偶然がもたらした「不思議の国のアリス」との出会い
2000年「不思議の国のアリス」より
金子國義は「不思議の国のアリス」を生涯で3回、描いている。その記念すべき1作目が、1974年にイタリアから出版された絵本だった。
今でこそ有名になった金子國義の「不思議の国のアリス」シリーズだが、実は初めての作品はイタリアの企画で、日本では出版すらされなかった。企画をしたのは、当時最大手だったタイプライター会社のオリベッティ社だ。
「オリベッティという、当時すごくお金を持っていたタイプライターの会社が、『不思議の国のアリス』の挿絵を描ける画家を探していました」
オリベッティ社は毎年、クリスマスの季節に絵本を出版し、イタリア全土の小中学校にそれをプレゼントしていた。そしてその年の企画が「不思議の国のアリス」だったのだという。
では、なぜそのオリベッティ社が金子に目をつけたのか?話は1970年に遡る。
この頃の金子は、画家としての地位を固めつつあったが、まだ決定的な人気を誇っていたわけではなかった。
そんな彼の個展が、来日していたミラノの画商の目に留まり、イタリアでも個展が催されたのである。前年の日本での展覧会の成功もあり、貴族や富豪のサロンに招待されたくさんのイタリア人と知り合いになっていた。
多くのファンを魅了した金子國義のアリス。
しかし、そのイタリアでの個展が直接オリベッティ社の目に留まったのではない。直接のきっかけは、個展開催中のある日、イタリア人の来客と近くの喫茶店にいた時のことだという。
「個展の中で気の合った女流画家がいて、カフェで絵を描きあって遊んでいたところ、たまたま通りがかったオリベッティ社のソアビ氏が女の子を描いた絵をみて『アリーチェだ!』と」
驚いたソアビ氏は、その場で金子に「不思議の国のアリス」の挿し絵の依頼をすることに。ホテルに戻って最初の場面に出てくるアリスを描き上げ、ソアビ氏に電話をすると、駆けつけたソアビ氏はたいへんな喜びようだったそうである。
「ソアビ氏は、この調子で残り11枚が直ぐに描き上がると思ったようですが、金子は当時『不思議の国のアリス』を正確に読んだことがなく、日本に仕事を持って帰るのでした。その後の製作では、ソアビ氏の『物語を忠実に描いて下さい』という注文にかなり苦しんだと聞かされました」
「不思議の国のアリス」誕生の苦悩
アリスの制作は難航を極めた。
「結局、3年もかかってしまいました。その間、何通も手紙が来ていた。」
鉛筆で細密に描かれた「不思議の国のアリス」の挿絵は繊細で美しく、妖艶にも思える。思い起こさせるのは、おそらく「不思議の国のアリス」の挿絵で最も有名なジョン・テニエルの画風である。
「最初のオリベッティの作品はテニエルにかなり引っ張られてます。当時は、どうやって違う風に描こうかっていうくらい考えていた」
ジョン・テニエルとは
19世紀半ばから20世紀初頭に活躍した、イギリスのイラストレーター。「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」の最も有名な挿絵を制作した。
1974年「不思議の国のアリス」シリーズより。白黒の作品という事もあって、構図などもテニエルの物に近い。
3年の歳月をかけて描き上げた、初めての「不思議の国のアリス」。鉛筆で細密に描かれた彼の絵には、やはりテニエルの作品の影響が色濃く見られる。
1974年12月、オリベッティ社から完成作品が届く。クオリティは、氏の予想を遥かに上回るものだったという。
日本で2つのアリスを描く
しかし、イタリアで出版された「不思議の国のアリス」は日本オリベッティ社の社員に配布されたのみで、すぐに日本でも出版しようという動きにならなかったのだという。
日本で金子國義の「不思議の国のアリス」シリーズが認知されるようになったのは、79年に美術出版社から画集「金子國義アリスの画廊」が出版されてからの事だった。
日本で「不思議の国のアリス」が出版されたのは、それからずっと後の94年の事である。日本人が求めるアリスを描くことに金子は難色を示したというが、新潮社の編集部にアリス顔の女性がいて、彼女がそれぞれのシーンのモデルをしてくれたお陰で実現した。
「新潮社で出したのは石版です。石に描いてるんですよ。失敗したら削らないといけないので、緊張感がありました。」
新潮文庫の「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」の挿絵で、今でも金子國義の作品を見ることができる。オリベッティ社の作品と違い、繊細な線と美しいカラーが印象的な作品である。
1994年「不思議の国のアリス」シリーズより。柔らかく繊細な色使いが非常に美しいシリーズだ。
最後に金子が「アリスシリーズ」を出版したのは、2000年に入ってからだ。メディアファクトリーから依頼されたこの作品は最も特殊な例で、絵を描き下ろしたのはもちろんの事、金子は文章も執筆している。
「文章も1年くらいかけて書きました。大まかな筋は同じですが、翻訳ではなく創作でした」
海外の作品の翻訳物は数多あるが、それを挿絵画家が文章まで書いてしまうという企画はあまり聞いたことがない。
「絵本にしようということでメディアの編集者が来て、自分で文章も書く、という話になりました。登場人物は流れだけ同じで、文章を音読してもらえると気がつくのですが名調子になっています。ちょっと大げさですが河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)、泉鏡花(いずみ きょうか)を意識しています」
それまでは過去に作られていた「不思議の国のアリス」の世界感を描いていた金子だったが、ようやくこの頃になって自分ならではのアリスの世界感を確立できたのだという。
「94年くらいから何となく自分の感じになって、2000年のメディアファクトリーで完全に自分のモノになってきた。自由な感じです」
2000年「不思議の国のアリス」より。上記と同じシーンの絵。キノコに乗るイモムシが人物になっているなど、はっきりと違いが見て取れる。
誰もが知っている物語の挿絵を描くのは難しい。そのような理由から、はじめは気乗りしなかった「不思議の国のアリス」がこれほどまでに愛され続けてきた理由は、やはり多くの人が彼の「アリス」を求め続けたという事に他ならない。
それほど、彼の描く「アリス」の世界観は多くの人々を魅了し、心を掴んだ。金子國義の自由な発想や表現が、「自由を制限された」アリスの世界の中でこそ、その創造性を発揮し、物語の魅力を何倍にも増幅させたのという事なのかもしれない。
金子國義の表現の豊かさは、一体どこから来るのだろうか。次の記事では、現代人にこそ示したい「金子國義の自由な生き方と作風」に焦点を当ててみたいと思う。
ーおわりー
2005年に描いたアリスの姿は、金子国義さんの画風が濃く反映されている。