電気機関車シリーズ 第1集(2)10000形式アプト式電気機関車(1912-36)

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 日本の本線列車用電気機関車の第1号である。信越線横川・軽井沢間11.2kmは、66.7‰という急勾配の山岳鐵道で、1893年の開通以来、アプト式歯軸条形(ラック)蒸気機関車で運転された。

 勾配に加えて断続して26個のトンネルがあり、機関車の煤煙による乗客と乗務員の苦痛はなみ大抵ではなかった。1909年、この区間の電化計画が決定され、1912年5月から電気機関車による運転を開始したが、この時ドイツのアルゲマイネ社から購入されたのがこの10000形(後にDC40形と改称)12両である。

 重量46t。直流600ボルト方式。ラック区間では集電靴で第3軌条から集電し、駅構内では最初は切手のように、トロリーポールを使って架線から集電したが、後にパンタグラフ式に改造された。出力420kwの大きな主電動機2個を備え、1個は3軸の粘着動輪を連結棒で駆動し、1個は歯動輪を駆使する。最高速度は粘着区間で25km/h、ラック区間で18km/hである。蒸気時代には75分運転であったが、電化後は49分に短縮され、乗客と乗務員の苦労は一挙に解消された。

■アプト式開通について
https://muuseo.com/stamp_collection/items/1013

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アプト式開通(横川-軽井沢) 1893年4月1日<日本鉄道物語コレクション>
 1872(明治5)年、新橋-横浜間の鉄道開業後間もなく、東京-京都・大阪間を結ぶ幹線鉄道計画が進められました。当初計画は中山道を経由するもので、1884年(明治17)年5月には日本鉄道により上野-高崎間が開通、翌年10月には高崎-横川間が開通しました。しかし、険しい山々は入り組んだ中部山岳地帯や横川-軽井沢間に立ちはだかる碓氷峠の難工事のため、1886(明治19)年、幹線鉄道は東海道ルートに急遽変更され、中山道ルートは太平洋側と日本海側を結ぶ本州横断線として建設が進められました。碓氷峠区間を除く工事は着々と進行し、1888(明治21)年12月には軽井沢-直江津間が全通しています。未開通区間は横川-軽井沢間のみとなり、両鉄道間の連絡輸送は1888(明治21)年9月に開業した碓氷馬車鉄道に頼らざるを得ませんでした。  その後、さまざまなルートや鉄道方式が検討されましが、1891(明治24)年3月、現在の国道18号線に沿ったルートに決定し、ドイツのハルツ山で使用していたアプト式鉄道を採用することで、ようやく着工の運びとなりました。しかし、当時は優れた建設機械もなく、多くは人手に頼らざるをえませんでした。18の橋梁と26のトンネルを建設する難工事を昼夜突貫で進め、わずか2年足らずで完成しました。1893(明治26)年4月1日、慎重な運転を重ね、線路延長11.2km、標高差553m、勾配66.7‰(1/15)という急勾配を克服したアプト式鉄道が開通しました。  最初に使用された機関車は、ドイツのエスリンゲン社製の3900形式アプト式蒸気機関車(ADクラス⇒C1形⇒を経て3900形と改名)4両でした。1912(明治45)年5月には幹線最初の電気機関車運転が開始されましたが、年々増加する輸送量にアプト式鉄道では対応できなくなり、1963(昭和38)年7月、碓氷新線の開通により、同年9月29日、アプト式区間は70年の歴史に幕を閉じています。 (解説:肥沼恵一) #切手 ■アプト式電気機関車について https://muuseo.com/stamp_collection/items/986
https://muuseo.com/stamp_collection/items/1013

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