祈りは香りとともに
今回は本物の香りを考えるひとつの視点として、香りの本質的な特質について紀元前まで遡りながらお話ししていきたいと思います。
当連載の特別企画として開催した香十前社長・稲坂良弘さんとのLive対談でも触れましたが、日本で最初の香木についての記述は西暦595年(推古天皇3年)の『日本書紀』にみられます。淡路島にひと抱えもある香木が漂着して、島人が火にくべたところ素晴らしい芳香が遠くまで漂ったことに驚いて朝廷に献上したことが記されています。香木の存在など露知らない島人達ですら、嗅いだことのない魂を揺さぶるような良い香りには、何か特別なものを感じたようすが伝わりますね。
古くから素晴らしい香りが抗いがたい力で人々の心を魅了してきたことを示す事例ですが、世界的にみると香の使用は紀元前にまで遡ります。
例えば古代エジプトでは数千年前からミイラが作られていましたが、その作業には防腐効果のある没薬(ミルラ)や桂皮(シナモン)など、数種類の香料が欠かせませんでした。1922年に発掘されたツタンカーメンの墓には陶器で作られた香壺が埋葬されており、蓋を開けると良い香りがしたといいます。
死後の世界への旅路には香りが欠かせなかったというのも、香りの持つ高い精神性が表れているのではないでしょうか。
香水の語源「Per Fumum(煙を通して)」
今日では英語で香水のことを「パフューム(Perfume)」と言いますが、その語源となったのは「煙を通して」という意味のラテン語「Per Fumum」です。古くから洋の東西を問わず香りは様々な場面で使用されてきましたが、そもそもは香りのする植物や樹脂などに火をつけて焚き、煙を立てながら香らせていたことが読み取れます。なかでも根源的な使われ方だったのは、祈りを捧げる時に香を焚いたことでしょう。
古代エジプトでは、1日に3回太陽神ラーに祈りを捧げる時に香を焚きました。日の出にはフランキンセンス(乳香)、正午にはミルラ(没薬)、日没にはキフィ(数種類の植物の香りを混ぜたもの)、という具合に使われる香りの種類も時間によって決められていました。
仏教では仏前を浄め、邪気を払う「供香(そなえこう)」として用いられ、花や灯りとともに仏前には香も必ず供えるよう経典の中で説かれています。
キリスト教で香りが用いられるようになったのは4世紀以降と言われますが、正教会やカトリック教会の祈祷の際に、主教や司祭が「振り香炉」と呼ばれる金属製の香炉にフランキンセンスを入れて焚き、その香炉を振って香りを振りまきながら歩くという伝統があります。イエスキリストが生まれた時の3つの贈り物のうち2つはフランキンセンスとミルラという香料でしたし、旧約聖書にも香油が度々登場します。
世界各地で祈りとともに捧げられた香。香を焚いた時にあたりに広がる香りは神聖な空間を作り上げます。魂が揺さぶられるような香りに包まれてその煙が天高くまですーっと立ち昇っていく様子は、まるで人々の祈りが煙に乗って神様に届いていくような感覚をもたらしたのではないでしょうか。
古くから香りは祈りとともにあるものだったのです。
香りを味方につけた美女たち
Live対談では、戦国時代に婆娑羅大名の異名を持った武将、佐々木道誉が香木をあり得ないくらい贅沢に使うことでその権威を見せつけたことをお話ししましたが、外国では女性が香りを使って巧みに人心を操ったというお話しが残されています。素晴らしい芳香にはどうにも抵抗し難い魔力とも言えるような魅力がありますが、これを利用して自らの権力や地位を築いていった歴史に残る美女2人の逸話をご紹介しましょう。
古代エジプトの王妃 クレオパトラ7世
まずは、エジプトの王妃クレオパトラ。絶世の美女として知られますが、香りの力を利用して権力の座についた最初の女性とも言われています。彼女が好きだったのはバラ。その美貌と魅力を抗いがたいほどに高めたのは、彼女が愛したバラの香りでした。両手に塗るためだけに法外な価格の香料を使用したという記録も残されています。彼女の乗る船には香が焚き染めてあり、船から漂う妖しい香りは近くの波止場の者たちの心(鼻!)を捉えて離さなかったとも伝わります。
エジプトの王位を追われた彼女がローマ帝国のカエサルの助けを求めた時、カエサルは彼女の美貌はもとよりその身体から放たれる濃厚で妖艶なまでに芳しい香りに参ってしまったと言われます。カエサルの心を射止めたクレオパトラは、その助けを得てエジプトのファラオに復権することになります。
中国唐代 玄宗皇帝の妃 楊貴妃
もう一人は、中国の絶世の美女として知られる楊貴妃。生まれた時から身体に芳香があり、美貌の持ち主だっただけでなく、音楽や踊りの才にも秀でており、玄宗皇帝の寵愛を一身に受けた女性です。玄宗皇帝は彼女を寵愛しすぎたために国を亡ぼす戦乱を引き起こしたことから、傾国の美女とも呼ばれます。肖像画によると、彼女はエキゾチックな顔つきで当時としては豊満な容姿をしていたようです。
楊貴妃が居た「沈香亭」は香り高い白檀(サンダルウッド)で作られており、壁には乳香(フランキンセンス)や麝香(ムスク)が塗り込まれていたとか。玄宗皇帝から賜った麝香(じゃこう)入りの匂い袋を身に付けていただけでなく、体臭をケアするために麝香を体に塗っていたとも伝えられています。身につけていた香りは遠くまで漂い、肩から垂れる長い布にも衣を通してその香りが移るほどであったとか。二日酔いに苦しんだ時には、玄宗皇帝とともに牡丹の花の香りを嗅いで酔いを覚ましたという話も残されています。また楊貴妃はライチを大変好んで食べていたことも知られています。ライチも華やかで麗しい香りのする果物ですね。
楊貴妃は様々な香りを自らの魅力として活用していたことが伺えます。玄宗皇帝は、楊貴妃と過ごす芳しい時間の虜にもなってしまったのかもしれません。
香油やバームから「香水」の時代へ
クレオパトラや楊貴妃の時代には、香りは香油やバーム(軟膏)という形で使われていましたが、14世紀になると蒸留技術が発展しアルコールが得られるようになり、初めてアルコールを使用した香りの水「香水」が作られます。やがて太陽王と呼ばれたルイ14世の時代(1643~1715)にフランス王朝は絶頂期を迎え、王侯貴族たちの華やかな日常が繰り広げられます。ルイ16世(1774~1792)の妃となったマリー・アントワネットのように、当時の特権階級の人々にはお抱えの調香師がいて自分だけの香りを作らせていました。マリー・アントワネットはスミレとバラの香りが好きで、通常よりも強く香らせることを好んだと言われています。
当時の女性はコルセットでウエストをギュウギュウ締め付けた服装ですから、外出先で気絶する人もいたのですが、そんな時にはフラコン(小瓶)に入れて持ち歩いていた香水を気付け薬として嗅がせることもありました。
やがて特権階級の贅沢を極めた暮らしぶりが貧困に喘ぐ庶民の反感を買うことになり、1789年のフランス革命を経てナポレオンがフランス市民の代表として新たな皇帝となります。フランス革命の頃から香水は王侯貴族だけの楽しみから一般大衆へと広がりを見せはじめます。
ナポレオンとジョセフィーヌ、離婚は香りの好みの違いから?
ナポレオンと皇妃ジョセフィーヌにはそれぞれお気に入りの香りがあったのですが、香りの好みが正反対であったことが離婚の原因の一つとも言われています。伝わるところによるナポレオンは、軽くて爽やかなシトラスの香りが好みでした。一方ジョセフィーヌは、濃厚なムスクの香りが大好きで身の回りに強く香らせていたのですが、ナポレオンはムスクの香りが苦手だったようです。
表向きには世継ぎが産めなかったことが離婚の原因とされていますが、本当のところは本人たちにしか分かりません。香りの好みの違いが結婚生活にも影響を及ぼすというのはあり得ない話ではなさそうですね。
貴族出身のジョセフィーヌは、居館マルメゾン城で多くの珍しい動植物を育てました。なかでもバラが大好きで、庭園には250種類にも及ぶバラのコレクションがあり、その姿をお抱えの画家であったルドゥーテに描かせたものが今日にも残るルドゥーテの「バラ図譜」です。バラは日本にも多くのファンがいる花ですが、ファンの間では「バラ図譜」も有名です。
バラの香りは、時代を超えて多くの人々を魅了してきました。ジョセフィーヌはムスクだけでなくバラの香りも好きだったのでしょう。ふたりの離婚後、ナポレオンは再婚しますが、死ぬまでジョセフィーヌはナポレオンの良き相談相手であったことを考えると、もしふたりが相手の好みも考えて身に纏う香りを選んでいたら、ジョセフィーヌがムスクではなくバラの香りを漂わせていたら……と想像したくなってしまいます。
歴史を振り返っても、香りは人々の心の奥深くに寄り添い、癒しを与えてくれる存在でした。皆さんが身に纏う香りやお部屋に漂わせる香りを選ぶ時にも、ご自身の心の声に耳を傾けて、今自分が心から心地よいと感じる香りを探してみてください。感性のトレーニングにも繋がりますよ!
今回の連載を読んで、香水の歴史に興味を持った方は、近代香水史を代表する香水を嗅ぎながらその香水が作られた時代背景とともに学ぶサンキエムソンスジャポンの講座「レッスンNo4」を受講いただくのもひとつの方法です。
自分の香りの好みを知りたいという方は、私がマンツーマンでアドバイスさせて頂くパーソナルフレグランス・コンサルテーションもおすすめです。
次回は、近代的な香料産業が幕を開けてから現代の香水に欠かせない様々な香料が作り出されていく様子についてお話しします。
ーおわりー
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