【書き起こし】「日本のアートディーラー史: 60年代 70年代のギャラリー主体のあり方」東京画廊:山本豊津

【書き起こし】「日本のアートディーラー史: 60年代 70年代のギャラリー主体のあり方」東京画廊:山本豊津_image

文/ミューゼオスクエア編集部

CADAN Art Channelで配信された「日本のアートディーラー史: 60年代 70年代のギャラリー主体のあり方」。東京画廊代表の山本豊津さんが60年代 70年代の東京画廊のディレクション、当時のアートシーンなどたくさんの資料とともに語られました。

本記事では配信の冒頭10分間の書き起こしをお届けします。日本の戦後美術が最も熱を帯びた1960年代から1970年代。どのようなディレクションだったのでしょうか。

※記事は動画と一部異なる箇所があります。

洋画から抽象表現主義へ

――本日のCADAN Art Channelは「日本のアートディーラー史: 60年代 70年代のギャラリーの主体のあり方」というテーマで、東京画廊の山本豊津さんにお話を伺います。どうぞよろしくお願いします。

山本:おはようございます。皆さん、よろしくお願いいたします。

――東京画廊では関根美夫さんの展覧会が開催中ですね。

山本:関根先生は、吉原治良さんが具体美術協会を創立したときの最初のメンバーの一人です。具体の仕事は平面というか、従来の絵画から外れてパフォーマンスアクションペインティングが重要になっていました。関根先生は「自分はどうしても絵画から離れることができない」という思いから、具体の他のメンバーと自分は合わないと感じ5年くらいで具体を退会します。在会中だと思うのですが吉原先生からジャスパー・ジョーンズの星条旗の作品の写真を見せてもらった時に、「自分にとって最も平面らしいものは何か」と思い立ったのがそろばんなんですね。描かれたそろばんの珠で制作年が分かるようになっています。具体に入ったころは抽象表現主義的な作品を描いていました。

「関根美夫」 展示風景 東京画廊+BTAP(東京) 2022年2月5日 – 3月19日

「関根美夫」 展示風景 東京画廊+BTAP(東京) 2022年2月5日 – 3月19日

――今日は具体やもの派など、東京画廊ならではのアーティストのお話をアートディーラー史に交えて伺いたいと思います。そのイントロダクションとしてはぴったりな展覧会ですね。

山本:ありがとうございます。

――「日本のアートディーラー史」というタイトルなのですが、美術品を扱う職業にはディーラー以外にもギャラリスト、画廊、画商という色々な名称があると思います。60年代、70年代ではまだ美術商と呼んでいましたか。アートディーラーと呼んでいましたか?

山本:アートディーラーという言葉はあまり使わなかったですね。

――もしくはギャラリストという呼び方もありますね。

山本:それもあまり使いませんでした。やっぱり画商という言葉がメインだったと思います。

――60年代、70年代は画商の時代なんですね。この時代のギャラリーの在り方はどうでしたか?

山本:私の父も志水(その後南画廊を開廊)さんも、最初はいわゆる洋画という近代美術を扱いました。すると、そこに二つの美術館がお客さんとしてつきました。大原美術館と今のアーティゾン美術館であるブリジストンミュージアムの二つです。どちらの美術館もパリの印象派の作品を買うわけですね。そんな仕事をしていた父がヨーロッパに行ったあるとき、ヨーロッパでは抽象表現主義のアンフォルメルが大流行していて、帰国した父や志水さんも次の時代はこっちへ行くんではないかと予感したんだと思います。そうして、1950年代の終わりから60年代の初めに、ヨーロッパの抽象表現主義の作家を少しずつ扱うようになった。

――例えばどんな作家を扱っていたのでしょうか。

山本:東京画廊ではフンデルトワッサーとか、ロベルト・クリッパとかの展覧会をやりました。志水さんがすごいのはフォートリエ展をやったことです。アーティストも日本に来たんですね。その当時フランス人からすると、日本はアジアのもっとも東にある国ですから、かなり辺境の地だったと思うんです。

「フンデルトワッサー」 展示風景 東京画廊+BTAP(東京) 1961年5月15日 – 6月3日

「フンデルトワッサー」 展示風景 東京画廊+BTAP(東京) 1961年5月15日 – 6月3日

山本:西洋で起こっている新しい抽象の美術が、どういうものであるのかを日本の画廊の人たちのほとんどが体感していないわけです。そこで、最初はヨーロッパの抽象を勉強することから始め、ヨーロッパからきた作家たちを展示しました。すると、美術評論家や、特に若いアーティストたちが南画廊と東京画廊の画廊めぐりを始めたんです。当時東京画廊は現在の並木通りにある資生堂の本店の目の前にありました。資生堂やライトバブリシティー(日本初のデザイン会社)の若いデザイナーたちも東京画廊にきて、そこから何人かコレクターも生まれました。

現代美術という言葉が世界共通で使われるようになったころ

――資生堂は芸術文化の振興に力を入れていますね。銀座界隈でアートブームがあったのでしょうか。

山本:資生堂の福原信三さんが、パリから川島理一郎さんという絵描きさんを連れて帰ってきて資生堂のデザイン部を作ったんです。川島さんはその頃は有名ではありませんでした。デザイン部を最初に作ったのがアーティストなので、福原さんはギャラリーを作りました。いま銀座で一番古いギャラリーは資生堂ギャラリーです。最初は資生堂ギャラリーで作品も売っていたようですが2、3年で辞めてしまいました。コレクションをする側に回って近代美術を集め始めるんです。

――アーティストがパリから日本に来たというお話がありましたが、60年代、70年代では、通信や交流する手段はどうしていたのでしょうか。飛行機も簡単には乗れないですよね。今の人には考えられないようなやり方で旅をしていたのではないでしょうか。

山本:私の父が最初にパリに行ったときは20回くらい乗り換えが必要だったそうですよ。最初に降りたのが台湾とか香港とかじゃないですかね。

――船で東京に来たアーティストもいたのではないでしょうか。

山本:来日するヨーロッパのアーティストは飛行機でしたが、渡欧する日本のアーティストたちは飛行機は高くて乗れないのでみんな船に乗っていました。パリまでひと月くらいかかったのではないでしょうか。スエズ運河を通ってパリまで行っていたようです。

――ギャラリーが成熟していく過程にはテクノロジーの発達も関係していますね。60年代、70年代にどうやって作品を売っていたのかお聞きしたいのですが、風呂敷画商というやり方はまだありましたか。私の記憶だと、90年代後半まではやっていたと思うのですが。

山本:風呂敷画商さんというのはギャラリーを持っていない人たちですね。例えば、東京画廊に勤めていた人が独立した。しかしギャラリーを持っていない。すると風呂敷に絵を入れてお客さんのところを回ります。それを風呂敷画商と呼んでいたと思います。だから、画廊があるところに勤めている人たちは風呂敷画商とは呼ばれていませんでした。

――呼ばれていなかったんですね。風呂敷画商は今でもいらっしゃいますか。

山本:風呂敷は持っていませんが、似たようなことを単独でやっている人は私のところにも何人か来ます。

――ギャラリーを始めたら風呂敷をもらっていたという通説がありますが、本当でしょうか。

山本:いやあ。それはあんまり聞いたことないですね。ただ交換会がありますよね。交換会に物を複数持っていくときには、風呂敷で持っていくのが一番簡単だったんですね。

――必需品になるんですね。

山本:はい。帰りはきれ一枚で帰ってこれるから、ものすごく持ち運びしやすかったですよ。

――先ほど画廊を立ち上げた時には近代美術を扱っていたとお話がありました。現代美術というジャンルができ始めたのはいつくらいだと思われますか?

山本:現代美術という言葉をちらほら使うようになったのは60年代中頃だと思います。アートのシーンがパリからニューヨークに移り変わったのが60年代後半。そのくらいから現代美術という言葉が耳に入るようになったと思います。

――アメリカのニューヨークスクールの人たちが出てきたあたりから現代美術と日本でも呼ばれ始めたんですね。

山本:当然同時にギャラリーの壁が全部白くなりました。

――確かに昔はクロスが張ってあり白くなかったです。

山本:東京画廊もオープンした時はクロスを張ってありました。ピカソなんかが飾ってある昔のパリの画廊の写真を見ると、ほとんどの画廊はクロスを張っていますね。白く塗るのはアメリカのニューヨーク近代美術館(MoMA)が始めたと聞いています。白く塗りはじめたころから、現代美術という言葉が世界で共通に使われるようになったんじゃないかと思いますね。

ーおわりー

配信開始から約10分間のトークを記事にしました。
のこり50分は下記のリンクよりアーカイブ配信を購入・視聴いただけます。

公開日:2022年3月10日

更新日:2022年3月16日

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ミューゼオ・スクエア編集部

モノが大好きなミューゼオ・スクエア編集部。革靴を300足所有する編集長を筆頭に、それぞれがモノへのこだわりを強く持っています。趣味の扉を開ける足がかりとなる初級者向けの記事から、「誰が読むの?」というようなマニアックな記事まで。好奇心をもとに、モノが持つ魅力を余すところなく伝えられるような記事を作成していきます。

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