万年筆画家という、新しい道
水彩画のような陰影を持ちながら、あふれるシズル感を有するスイカの絵。この絵は、サトウヒロシさんが万年筆と水筆を使用し描いたものだ。
「私は食べ物を描くのが好きなのですが、食べ物をおいしそうに見せるのにぴったりなインクがあるんです。『飲んでもいいんではないか』と思うくらい。実際はもちろん飲みませんけど(笑)」
気さくに笑いながら絵を見せてくれるサトウヒロシさん。
万年筆画家である彼の活動は多岐に渡る。万年筆で絵本を描く。映像配信プラットフォーム「万年筆ラクガキ実況中継!Live」で週1回絵を描く様子を生中継する。万年筆で絵を描くコツを伝えるワークショップを開催するなどさまざまだ。
サトウさんが万年筆で絵を描くようになったのは、デザインスタジオ「ソルティフロッグ デザインスタジオ」を立ちあげたときのこと。
WEBデザイナーやイラストレーター、営業という仕事を経験し、やはり絵を描くことを仕事にしようと思い事業を起こした当時をこう振り返る。
「絵を描こうと思っても、2分と集中することができなかったんです」スランプに落ち入っていた時、絵を描く楽しさを思い出すきっかけとなったのが万年筆だった。
「ある日、文具好きの妻に誘われ散歩へ出かけたんです。訪れた場所は蔵前にある文具店『カキモリ』。その時は『万年筆?かっこいいね』程度のものでした」
「その後ツイッターを見ていると、万年筆で描いた絵が目に入りました。妻の勧めもあり、万年筆で絵を描いてWEBにアップしてみたんです。すると、思わぬ反響がありました」
最初は万年筆のみで絵を描いていたが、インクを水筆でぼかす表現方法にチャレンジ。「ぼかし表現を使えばいろんな絵が描ける」ということに気づき、万年筆で絵を描くことをライフワークとした。
万年筆インクならではの、色の個性
万年筆に欠かせないアイテムはインク。サトウさんの作業場には色とりどりのインクが並ぶ。
「万年筆のインクには1色1色に名前があります。例えば、文具店Tagから販売されている京都インク『伏見の朱色』は、京都にあるお稲荷さんの総本山『伏見稲荷大社』にある鳥居の朱色を表現しています。ただの赤色、オレンジ色ではないんです。『伏見稲荷大社の鳥居の朱色』なんです」
「その色に込めた意味や、作るまでの苦労を考えただけでも1色1色大切にしたくなるもの。これが最初から20色セットの絵具の場合、1色に対する思いが違ってきます。セットになっている絵具の場合、緑がほしい、赤がほしいという言い方になります。さらにデジタルになると色が数字になる、RGB、CMYKなど、色の名前そのものがなくなってしまいます」
「1色1色お金を出して買うたびに、『インクの色合いも、名前も素敵だな。どんな絵を描こうかな』と考えるんです。ワクワクしますね」
最初に万年筆で線を引いたあと、水筆で徐々にぼかしていく
「水筆でぼかすと元の色とは違った色に変わります。例えば同じ黒でも、オニキスは素直にグレーに落ちていく。濡羽色とかは伸ばすとブルーになるんです。一見同じような黒色に見えても水で伸ばすと個性が出てくる。それがまた楽しい」
お気に入りのインクを紹介
サトウさんの描く絵の象徴といえば、なんといっても食べ物だろう。細部まで丁寧に作り込まれた絵はとことんリアル。そして、水でぼかした部分からは食べ物特有のみずみずしさを感じさせる。
「食べ物は誰でもイメージを持っているので伝わりやすいんです。『あの鳥の羽の色』と言われてもイメージしにくい。でも、『トマトの赤色やパンの耳の色』というと誰にでも伝わりますよね。食べ物を描いたときは見ているユーザーの食いつきが違う。『おいしそう!』とたくさんの反応があり、描いていて楽しいですね」
文具店Tag「京都インク」
「食べ物を描くならコレ!」と太鼓判を押すインクが文具店Tagから出ている「京都インク」。
京色シリーズ、京の音シリーズがあり全10色、さらに限定品が各1色ずつ、京阪電鉄とコラボレーションで4色、合計で16種類で展開している。
「ものすごくインクが伸びます。そして、万年筆インクは一般的には鮮やかで発色の良いカラーが多いのですが、京都インクは少し地味。わびさびを感じさせる、自然な色になっています。京都インクで食べ物を描くと本当においしそうに見えます」
京都インクの山吹色で描いた豆腐
京都インクで描いた夏の飲み物
丸善「丸善アテナインキ」セピア
チョコレートを書かせたら最高!右に出るものはありません。インクも良く伸びます
パイロット「色彩雫(iroshizuku)」月夜
色彩雫シリーズの中でも好きなインクが月夜。月夜モデルの万年筆、カスタムヘリテージ91と合わせて使っています。
愛用の万年筆、紙を紹介
書き味は気分。好きな万年筆で描いてほしい
本来、万年筆は字を描くもの。絵を描くのに適した万年筆はあるのだろうか。お気に入りの万年筆を伺った。
「セーラー、プラチナ、パイロットなど国産のものは書きやすくてすべて好きです。海外メーカー製が書きにくいのかと言えばそうではありません。海外メーカーの万年筆は筆記体を書きやすいように調整されているのです。なので『ぬらぬら書く』という感じを受けます。国産メーカーは日本語を書くために作られています。そのため『とめ・はね・はらい』がすごく書きやすく気持ちいい、ちゃんと書けるんです」
特定のメーカーに偏らず、さまざまな万年筆を愛用している
万年筆を絵を描く画材としてではなく、あくまで字を書く文具として捉えているサトウヒロシさん。では、絵を描くのにおすすめの万年筆は?
「絵を描く上では、あまりペン軸の種類は関係ありません。好きな万年筆で描けばいいと思います。描き味は気分。1000円でも10万円の万年筆でもいいんです。1点あげるとすれば、インクフローの良い(インクが沢山出やすい)ペンは描いていて楽しいですね」
絵を描くなら『神戸派計画』のグラフィーロ
「紙は神戸発のステーショナリーブランド『神戸派計画』のグラフィーロを使っています。万年筆で絵を描くならば間違いないですね。インクがよく伸びて発色がきれいだと思います。水彩用紙に比べたら価格も安く、インクをドバドバ垂らして描いて、ドライヤーで乾かしても紙がよれません。絵を描くのに使っているのは全てグラフィーロです」
生活に根付いた文具で、絵に親しみを
万年筆で絵を描くようになり約2年。文具店で万年筆で絵を描くワークショップを開催したり、映像配信プラットフォーム「万年筆ラクガキ実況中継!Live」で絵を描く様子を中継したりと枠にはまらない形で情報を発信している。
「デザイナーとしてこれまで求められていたのは完成品を作ること。計画して修正して、クライアントが望む作品ができればよかったんです。一方、万年筆で絵を描くのはいきあたりばったり。クライアントも最初はいなかったから、ゴールも見えない。ただ、ゴールが見えないからこそ、完成までの描く過程そのものを楽しむようになりました」
この作業場から実況中継が行われている
描いた絵をSNSにアップし、ファンとコミュニケーションを取るデザイナーは多いが、サトウさんは描く過程すらコンテンツにしてしまう。「実況中継」というコミュニケーションを始めたのには、こんな理由があるようだ。
「中継をみた人が、身の回りにある文具で絵を描いてくれたらうれしいな、と。絵を描いてみたいんだけど、うまく描ける自信もないし、画材を買うほどでもない。絵を描くことにハードルを感じている人、けっこういると思うんです。身近にある文具でも気軽に絵を描けるんだよと伝えたい。絵を描く人が増えたら、絵描きへの理解も深まりますしね」
オリジナルインクに込められたこだわり
11月には、文具店Tagとコラボして作ったオリジナルの万年筆インクを発売する。
「手帳に書いたとき他の色のインクと喧嘩せず、程よく馴染む。かつ絵を書いたときにうまく見えるように色味を調色しています。『弁柄色』は発色の濃いところから水筆でぼかし薄くなっていくにつれて、イエロー寄りの濃いブラウンから赤に向けて色相が移動していきます。
万年筆でスケッチをする際に、主線から陰影までこの1色だけでも幅広く味のある表現ができるような色を目指して、文具店TAGさんと検討を重ねました」
サンプルのインクで描いた絵を見せていただいた。インクの色は、悩んだ末に2番にしたそう。
インクに込められた思いを聞いていると、「別にうまく描けなくてもいい。インクの色を楽しんでみたい」という気持ちになってくる。万年筆で絵を描くことは、絵と人をつなぐ架け橋になる予感がする。まずはサトウさんの「実況中継」から、インクの奥深さと絵を描く楽しさを感じてみてほしい。
ーおわりー
文房具を一層楽しむために。編集部おすすめの書籍
万年筆画家・絵本作家のサトウヒロシ氏が 「描くことの楽しみ」をテーマに作った万年筆ラクガキの入門書
万年筆ラクガキ講座
安価で書きやすい万年筆と多彩なインクが数多く登場している今、本誌では基本的な万年筆の使い方や道具の知識、ラクガキの表現方法、上達の快楽を150点以上の図版を交えながら紹介しています。
さらに、万年筆インクカタログ全113色や作品(解説付き)約20点を盛り込んでいます。誰でも描けるシンプルな線や丸がちょっとした技法を加えるだけでユニークな表現になり、そして楽しい作品にもなる。
そんな「万年筆ラクガキ」の楽しい世界にあなたもどうぞ踏み込んでみてください!
定番ブランドの人気色からご当地限定のインクまで、約700色の万年筆インクを掲載!
美しい万年筆のインク事典
「インク沼」という言葉が流行っているほどいま大注目の万年筆インク。
本書は今までになかった初めての「万年筆インク事典」として、基本色の7色(赤・黄・青・緑・紫・茶・黒)のほか、各地方にしか売っていないご当地インクや希少性のあるインクなど、万年筆インクを知り尽くした著者が厳選した約700色のインクを紹介しています。巻頭には基本色の色見本一覧付き。
終わりに
取材前はなぜ万年筆で絵を描こうと思ったのか、まったく想像ができなかったが経緯をお伺いし納得した。「綿密な計画を立てて決まったゴールに向かうのではなく、ゴールが決まっていないものに対してその過程に面白みを感じる」と。取材前は万年筆インクについて知識がなかったが、サトウさんが語る色へのこだわりが深く、1色1色の個性を感じることができた。