悲しみの重さ 終戦の日に寄す

初版 2023/08/15 15:44

改訂 2023/08/15 15:44

ハンス・プフィッツナー/悲歌 op.45

正確には悲歌と輪舞作品 45 


『悲歌』穏やかに-アンダンテ・トランクィロ
『輪舞』ロンド-アレグロ・モデラート

1940年の作品。
20世紀に至って今だにそのアンサンブルにドイツロマン派の矜持を持ち続ける。
現代的に軽快に、スピーディに仕上げられることもなく、さも「悲しい」という即物的なタイトルへの阿りもない。
重層的で金管の特性を生かしつつ、弦楽が歌う。ブルックナーの後ろ姿にマーラーの影が重なる。


後者と同時代に生き、互いに才能を認めていたにしろ、できあがってきた音楽には膨張してゆく弦楽器の嫋々とした旋律の流れよりも、むしろ柔らかなオーボエやクラリネットの艶のある音の滑らかな流れを感じさせる。
重層的に対位される弦楽と低音楽器群が不穏な翳りを纏いながら滔々と流れる。
ホルンの重奏から音楽はロンドに移る。
彼の書く音楽は、自分ではほとんどここで留め置くという意識が働かなかったのではないかと思うほど長く続く抒情の歌だ。

ここでそれにあたるのは前半の『悲歌』の部分。
ボクの持っているエレジーという音楽のイメージよりも、この音楽には独特の重さがある。
後半の舞曲そのものにも、何か物狂おしい気分が潜んでいる。しかしこの日によく聴くのは前半の部分。

管弦楽法の熟達は同時代の作曲家に劣後するものではない。
最後のドイツロマンティシズムの体現者であり、ドイツ的であることに異様に固執した。
構築し、堅牢な音構造に執着する。
なのにそこに歌がある。
頑迷なまでドイツ的。

そしてそれこそが、
彼を政治的な広告塔として利用することを思いつく輩の思いを受け容れてしまう隙にもなった。


残念なことに彼の名は未だにその影響をぬぐい去ることができないでいる。
ズビン・メータがイスラエル・フィルを振った演奏会でワグナーを演奏して物議を醸し出したのは40年以上前だった。そのような年月を経てもなお、民族の中に流れる血の慟哭は消えることはない。
時代は進んだようでも過去から完全に離れきってはいない。


まだわれわれが今いる場所は大戦の悲劇を大きなスパンで眺めるほど遠くに来たわけではないのだ。

この悲劇的精神を反映したアングロサクソンの悲嘆が、すべての音楽を愛する人にわが心の鏡として響くのには100年の時の移ろいすら短いのだろう。その場に佇み、手と心の置き場所もなく、途方に暮れた人々の悲歌は脈々と血の中に流れ、世界の終わりに際しても分かり合う糸口を潰しあうのだろうか。

この作品の前半部分の終結部は切れ目なく写る次の輪舞=ロンドに行く前に掲載した方の手で断ち切られる。

意図的なものではないだろうけど。

古生物を中心に動物(想像上のもの)を含め、現代動物までを描くイラストレーターです。
露出度が少ない世界なので、自作の展示と趣味として行っている地元中心の石ころの展示を中心に始めようかと思っています。
海と川が身近にある生活なので気分転換の散歩コースには自然が豊富です。その分地震があれば根こそぎ持っていかれそうなので自分の作品だけは残そうかとAdobe stockを利用し、実益も図りつつ、引退後の生活を送っております。
追加ですが、
古いものつながりで、音楽についてもLabを交えてCD音源の部屋をつくっています。娘の聴いてるような音楽にも惹かれるものがありますが、ここではクラッシックから近代。現代音楽に散漫なコレクションを雑多に並べていきながら整理していこうかと思っております。走り出してから考える方なので、整理するのに一苦労です。

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