(C810-C811)近代美術シリーズ 第1集 初日カバー

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発行日 1979.5.30

 狩野芳崖筆「悲母観音像」は明治初期の代表的な日本画家であった芳崖(1828~1888)の絶筆といわれ、近代日本画の歩みの第一歩をsるす記念的作品として、あまりにも名高い。

 青木繁筆「わだつみのいろこの宮」は、1907年の東京府勧業博覧会に出品された作品で、名実ともに彼の最高傑作である。青木繁(1882~1911)は、古事記などの神話世界や天平時代の古代風俗を素材に、浪漫主義的な情感にあふれる絵をかいた。

額面・種類 
  50円 2種
図案    
  ①悲母観音像
  ②わだつみのいろこの宮
原画構成者  
  ①②菊池 吉晃
版式・刷印 
  ①グラビア4色 凹版1色
  ②グラビア6色
印面寸法  
  ①②よこ27×たて48ミリのたて型
シート   
  よこ5×たて4 -20面構成
発行数   
  ①②2,800万枚

■狩野芳崖肖像画カバー
https://muuseo.com/stamp_collection/items/34

■青木繁肖像画カバー
https://muuseo.com/stamp_collection/items/35

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狩野芳崖 ≪悲母観音像≫(1888年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
1979年5月30日発行 狩野芳崖 文政11年(1828)1月13日。長府毛利藩御用絵師狩野晴皐の子として長府院内(現在の山口県下関市)に生まれた。父に狩野派の画法を学んだのち、弘北3年19歳で江戸へ出て狩野勝川院雅信の門に入り、嘉永4年早くも塾頭となった。その後廃藩置県により浪人となり。生活の為に次々と職をかえて苦労を重ねたがこの間にも絵筆をすてず、明治17年第2回内国絵画共進会に出品した「桜花勇駒」「雪山慕渓」で褒状を受けた。このとき、岡倉天心と並んで明治における日本美術の偉大な指導者の一人だった米国人フェノロサに注目され、一大転機を迎えることになる。以後全情熱を傾けて新日本画の創造に取組む。フェノロサは理論的指導者として芳崖の才能によって新しい時代にふさわしい日本画を樹立しようとし、いっぽう芳崖はその期待に応えるように「不動明王図」「悲母観音像」などの秀作を次々に制作し、自己の芸術を四年という短い期間に一気に開花させるのである。東京美術学校の創設にも力を尽くしたが、開校を目前にして、明治21年(1888年)11月5日61歳で歿した。 #切手 #初日カバー #FDC #近代美術シリーズ #狩野芳崖
https://muuseo.com/stamp_collection/items/34
青木 繁 ≪わだつみのいろこ宮≫(1907年) 「近代美術シリーズ初日カバーコレクション」
1979年5月30日発行 青木 繁 明治15年(1882)7月13日、没落した旧有馬藩士青木廉吾の長男として、福岡県久留米市に生まれた。明治32年上京して画塾不同舎に入門、さらに翌33年東京美術学校に入学した。明治36年第8回白馬会展に「黄泉比良坂」などを出品して第1回の白馬会賞を受賞、ついで翌年第9回白馬会展に「海の幸」を出品し、その浪漫主義的な情感にあふれる表現は人々に新鮮な感動を与え、青木の画名を一躍高めた。しかし名声は長くは続かず、明治38年頃から父の病気、福田たねとの恋愛問題などから心痛がたえず、また自分自身の生活の困窮も加わって、心身ともに切迫した状態に落ち入る。そして明治40年再起を期して、東京府勧業博覧会に出品した「わだつみのいろこの宮」が3等末席に終わり、さらに同年第1回文展に出品した「女の顔」があえなく落選したことが、彼を決定的にうちのめした。明治41年以降失意のまま福岡、熊本、佐賀地方を転々と流浪し、44年(1911)3月25日わずか28歳のわかさで歿した。なお福田蘭童は福田たねの生んだ青木の遺児である。 #切手 #初日カバー #FDC #近代美術シリーズ
https://muuseo.com/stamp_collection/items/35

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