ホロヴィッツの置き土産 抜け落ちた記憶と感受性の補完

初版 2023/06/19 20:00

改訂 2023/06/20 09:22

最初にお断りしなければならないのは、このエッセイは今書いたものではありません。いくつかの部分は変えたけれど、もう、7年以上も前にボクが書いていたブログの記事です。時々今はさわっていないそのブログを開き、そのころ聴いた音楽をまた聴きながら抜け落ちた感性や表現を思い返しています。今回はきっかけがあってホロヴィッツのことを思い出しました。当時の僕が、シューベルトに対する人間を音楽を通して感じたと思った演奏でした。それを今聴きなおしながら文章を読んで、『ああ、もうこれ以上のことはボクには無理だなと感じました。元の原稿がパソコンにしまってありましたので、Youtubeで、その演奏を聞きながらほとんどそのままここに記録しておこうと思います。

Youtubeは何と全楽章です。これからシューベルトを聴く方には勧められないかもしれません。

https://youtu.be/ayJ5mLoRpMA

シューベルト ピアノソナタ 第21番 変ロ長調 D.960 ホロヴィッツ Schubert Piano Sonata in B Flat Major - YouTube

シューベルト(墺) Schubert 1797~1827   ピアノソナタ 第21番 変ロ長調 D.960       Piano Sonata in B Flat Major D.960P:ヴラジーミル・ホロヴィッツ(露→米) Vladimir Horowitz 1903–1989 1953年2月ニューヨーク...

https://www.youtube.com/watch?v=ayJ5mLoRpMA&feature=youtu.be

シューベルト/ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D960

第1楽章 モルト モデラート
第2楽章 アンダンテ ソステヌート
第3楽章 スケルツォ:アレグロ ヴィヴァーチェ・コン デリカテッツァ(優雅さをもって)-トリオ
第4楽章 アレグロ ノン トッロッポ

以前もどこかで書いたけれど、ボクが初めてシューベルトのピアノ曲と出会った最初の演奏者はFMのエアチェックで聴いたホロヴィッツの演奏でした。
1953年のモノラルのライブ・レコーディングです。
ホロヴィッツはアンコールピースとしてもよくシューベルトを弾いていたけれど、ソナタはこの最後のソナタ以外聴いたことがない。
彼がコンサートから引退を宣言する直前の1953年の録音です。
ボクはこの演奏について後に評論家諸氏がアンマッチングな選曲であるとこぞって批判したことを知りました。
ピアニスティックな曲を得意とし、19世紀的ヴィルトゥオーソタイプの最後の一人と自認していた彼がこのソナタを選んで別れを告げたことはショッキングだったのでしょうね。

ちなみに彼はベートーヴェンでも後期の作品には手を出しませんでした。
なのに、このソナタを選んだのはどうしてだったのでしょう。
この演奏をボクが初めてラジオから聴いたとき、その時の自身の精神状態もあったのかも知れませんが、その寂寥と虚無的な響きと不可思議な音響に虚を突かれ、不覚にも嗚咽を堪えかねました。
モノラルというレンジの狭く、音の強い芯が残る録音も精神的な側面を強化するような音色に聞こえることは確かです。しかし、その演奏はそれを割り引いても背筋をぞくりとさせるものがあったことを思い出します。


この演奏にボクはブログを書かなくなる直前あたりになってYouTubeで巡り逢いました。
青春時代に聴いた音楽を白秋の時期にさしかかって何度も聴き返しました。

初めてその日D960を聴いてから数多くの演奏者が弾く同曲を聴いてきました。
シュナーベルもよかったし、ハスキルもよかった。
ポリーニのアポロ的な演奏も気に入っていたし、ブレンデルの調和も美しいと思った。
でも、ボクにとってこのホロヴィッツの演奏はパフォーマンスとして成功したかどうかは疑問はあるものの、シューベルトの抱えていた音楽の闇の部分、内面でつながっているようなデモーニッシュな部分を呈示しているように思えてなりません。
それをとりだしてさらけ出すための蛮刀は厚く、暴力的に切れ味のあるものでなければならなかったのではないか。
『野バラ』を作曲しながら彼は『私は音楽を楽しいと思って創ったことは一度もなかった』と言い放っています。
その言葉はボクの心の何処かでこの演奏とつながってしまっているのでしょう。
例えば評論家諸氏が「第1楽章のシューベルトらしい歌謡的な第1主題の後に瞑想するような低音のトリルが奏される。」とか言う部分があります。
ボクにはそのトリルが音楽としての音を表現しているようには聞こえないのです。
表層のシューベルトと意識下のシューベルトのせめぎ合い。
まるで歌そのもののようなたおやかな流れの後にこれを塗りつぶすような重いトリル。
キャンバスに咲いた第1主題第2主題変ロから変ト長調、嬰ヘ短調からイ長調、ロ短調ニ短調へと変転しその後も転調するたびに様々な色合いの花が咲くのですが、ことごとく単色のトリルが塗りつぶしてゆく。
それを一人の作曲家がひとつの作品で行う。
ホロヴィッツのピアノはモルト・モデラートを彼の強い打鍵に合わせたかのように走らせますが、重いトリルが潰れるほどのその音色の影に何とも言いようのない哀しみの染みを付けてゆくようです。
それは第2楽章の嬰ハ短調のアンダンテにも形を変えて聞こえます。
ホロヴィッツのそれはブレンデルのようにはソステヌートしません。
中間部のやや暖かい日射しが厚い雲の間から注ぐ数分にも、乾いた唇に笑みを浮かべると唇の端が切れ、鉄の味がしそうな乾いた冬の空気があります。
この楽章はどなたの演奏でも、堪えきれずに第3楽章のスケルツォの優美な高音が待ち遠しいところです。
ボクはこの楽章の右手が創る響きが好きで、子供が戯れに蹴った小石が何かの金属にあたって乾いた空気の中で高い余韻を残すような音の遊びが心を解いてくれます。

第4楽章は 「もう、自分が弾きたいものは全て弾いた」とでも言うようにホロヴィッツの指先は突っ走ります。
彼のはじめからのテンポからすればあり得る速さですが、あまりに強烈で、バランスを欠いているように聞こえます。
どのピアニストも最後にはプレストのテンポになるのですが、ホロヴィッツの演奏は省略されずに続く再現部の長さを楽しんでいるように入り込んでゆく様が見えるようです。
彼の演奏は第3楽章までで終わったのかも知れません。
一言で言えば、纏まりのない感覚的な演奏であると評価することもできるでしょう。
シューベルトをピアニスティックに捉えた、演奏であると。
それでもボクは何故か、何度もこの演奏を聴いてしまうのですね。
ブレンデルの演奏の方が美しい。
整然として統一性があります。
ポリーニのアポロ的な光と厚い響きにも抗しがたい魅力があります。
それらを聴いた後でこのピアニストを聴くとその粗さとぞくりとするような深い響きにやられます。
現代ではやはり期待されない演奏であり、それ故に何度も繰り返し密かに聴かれ続ける曲者でもあるような、奇妙な魅力を持っています。

古生物を中心に動物(想像上のもの)を含め、現代動物までを描くイラストレーターです。
露出度が少ない世界なので、自作の展示と趣味として行っている地元中心の石ころの展示を中心に始めようかと思っています。
海と川が身近にある生活なので気分転換の散歩コースには自然が豊富です。その分地震があれば根こそぎ持っていかれそうなので自分の作品だけは残そうかとAdobe stockを利用し、実益も図りつつ、引退後の生活を送っております。
追加ですが、
古いものつながりで、音楽についてもLabを交えてCD音源の部屋をつくっています。娘の聴いてるような音楽にも惹かれるものがありますが、ここではクラッシックから近代。現代音楽に散漫なコレクションを雑多に並べていきながら整理していこうかと思っております。走り出してから考える方なので、整理するのに一苦労です。

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    Furuetti

    2023/06/20

    素敵な文章ですね。誰もが認める名演よりも自分の中にある或る領域に入ってくる演奏に惹かれます。出来ればCDで聴いてみたいと思います。紹介ありがとうございます😊

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    Mineosaurus

    2023/06/20

    長いのに読んでいただいてありがとう。ボクはライナーノーツを読みません。以前のブログではYoutubeの埋め込みが上手くいかなかったり、探してもなかったりしましたが、そのころは読んで聴いた気になるような文章を書こうと、いろいろ考えたものでした。忙しさにかまけて視覚的な処理が多くなって、的確な表現があやふやになってきた(年のせいもありますが)ことに、古い音楽を聴きなおしていて気が付き、昔の原稿を読み直しています。ボケ防止です。

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