幌内鉄道開業(北海道鉄道の始まり) 1880年11月28日<日本鉄道物語コレクション>

0

 明治新政府は北海道を開拓するため1869(明治2)年、統括する役所「開拓使」を設置し、開拓に実績のあるアメリカから技術者を招きました。

 石狩川の支流幌内川の上流で、後に石狩炭田と名付けられる良質の石炭の大埋蔵地を発見し、産出する石炭を幌内から室蘭港へ輸出する鉄道が計画されました。しかし。多大な経費を要するため再検討され、鉄道は幌内-幌内太(現三笠)とし、舟運により石狩川を下り小樽湾へ輸送する案に変更されました。鉄道建設に当たり新たにアメリカからJ.U.クロフォード技師が招聘され、改めて調査したところ、舟運による輸送は川の氷河期や雪解け、雨季の増水のため150日内外しか輸送できにないことがわかり、幌内から札幌を通り小樽へ鉄道を建設する方が経済的で安定した輸送が可能との報告書を開拓使で提出しました。初代長官黒田清隆は、軌間は内地と同じ1,067mm、質素で堅牢な鉄道とすることで建設をクロフォードに委ねました。

 1880(明治13)年1月着工、クローフォードは器材及び車両一切をアメリカに発注、イギリス式の内地の官鉄に対し、ダイヤモンド形煙突にベルとカウキャッチャー付きの機関車を初め、西部劇スタイルのアメリカ式の官営「幌内鉄道」が1880(明治13)年11月28日手宮-札幌間を開業しました。

 当初機関車2両、客車8両、貨車10両を輸入、当初から空気ブレーキ、自動連結器を備え、客貨車はボギー車でした。機関車1号は「義経」、2号は「弁慶」、最上等客車は「開拓使」と命名され、車体の表記は黒田清隆の筆と伝えられています。

 1882(明治15)年11月13日幌内まで開通、1889(明治22)年12月に幌内鉄道は民間に払い下げられ北海道炭鉱鉄道となりました。1906(明治39)年に再度国有化され、「義経」は7100形7105、「弁慶」は7101、後に増備した6号「静」は7106となり、2005(平成17)年11月現在、「義経」は大阪交通博物館、「弁慶」と客車「開拓使」は交通博物館、「静」は小樽鉄道記念館に復元展示されています。

(解説:堀口洋平)

#切手
#鉄道グッズ

Default