(C814-C815)近代美術シリーズ 第3集 初日カバー

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発行日 1979.9.21

 「黒き猫図」は菱田春草(1874~1911)の1908年第4回文展への出品作で、写実性と装飾性という相反する要素をもつと言われる。菱田春草は日本美術院に参加し、没線彩画という印毛を主として、色を重視した表現法の日本画を描いた。

 「金蓉」は安井曽太朗(1874~1911)の第2回二科展への出品作で、「現代の写実主義の模範作」と称されている。安井曽太朗は二科会会員で、主観主義的な近代写実絵画を確立した。

額面・種類 
  50円 2種
図案    
  ①黒き猫図
  ②金蓉
原画構成者  
  ①②菊池 吉晃
版式・刷印 
  ①グラビア4色
  ②グラビア6色
印面寸法  
  ①よこ27×たて48ミリのたて型
  ②よこ30×たて48ミリのたて型
シート   
  ①②よこ5×たて4 -20面構成
発行数   
  ①②2,800万枚

■菱田春草肖像画カバー
https://muuseo.com/stamp_collection/items/49

■安井曽太朗肖像画カバー
https://muuseo.com/stamp_collection/items/55

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菱田春草 ≪黒き猫図≫(1910年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
菱田春草 本名は三男治。1874年長野県飯田に生まれる。明治7年(1889)上京して結城正明に師事し日本画の初歩を学び、翌年東京美術学校に入学、明治23年(1895)卒業した。翌年から母校の教団に立ち、また、日本絵画協会共進会に「枯華微笑」「水鏡」などを出品、受賞して画名があがった。明治31年(1898)岡倉天心が東京美術学校長の職を逐われたのに殉じて、日本美術院の創立に加わってその正員となり、以後下村観山、横山大観らとともに前期日本美術院の中核として活躍し、大観と没線色彩の新技法を試み、朦朧派と呼ばれた。明治36年(1903)大観とインドに遊び、翌37年から38年にかけて大観と同道してアメリカ、イギリスなどを回り、展覧会を開いている。明治39年、天心、大観らと共に茨城県五浦に移り住み、画業にはげむ。明治40年(1907)文部省第一回美術展が開かれるや、「賢首菩薩」を、以後「落葉」「黒き猫」などの名作を出品。賞を得たり、問題作となる。明治44年(1911)、若年37歳で歿す。岡倉天心の指導の下で新しい日本画を作り上げた、明治日本画壇の輝ける存在である。 #切手 #初日カバー #FDC #近代美術シリーズ
https://muuseo.com/stamp_collection/items/49
安井曽太郎 ≪金 蓉≫(1934年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
安井曽太郎 明治21年(1888)、京都市の木綿問屋の子に生まれる。商業学校本科1年修了後、画家を志し明治37年(1904)浅井忠の聖護院洋画研究所に入り、ついで関西美術院に移って浅井の教えを受ける。明治40年(1907)から大正3年(1914)までフランス留学、初めアカデミー・ジュリアンでジャン・ポール・ローランスに師事する。またミレー・ピサロ特にセザンヌらに心をひかれ、示唆されるところが多かった。帰国後、二科会会員に迎えられて二科展に作品を発表し、独自の写実的作風を確立した。昭和10年(1935)帝国美術院会員に任命されて二科会を離れ、翌年同士と一水会を創立し、長くその主導的立場にあった。また昭和19年(1944)帝国美術員、東京美術学校教授に任ぜられ、昭和28年(1952)文化勲章を授与された。安いは誠実勤勉で、その全エネルギーを絵の制作と内省に向け、それでいて明るく朗らかで、親しみやすい人柄で時人のあつい尊敬を受けた。死後「安井賞」が設けられ、毎年具象系新人画家におくられてきた。多くの風景画や静物画をものしたが、特に肖像画にすぐれ、「金蓉」の他、「T先生の像」「本多先生の像」「安倍先生の像」などの名作がある。 #切手 #初日カバー #FDC #近代美術シリーズ
https://muuseo.com/stamp_collection/items/55

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