2001年「料理番の娘」。 斬新で自由なアイディアで一度見たら忘れない作品である。
お金を稼ごうと思わない
元々、金子國義にはお金への執着が全くと言っていいほどなかったという。
「お金を稼ごうという概念がなかったですね」
修さんはそう笑っていた。肖像画のオファーがあり、いい条件の仕事であっても「(依頼人の)顔が気に入らない」という理由で断ったり、オファーを受けても途中で破綻することもあったようだ。
「海外のバンドからCDジャケットの依頼を受けた事がありました。でも、途中まで描いて、いろいろと注文が増えてしまったのでイライラして、ほぼ完成していたのに『やっぱりやらない』という事もあったくらいです」
金子國義がお金に執着がなかったのは、裕福な育ちが理由となっていることは疑いようがない。
金子修さんと金子國義の出会い
金子修さんは金子國義とは血縁関係にない。2002年に養子縁組をして、正式に「金子修」となったのである。今回は、修さんと金子國義の出会いについても伺うことができた。
実はもともと、修さんは國義の事を知らなかったのだという。
「1992年です。大阪に住んでいた時、宗右衛門町のバーで飲んでいたら、展覧会で来ていた金子先生に「あなた金太郎みたいね」と声をかけられたのがきっかけです」
1992年に金子國義と知り合ったころの修さん
その頃、アシスタントを探していた金子國義は、土木・建築関係の力仕事をしていた修さんを誘った。修さんはそれを受け、金子を東京まで車で送って行き、そのまま大森のアトリエに住み込みで働くことになったという。
「住み込みを決めたのは、ノリと勢いです(笑)。全く知らない世界だったので、初めはびっくりしました。仕事が何時から何時までという決まりもないし、寝ていても『お酒が足りないから買って来て』と起こされ、ここに住んでいたら延々と仕事することになりますから」
たくさんの思い出の品に囲まれてお話をする修さん
昼も夜もない生活としては、展覧会前夜のエピソードが非常に興味深かった。
「展覧会場で作品を仕上げたりもしていましたから、大変でした。今では難しいと思いますが、当時は伊勢丹でも、夜中の2時、3時まで作業させてもらえていました。飾り付けの日にそういうことをする作家は、珍しいと思います」
しかし、金子の場合は展覧会の前にはよくある光景だったのだという。そういったギリギリの状況にいたからこそ「名作」が生まれるという事もあったそうだ。
金子國義の「名作」誕生秘話
ここで金子國義の「名作」について話を掘り下げたいと思う。
この取材を進めるにあたって、私達は金子國義の「名作」についてのお話を伺うつもりでいた。しかし、「名作」とは一体、なんなのか? 「代表作」とは違うのだろうか?
話を伺う上で浮かんだ疑問を投げかけると、意外な答えが返ってきた。
「ほぼ期限が決まっておらず、自分で描きたいように描いたものが『名作』です。展覧会や締め切りが決まっていて急いで描いたのは、ちょっと『妥協』です。もともとの部屋に飾る絵が欲しくて油彩を描き始めた心情はずっと変わらず、飾りたくて描いた絵が名作だと思っています」
それでは「名作」とはどういった作品なのか、いくつか例に挙げていただいた。
1977年「この人を見よ」
この絵は、1977年に金子が怪我をした後に描かれたものだという。
「金子が家の階段から落ちてしまって、ろっ骨を二本半折ってしまったことがありました。この絵は、その時のレントゲンからインスパイアされたものです」
金子はかなりこの絵を、そのエピソードも含めて気に入っていたようだ。その後しばらく、「僕は怪我をしたらいい絵を描ける」と言っていたらしい。
1986年「慈愛」
「これは屏風(びょうぶ)です。DCブランドのパーソンズがレストランを始めるという事で、金子の絵を飾りたいとオファーされたものです」
大胆な墨使いと構図、そして大きなサインは、他の金子の絵とは少し違った味わいのある作品だ。
「墨絵は毎日描いていないと筆が手に馴染みません。書道と同じです。当時、パーソンズの岩崎社長が墨絵用のマンションを借りてくれたので、そこで毎日描いていました。人物の線を省く感覚や大胆なサインも墨絵を描き続けていたことによる研ぎすまされたセンスです」
1983年「エスカイア」
「これはエッチングという版画技法です。緊張感があって、完成度が高い。これも、特にオファーされた作品ではなかったはずです」
油彩、水彩、鉛筆画、墨絵や、版画のみならず、写真家としても活動しており、写真集も出版している。
2004年写真集「DRINK ME EAT ME」より
「写真を撮るのは、絵を描くより体力を使いました。全然シャッター押さないんですよ。まずシチュエーションを決めるんですが、手をこう、顔をこう、目をこう、と順番に決めていくので。5分かけてようやく一枚撮るようなペースでした」
一般的に写真家というと、とにかくたくさんシャッターを切るイメージだが、金子はこれだ、と思わないとシャッターを切らなかったらしい。妖艶でエロティックな写真作品が生まれるまでに、それほどの苦労があったというのは興味深い話であった。
金子國義、未完の作品
金子國義の家に、ちょっと不思議な絵が飾ってあった。おそらく直立しているだろう美しい女性の絵なのだが、彼女の顔以外、白い絵の具で荒く塗りつぶされているのだ。
制作年不明
金子國義の作品は、細部までしっかりと描かれている事が多いので、このような状態のものを見ることは珍しい。
「これは描きかけです。金子は顔から先に書くから、顔は気に入っていて周りをどうにかしようと思って塗りつぶしました」
そして結局この絵は完成することはなかった。金子は他の画家に比べてあまり仕上げるのが早い画家ではなかったという。
「あまり早く描くと乾かないので、本当は2、3枚くらい同時に描くのが理想なのですが、1枚に集中することが多かったです。未完になるというのは、結局飽きたり、他に気が行ったりで描かなくなってしまうのですよ」
金子の制作方法は非常に独特である。彼は顔を描くことが好きで、どんな絵でも顔から描くということなのだ。それが理由で、途中で筆を置いた作品も、顔だけはしっかりと完成しているものが多い。この絵も、そんな一枚である。
金子國義の最後の作品
金子國義が2015年に急逝した時に遺した、最後の絵が未完のままアトリエに置いてあった。
2015年 タイトル不明
非常に大きな作品で、細部は全くの未完成であるが、中心の女性の顔はしっかりと描かれている。
「この絵だけ少し、他の絵と表情が違いますよね」
修さんは絵を見ながらそう語った。確かに、他の絵のような無表情なものではなく、この絵の女性の表情には感情らしきものが見てとれる。驚いているのか、怒っているのかもわからないが、他の絵とは全く違う意識があるように思えた。
修さんも、何故このように人物の表情を描いたのかは分からないという。
金子國義にとって最後となったこの未完の作品。もちろん、彼にとってこの絵が最後のものになろうとは全く考えていなかっただろう。
とするならば、この絵を皮切りにまだまだ新たな試みがなされ、今までになかったような作品を見ることもできたのかもしれない。そう考えてしまうと、あまりにも惜しい事である。
現代、そして未来にも生き続ける金子國義
1977年「楽屋のアリス」
多くの名作や傑作を生みだした金子國義の作品を改めて観てみると、一見しただけでは計り知れない魅力に満ち溢れていることに驚嘆の念を禁じ得ない。
例えば一枚の絵であっても、それを観る時代、性別、年齢、環境によって、いかようにも味わうことができるのが、金子國義の作品の最大の魅力なのではないだろうか。
今回、金子修さんのお話を伺って、改めて金子國義という人物の魅力と、作品にみなぎるパワーに触れることが出来た。
現代においても、いや、様々な価値観の行き交う現代だからこそ、彼の作品を多くの人に見てもらい、様々な感性を揺さぶるような経験をしてもらいたいと、心から願っている。
ーおわりー
建物の2階にある作業部屋。壁一面に自分の作品や気になった写真の切り抜きが貼り付けられている。金子國義は亡くなる直前まで、この場所で絵を描いていた。置いてきぼりになった道具たちは、当時の様子を物語っている。
終わりに
エロティックで妖艶な金子國義さんの哲学に少しでも近づくことができれば、と思い挑んだインタビュー。その独特の美学と絵画に対するモチベーションは大変興味深いものではありましたが、いざ取材を始めるとご子息の金子修氏も大変ユニークな方で、大変興味深く話を伺う事が出来ました。さすが、自由を絵に書いたような金子氏と共に歩んでこられただけのことはあります。
それにしても金子氏の時代を作ったといっても過言ではない、あのアトリエが取り壊されることは残念でなりません。その最後の姿を見る事が出来て、本当によかったと思います。