西洋文化にめり込んでいった、金子國義の少年時代
東京の大森駅から徒歩10分ほど歩くと、閑静な住宅街の中に突如として異様な光景が目に入る。古い木造の2階建ての家屋だが、都内ではあまり目にしないような種類の木々や蔦に覆われて、その全体像ははっきりしない。
異国の地に迷い込んだような神秘的な金子國義のアトリエ
中に入ると、金子修さんと元気なダックスフントに迎え入れられた。
「物は、何も捨てない人でした」
との修さんの言葉通り、金子邸の中は足の踏み場の無いほど金子國義のゆかりのもので満ち溢れていた。集めていた香水瓶や、グラス、置物や、もちろん自身の作品に至るまで、所狭しと積み上げられている。
金子國義は多くの物をコレクションしていた。グラスや瓶類もその一つである。
金子國義さんは1936年7月23日、埼玉県蕨市に生まれた。両親は織物業で成功しており、戦中戦後の時代を何不自由なく過ごしたのだという。
金子國義が絵を描き始める前に、最も彼の心を動かしたものの一つが、ファッションデザインである。
「中原淳一さんの雑誌『それいゆ』等を愛読していました。海外の洋服の作り方、パターンなどが描いてあったから、それが好きだったようです。金子先生のお姉さんや、工場で働いていた人たちにも描いていたそうです」
中原淳一とは
戦後に女性誌「それいゆ」などを創刊した、画家であり編集者。最先端のファッションやイラストレーション、ヘアメイクなど幅広いジャンルを手掛け、当時の女性たちのカリスマ的存在であった。
ファッションやモードに対する彼の興味は、そのずっと後にも続いていく。
1984年「ディオールのように」
後に金子は、ファッションにかかわる作品を多数生み出している。やがて日本にアメリカの映画文化が流れ込んでくると、ますます金子少年は西洋文化に夢中になっていく。高校生になったころには海外の雑誌を買い集め、それらをもとにイラストを描くようになった。
高校時代に金子が描いた数多くのスケッチが残されている。一番左は15歳の時に書いた、マリリン・モンローのスケッチ。
油絵、そして澁澤龍彦との出会い
金子國義は日本大学芸術学部に進学するが、当時もまだ油絵を描いていたわけではなかった。彼が油絵を始めたのは、大学を卒業して数年経ってからの事だった。
「(油絵を始めた)きっかけは、新宿で一人暮らしを始めたことでした。引っ越した部屋に、前の住人が置いていったキャンバスあったそうです。それでとりあえず、壁一面を絵で埋めたいという意識で、描き始めたそうです」
1965年に描かれた作品。この絵は金子が絵を描き始めて間もない頃の作品である。
「趣味」で始めた油絵との出会いが、その後の彼の人生を一変させることになる。
詩人の高橋睦郎に譲り渡した、一枚の作品が、当時文壇を沸かせていた澁澤龍彦氏に見いだされたのである。
画家・金子國義の出発点と、そこから広がる世界
澁澤龍彦も、やはり金子の作品に衝撃を与えられたうちの一人である。
「澁澤さんと(当時の奥さんの)矢川澄子さんが金子の家を訪れた帰りの電車で、『O嬢の物語』という本の挿絵を金子にしようということになり、依頼が来たのが初めての鉛筆画の仕事でした」
1964年「O嬢の物語」挿絵より
そこから金子の画家としての人生が始まった。その後、金子はいくつかの個展を開催し、成功を収める。
活躍は日本国内だけにとどまらない。日本での活動がイタリアのナビリオ画廊主カルロ・カルダッオ氏の目に留まり、71年、ミラノのナビリオ画廊でも個展を開催した。
それをきっかけに、金子國義の転機となった「不思議の国のアリス」シリーズが誕生したのである。
彼の自由な表現により生み出された作品の数々が日本全土、そして世界をも巻き込み始めていた。そしてその影響は、彼のいない今でもまだ強く残り、それどころかますます魅了し続けている。
さて次回は、彼のキャリアの中で最も有名な作品のひとつ、「不思議の国のアリスシリーズ」について、じっくりお話を伺っていこうと思う。こうご期待!
ーおわりー