行きついた場所 

初版 2023/12/11 22:25

改訂 2023/12/12 13:47

ベートーヴェン/Grosse Fuga op.133

以前、ひねくれr者の音楽箱の中で第13番のフィナーレについて書いたが、今回は単独でこの曲を作品第133として聴いている。

僕自身は、第13番弦楽四重奏曲のフィナーレとしてくっついているものから、単独のものまで、もう何百回も繰り返し聴いている。ビデオの中でお互いの音を聞きあう4人の弦楽奏者の呼吸と音楽が見ているだけで先に耳に走る感じ。
この曲はやっぱりグロい。しかし…
聴く度にこの音楽は薄暗い醜の中から立ち上がり、その醜さの中の核心から美しさを増し、未だに深淵の底を見せない。

音楽というカテゴリーから創造芸術の真髄が目の前を横切って剥離して行く。

いつも「あ、ここが…」とか言って引っかかっているうちに遙かな高みにいってしまって置いてゆかれる。


強烈な個性と耳からの感性を鷲掴みにされ、やっぱりこれは頭抜けていると

これ以上のものはまだ聴いていないと、

ここへ帰ってくると思い知る。

4つの弦楽器が作り出す堅牢な構築性と聞き流すことを拒む普遍的な遁走の先端から遙か上の世界へ行きつくことへの揺るぎない確信。

彼の聴こえなくなった耳に聴こえるのはメロディではなく、フーガという道をかろうじて疾走する未曾有の意志的な内なる音列。
閉じきった音の世界から拾われ、厳選され、吟味され、敬虔と経験が過たず選んだ旋律は間違いなく「音を楽しむ」と書く『音楽』の意味を超える。
喩え、いくつかのフレーズに似つかわしい映像を付けて動画を作ろうとも、この音楽の全てを映像で押し切ることはできない。

やがて映像は音楽に振り切られ、ボクと同じように置いてゆかれる。
この未曾有の結果を音楽的に分析してもしょうがない。
ただただ、粗野であり、緻密であり、野太く繊細である。
矛盾した表現の中に幾重にも塗り重ねられて黒光りするフーガ。
明日聴いても、ボクはまた違った印象を口にできそうである。
楽しいとか言う生やさしいものではない。
『音楽』という日本語が表現できていないサムシングがこのフーガにはある。

間違いなく。

古生物を中心に動物(想像上のもの)を含め、現代動物までを描くイラストレーターです。
露出度が少ない世界なので、自作の展示と趣味として行っている地元中心の石ころの展示を中心に始めようかと思っています。
海と川が身近にある生活なので気分転換の散歩コースには自然が豊富です。その分地震があれば根こそぎ持っていかれそうなので自分の作品だけは残そうかとAdobe stockを利用し、実益も図りつつ、引退後の生活を送っております。
追加ですが、
古いものつながりで、音楽についてもLabを交えてCD音源の部屋をつくっています。娘の聴いてるような音楽にも惹かれるものがありますが、ここではクラッシックから近代。現代音楽に散漫なコレクションを雑多に並べていきながら整理していこうかと思っております。走り出してから考える方なので、整理するのに一苦労です。

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    woodstein

    2023/12/12 - 編集済み

     作品133の大フーガ、もちろん弦楽四重奏曲第13番に連なっての演奏も聴いたことはありますが、若い頃はともかく今ではそれに耐え得る体力はないですから、聴くとしたら単独で、ですかね。ベートーヴェンのカルテットはメロスの旧盤を聴くことが多いのですが、その理由の一つにこの大フーガが第13番と離れて収録されていることがあると思えてしまうのは、この曲の特異性にあるのでしょう。

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      Mineosaurus

      2023/12/12

      再現芸術家の葛藤ですよね。大フーガを切り離さなければならなかったのは発売元の販売上の問題で、当時のベートーヴェンと言えども、その意向に反して暮らしていくのは大変だったでしょうから、そのため、今の第13番に短い終楽章をつ食ったのは無理からぬことなのでしょうね。
      芸術の中で絵画と音楽の違いはどこにあるかというと絵画は動かず、音楽は常に弾き手(再現者)のアナリーゼを介していることでしょう。でも、突き詰めると動かない絵画を展示する担当者はその絵画の最もよい展示位置を展示する空間の広さや採光の位置、鑑賞者の位置からの額の影や角度等、様々な解釈を行うんですよね。その意味では弾き手と同じ立場だとは思いますが、音楽はあくまで引き手が具現化するものですからね。演奏の仕方はいろいろですよね。ボクは13番の終楽章として生かすのがしっくりくるんですけど。

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