狩野芳崖 ≪悲母観音像≫(1888年) 「近代美術シリーズ初日カバー」

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1979年5月30日発行

狩野芳崖
文政11年(1828)1月13日。長府毛利藩御用絵師狩野晴皐の子として長府院内(現在の山口県下関市)に生まれた。父に狩野派の画法を学んだのち、弘北3年19歳で江戸へ出て狩野勝川院雅信の門に入り、嘉永4年早くも塾頭となった。その後廃藩置県により浪人となり。生活の為に次々と職をかえて苦労を重ねたがこの間にも絵筆をすてず、明治17年第2回内国絵画共進会に出品した「桜花勇駒」「雪山慕渓」で褒状を受けた。このとき、岡倉天心と並んで明治における日本美術の偉大な指導者の一人だった米国人フェノロサに注目され、一大転機を迎えることになる。以後全情熱を傾けて新日本画の創造に取組む。フェノロサは理論的指導者として芳崖の才能によって新しい時代にふさわしい日本画を樹立しようとし、いっぽう芳崖はその期待に応えるように「不動明王図」「悲母観音像」などの秀作を次々に制作し、自己の芸術を四年という短い期間に一気に開花させるのである。東京美術学校の創設にも力を尽くしたが、開校を目前にして、明治21年(1888年)11月5日61歳で歿した。

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    Jason1208

    2019/12/24

    東京美術学校は、今の東京芸術大学の前身ですね。
    歴史の流れを感じます。

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    • 東京藝大ですね♪
      私のフルートの先生も藝大ですが、
      先生のお友達で藝大を卆業された方は。。。かなり変わった方が多いです。。。

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