(C849-850)近代美術シリーズ 第8集 初日カバーコレクション

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発行日 1980.10.27

 「女」は萩原守衛(1879~1910)の絶作で、代表作である。萩原守衛はフランス留学中、ロダンの彫刻「考える人」を見て深く感動し、絵画から彫刻に転向し、すぐれた彫刻作品を残した・

 「黒船屋」は武久夢二(1884~1934)が大正8年(1919)頃描いた掛物で彼の最高傑作と言われる。竹下夢二は挿絵作家として活躍し、その叙情豊かな美人画は「夢二式」と呼ばれて、人気を博した。

※1980年当初の説明です。

額面・種類 
  50円 2種
図案    
  ①女
  ②黒船屋
原画構成者  
  ①②菊池 吉晃
版式・刷印 
  ①グラビア5色
  ②グラビア6色
印面寸法  
  ①②よこ27×たて48ミリのたて型
シート   
  ①②よこ5×たて4=20面構成
発行数   
  ①②2,800万枚

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■萩原守衛肖像画カバー
https://muuseo.com/stamp_collection/items/84

■竹久夢二肖像画カバー
https://muuseo.com/stamp_collection/items/83

萩原守衛≪女≫(1910年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
萩原守衛 明治12年(1879)12月1日長野県南南雲郡穂高町の農家に生まれる。高等小学校卆業後、家業手伝いをしておたが、明治32年画家を志し上京、小山正太郎の指導する画塾不同舎に入った。しかし日本の洋画壇の状況にあきたらず、明治34年真の芸術とは何かという問題をつきつめて考えるために単身渡米、苦学しながらニューヨークの美術学校に学んだ。ついで明治36年パリへ渡り、アカデミー・ジュリアンでデッサンの勉強をしたが、翌37年サロンでロダンの「考える人」を見て強い衝撃を受け、自分求めていた芸術をロダンの作品に発見、この時から彫刻に転向した。いったんアメリカにもどり、学資を得て明治39年にふたたびパリへ渡り、今度はアカデミー・ジュリアンの彫刻部に入学、彫刻家として本格的な修行を始めた。明治41年帰国、文展の第2回展に「文覚」(明治41年)、第3回展に「北条虎吉氏肖像」(明治42年)などを発表し、その清新な作風が注目された。しかし明治43年「女」を完成したあと突然喀血し、4月22日わずか30歳歿した。日本の近代彫刻の道を切り開い作家であり、その作品は今日高い評価を与えられている。 #切手 #記念切手 #初日カバー #FDC #近代美術シリーズ
https://muuseo.com/stamp_collection/items/84
竹久夢二≪黒船屋≫(1919年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
竹久夢二 明治17年(1884)9月16日岡山県に生まれる。本名茂次郎。高等小学校卆業後、一時神戸中学に学んだが、明治34年上京して早稲田実業学校に入学した。明治38年博文館の文芸投書雑誌『中学世界』にコマ絵「筒井筒」「母の教」が入選、画家として進む決意を固めた。このころ藤島武二の装飾的作風や鏑木清方の美人画の影響を受けている。明治40年美貌の未亡人岸たまきと結婚。彼女をモデルに、目が大きく夢みるような憂愁と情感をただよわせる、いわゆる夢二風美人画を発表し、そのロマンティックな表現は明治末期の青年子女を魅了した。明治42年以降「夢二画集春の巻」をはじめ「夏の巻」「花の巻」など多くの画集が出版され、また大正3年日本橋に自作の版画、千代紙などを売る趣味の店港屋を開いて大繁盛するといったように、時代の龍児としてもてはやされた。大正4年たまきと別れ、女子美術学校の学生笠井彦乃と結ばれ京都へ移ったが、間もなく彦乃との仲をさかれた。大正9年彼女が病死してからは多感な生活に終止符をうち、また夢二自身の名声もくだり坂へ向った。昭和9年(1934)9月1日信州の療養所で歿した。 #切手 #記念切手 #初日カバー #FDC #近代美術シリーズ
https://muuseo.com/stamp_collection/items/83

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