でもごとである。やはり擬洋風建築と言うべきであろうが、きわめて洗練されている。

     明治時代の半ばごろから伝統的な技法である土蔵造りを応用して、各地に銀行建築が建てられるようになった。もちろん内部の間取りや使い方は西洋風の銀行だが、外観は日本の土蔵造りの意匠をとっていた。当時は未だ耐震・耐火の鉄筋コンクリートは日本に紹介されておらず、また煉瓦の建物に対しては耐震上の不安があり、地方では熟練した煉瓦職人が少なかったためもあろう。経験のある、信頼できる人間関係の中から土蔵造りの銀行建築が生まれたものと思われる。この建築は技法的にも意匠的にも、そうした傾向の頂点に位置する優れた作品である。

     これを設計し工事を行ったのは地元弘前の棟梁、堀江佐吉(1845~1907)。津軽藩お抱え大工の家に生まれ、青森の第四連隊兵舎工事ではじめて洋風建築に接し、明治12年函館に渡って開港以来の多くの洋風建築を学び、明治19年、彼のおそらく最初の設計になる洋風建築である東奥義塾校舎を皮切りに、弘前市およびその周辺でさかんに洋風建築の設計・施工に当った。この建物はとくに彼が心血をそそいでつくり上げたものである。

    (重要文化財、弘前市)

    ※1983当初の説明です

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    旧学習院初等科正堂「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1983年8月15日発行

     正堂とは講堂の意。この建物は2度の移築を経て現在地に至ったものである。最初は東京四谷尾張町の学習院に初等科正道として明治32年(1899)7月に竣工した。構内に約10年前に建てられた旧本館の古材を使用するなどして経費節減を図ったため当初予算3万円のものが9,500円で完成したと伝えられ。宮内省所管で設計者などは不明である。

     昭和12年(1937)皇太子殿下の初等科御入学に備え新講堂を新築されることになったので、宮内省から移築費の一部3,500円を添えて千葉県印旛郡遠山村に下賜され、同村立遠山尋常高等小学校講堂として移築された。完全復元の方針で忠実に工事が行われていたので、戦後昭和48年に国の重要文化財建造物に指定されたが、その直後から再び解体工事が始められ、昭和51年3月に現在地に移築が完了したのである。これは成田国際空港の開設に備えて、同校に新しく防音講堂を新築することになり、この建物は千葉県に譲りわたされたためである。当初遠山村に下賜されたのは、ここに宮内省の下総御送料牧場があったという縁によるもの。空港の設置でこの牧場も他所に移った。時代の動きというものであろうか。

     建築面積約655㎡、木造平屋建てストレート葺きの簡素な印象の建物で、正面中央に大きな広間をとり左右に控室が張り出し、また背面に演壇部分が突出し、正面と側面の三方にはベランダをめぐらしている。内部は演壇全面に柱頭飾りをつけた円柱と四角柱を一組にしら柱の列が並び、窓まわりや出入口扉など、さすがにこの建物の由緒を物語る堂々たる意匠である。屋根の棟飾りも田舎の学校の講堂には不相応である。しかし全体の印象は堅実・質素で、落着いた趣みを持つひそかな名建築と言えよう。

    (重要文化財、千葉県成田市)

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    日本銀行本店本館「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1984年2月16日発行

     明治29年竣工。日本金融の総本山は、また明治建設の頂点とされる建築でもある。しかも、その設計者の辰野金吾(1854~1919)は、明治の建築界の最高の地位にあった人。お膳立てはすべて揃っていた。

     この建物が建てられたころは、まだ日本では鉄筋コンクリートや鉄骨の建築技術は、ほとんど知られていなかった。したがって壁体はレンガ積みの上に石を貼っているが、屋根は鉄材で組み、基礎は厚いコンクリートと、当時の技術の粋を集めて堅固そのものの建物でもある。工事の途中に明治24年の濃尾地震があったので、その経験も生かして余計に丈夫になった。おそらく日本で最初と思われる本格的なスチール・サッシやエレベータが使われているのも注目すべきであろう。もちろん輸入品である。

     当時帝国大学造家学科(今日の東京大学工学部建築学科)の教授だった辰野は、この建築の設計のためにヨーロッパへ調査旅行におもむき、ベルギーの中央銀行をモデルにしたと言われるが、ルネッサンス様式を基調にしてバロック的なところもあり、今日から見ればまだ十分に洗練された意匠とは言いがたいところがある。無理もない。イギリス人建築家コンドルを教師として、はじめて西洋建築学を学んで20年もたっていない日本人建築家の第1世代の作品である。もしろその習得の早さに驚く。謹厳剛直、いかにも明治の人らしくカミナリ親父で鳴らした辰野金吾は、九州唐津藩士の子。藩校で高橋是清に洋学を学び、やがて上京して工部大学校造家学科の第1回卒業生となった。コンドルの薫陶を受けた日本人最初の建築家で、やがて明治の建築界を牛耳る大家となった。仏文学者辰野隆の父でもある。

    (重要文化財、東京都中央区日本橋)

    ※1984当初の説明です

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    旧ハンター住宅「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

    1984年2月16日発行

     明治40年(1907)に生田区北野町に建てられたが、昭和39年現在地に移築保存されている。木骨煉瓦造2階建て、石綿スレート瓦葺き、南および東側にベランダが付いた建物で、神戸の異人館の中でも最大の規模のもの。幾何学模様のベランダの窓が外観をもっと強く印象づけていて、華やかな中にも端正な風格がある。幕末、明治の初期に居留地に建てられた西洋館には、ベランダを吹きは放しにしたものが多かったが、雨風の多い日本では不向きだったようで、やがてこのようにガラス窓を入れるものが多くなった。

     ハンターは慶応3年(1867)の兵庫開港以来神戸にあって、精米・製粉・大阪鉄工所(後の日立造船所)などの事業を手広く経営して成功したアイルランド出身の英国人である。夫人は大阪の薬種問屋の娘さん。

     一階には南面していて控室・応接室・食堂があり玄関につづいた小ホールには張出し窓がついている。二階は寝室や婦人の居間からなり、各部屋にはそれぞれの暖炉があり、また一階の応接室と食堂には創建当初のシャンデリアがある。設計者は不明だが、施行は棟梁の芝島吉の棟札が発見されている。

     神戸にはこの他に旧ハッサム住宅(生田区北野町、明治35年)・旧トーマス住宅(同、明治42年)・旧シャープ邸(同、明治36年)・旧ハンセル邸(生田区山本通、明治29年)などのすぐれた洋館建築がたくさん保存されており、北野山本地区には昭和55年4月に国の重要伝統的建造物群保存地区(いわゆる伝建地区、町並み指定)に指定され、異人館の街として人気を集めている、官・民地元関係者の熱意と努力の成果である。

    (重要文化財、神戸市)

    ※1984当初の説明です

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