昭和25年(1950)年賀切手「丸山応拳のトラ」カシェカードコレクション

0

 昭和25年6月、朝鮮半島の北緯38度線で戦闘が勃発した。北朝鮮軍は韓国のソウルを陥落させ、半島南部まで迫ったが、米軍中心の国連軍が反撃。北側には中国が参戦して、戦況は膠着した。3年後の休戦が成立する。

 この朝鮮戦争は、わが国がヤミ市に象徴される戦後の経済混乱から抜け出すきっかけとなった。国連軍の中心をなす在日米軍の兵站を担った日本は特需で潤い、経済復興の糸口をつかんだのである。鉄銅と繊維の景気は「金へん・糸へん」といわれた。一方、在日米軍が挑戦戦争に投入された結果、日本は後方基地として独自の治安確保を迫られ、GHQのポツダム政令として、警察予備隊令を施工した。5年ぶりに備えた軍事力であったが、これが後の自衛隊への布石となる。

 昭和25年はまた、聖徳太子の肖像を採用した千円札の発行、自由党の結成(吉田茂総裁)、公職選挙法公布、NHK(日本放送協会)発足、総評(日本労働組合総評議会)結成など、戦後の新しい動きが数多くあった年でもあった。京都の金閣寺が同寺の僧によって放火され、全焼するとういう悲劇も記録されている。山本富士子が第1回ミス日本に選ばれたのもこの年であった。マッカーサー元帥による共産党幹部の公職追放に端を発して。レッドパージ(赤狩り)がマスコミや政府機関にもおよんだ。

 この年のために新年賀切手に採用されているのは、丸山応拳筆の「龍虎の図」のうちの虎の部分である。丸山応拳(1739~95)は江戸時代後期の画家である。最初は雪汀、仙嶺などと号したが、34歳の時に応拳と改めた。生国は丹波とも京都ともいう。はじめ狩野派の石田幽汀に学び、、またオランダの眼鏡絵から洋風画の遠近法や陰影法を習得、さらに洋画の人体解剖や動植物の写生の技法を取り入れ、また元・明の克明な院体画風の花鳥画、沈南蘋らによって移植された明・隋の写生画体などを学び、これらを巧みに総合折衷しつつ独自の洋式を創始した。そうした進歩的な様式は次第に各階級の支持を得て、つには画壇の大家となり、丸山派の祖となる。

カシェカード挿絵=藤井厚志

#切手
#年賀切手

Default