東海道本線全線開通(新橋-神戸) 1889年7月1日<日本鉄道物語コレクション>

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 東京と京阪神を結ぶ最も重要な幹線鉄道ルートを、既に着工していた中山道から急遽東海道に変更したのは、山間部を通る中山道線が予想以上に難工事であったからです。しかも政府としては一日でも早い東西幹線の開通が必要で、時の鉄道局長官、井上勝は東海道経由に変更する案を上申しました。その際の条件は、1890(明治23)年に開通予定の第一回帝国議会の開会までに工事を完成させ議員を乗せる事で、承認されたのは1886(明治19)年7月19日でした。当時西側の工事は既に中山道線の一部として長浜から逐次東進を続け、1887(明治20)年4月25日、長浜-名古屋-熱田間が開通し、大津-長浜間は琵琶湖上の太鼓汽船(我国最初の鉄道連絡船)の航路を介し、名古屋から神戸まで一日で到着可能となっていました。

 一方東側は横浜-熱田間の建設工事として急ぎ着工、1886(明治19)年11月横浜-酒匂川間をかわきりに、天竜川を境に東西二分して進められました。しかし大井川を始め7つの長い鉄橋と御殿場回りの箱根越えの工事が難関で、血の滲む様な突貫工事の末、1889(明治22)年4月16日横浜-熱田間が、続いて長浜-米原間と最後の関ヶ原-米原-馬場(現膳所)間が同年7月1日に開通し、これで新橋-神戸間605.7kmのレールが繋がりました。当初前線直通列車は日に一往復、所要時間下り20時間5分、上り20時間10分でした。また全通による路線変更で長浜は金ケ崎線(現北陸線)の一駅となり、太鼓汽船による連絡船も僅か数年でその使命を終えました。カバー絵は1890(明治23)年に輸送力増強の為、英国B・ピーコック社から輸入された新鋭2B形テンダ機関車106号(後に5300形)が牽く列車です。

(解説:樽井秀美)

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