悲しいという音表現―メロディ

初版 2023/10/09 14:27

改訂 2023/10/09 14:29

グルック/ 歌劇「オルフェオとエウリディーチ」第2幕第2場から『精霊の踊り』

       ピアノ編曲(ズガンバーティ)メロディー

直截的な言葉が旋律につくことにより、音楽の中で表現される喜怒哀楽の表現は、劇的に編成されてリアルタイムの観客の目線と絡まる。
それは感情移入を生み、観客は劇中に没頭し、客観的な視線は個々の主観の中に溶けて行く。
文字による表現はもっと単純で(フォントの選択により、多少の起伏はあるかも知れないが、)『悲しい』という表現は隠喩、喚喩、提喩を尽くして遠くから惻々とその感情の揺れを『悲しい』とは直接表現せずに伝えて行く。


主観的に『悲しいのだ』となれば、どう悲しいのかを読者に投げかけはするが、生み出す力は弱い。
ただ、朗読という表現手段は音楽に似てくる。
人の声も含めて音楽は再現者の色が表現に写る。


グルックが書いた3幕5場の歌劇の中でこの曲はその第2幕の第2場で精霊達が踊る場面で使用される。
クライスラーはこの場面の楽曲を『メロディ』という名でヴァイオリン用に編曲した。
さすがに歌う楽器であり、言葉がなくても声と同じような感性の抑揚がその旋律を美しく歌う。
そこから美しさと供に座り込んだ淡い悲しみが伝わる。
表現者の感情移入が弦楽を介し音になることでもう一度客観性を取り戻し、聴くものの主観に溶けて行く。


この演奏はピアノである。
ドイツのピアニストウィルヘルム・ケンプはこの曲をピアノ用に編曲した。
イタリアの作曲家ズガンバーティ(ピアノ曲や室内楽位しかボクは知らないけれどドイツ的でロマンティックです。)もこの曲を編曲してるのですが、ここでネルソン・フレイレが弾いているものがどちらの編曲によるものかよくわからない。
ピアノでこの曲を聴くと楽曲を構成する音の色をイメージして10指から紡ぎ出される旋律線へ繋ぐ。
能動的に指先から旋律を紡ぎ出すところで終わるか、声が心を伝え、空気を振動させるように、その音楽をイメージする自分とシンクロする音楽との歩み寄りがどれだけ指先を離れた音に宿るか。
感じた音の悲しみが心の悲しみに溶け込むか、『精霊の踊り』はそれがとてもよくわかる。

このネルソン・フレイレの演奏はどこまで行ってるか。
バリバリにリストを弾いていたころの彼、アルゲリッチとテクニカルなラフマニノフやラヴェルを弾いていたころ、ベートーヴェンをレパートリーに乗せたころ。
彼の一週間ほど剃り忘れたようなひげ面に紡ぎ出される音と同じくらい味がある。

ところでこの曲の最もロマンティックで美しい演奏は、正直フレイレではない。今も昔も、多少電気的に処理された音であるように思うが、(おそらくピアノロールによる再現ではないか)それ故に本物の演奏がどれほどのものであったか、聴けた人は今生きてないだろうけど、ボクの中ではこの演奏を超えるものは未聞。
ご存じセルゲイ・ラフマニノフです。

古生物を中心に動物(想像上のもの)を含め、現代動物までを描くイラストレーターです。
露出度が少ない世界なので、自作の展示と趣味として行っている地元中心の石ころの展示を中心に始めようかと思っています。
海と川が身近にある生活なので気分転換の散歩コースには自然が豊富です。その分地震があれば根こそぎ持っていかれそうなので自分の作品だけは残そうかとAdobe stockを利用し、実益も図りつつ、引退後の生活を送っております。
追加ですが、
古いものつながりで、音楽についてもLabを交えてCD音源の部屋をつくっています。娘の聴いてるような音楽にも惹かれるものがありますが、ここではクラッシックから近代。現代音楽に散漫なコレクションを雑多に並べていきながら整理していこうかと思っております。走り出してから考える方なので、整理するのに一苦労です。

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