悲しみと嘆き

初版 2023/11/10 14:25

ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第7番作品10-3

第1楽章:プレスト

第2楽章:ラルゴ ・ エ メスト

第3楽章:メヌエットートリオ(アレグロ)

第4楽章;ロンド:アレグロ

ようやく涼しくなってきた。

聴き頃になってきたはずのブラームスはヒューバート・パリーのおかげで脇に追いやられ、どうも耳にぐんぐん入ってくるのはボンの巨匠です。
ボクの聴き方は節操なく、師匠なく、ひたすら感性に従うのでとんでもないくり返しをやってしまう。
もう口ずさむまでいってしまう。
第7番は以前一度書いたのだけど、今もって想像を超える演奏に巡り会わない。
好きな曲なので思い入れが強すぎるのか、第1楽章がいいと第3楽章が気に入らず、第3楽章が気に入ると第1楽章の右手と左手のバランスが気に入らない。
以前はこの作品の「ラルゴ エ メスト」は後期の深い内省と音楽的啓示を受けた作曲家の緩徐楽章を予感させるものだと信じて疑わなかったけれど、今は少し違った感想を持っている。
大好きなのは変わらないけれど、標示にあるようにメストという感情に自分を含めて感じている「悲しい」という表現に重点が置かれている客観性を装ったきわめて主観的な音楽だと思うようになった。

「何を今さら」というなかれ。
ジジイは頑固だから人の書いたものをあまり読まないのだ。
「悲しげに弾け」といってるのですね。
それは、旋律の波形に顕れている。
悲しい旋律が先にある。
奏者はそう表現してゆく。


その後のメヌエットがいいなあ。優しくて。
でも、後期の例えば作品110の第3楽章、三声のフーガを割って浮き上がってくる「アリオーソ ドレンテ=嘆きの歌」はそれが主観的な感情というより、もっと宗教的な啓示を感じさせる。
『嘆き』は様々なものがあり、奏者の主観と客観的な分析がメスト『悲しみ』からワンクッション向こう側にある。
29番のソナタのような緊張感のあるものではないけれど、フーガの中に切れ切れに嘆きは音化されている。
悲しげでなくても、より深い心の内側から来る歌の形の嘆き。
作品10の3を書いた頃のベートーヴェンにラルゴ エ メストは指定できても三声のフーガは降りてこなかったのだろうね。
第7番の第2楽章は繋ぐメヌエットによって優しくも慰撫される。

でも作品110で示されるような手と心をどこに置いていいかわからないそんな感情の動揺をメヌエットは受けきれない。
ただ、ベートーヴェンという人の天性は美しさというものをとても人間くさいところから引っ張り上げてくる。
天使の音楽ではなく、大家の手すさびでもない。
醜からも美しい心の形を取りだす。
グレン・グールドは作品110のその作業をもの凄く楽しそうに弾く。
アニーフィッシャーは作品10の3の悲しみを精一杯歌う。
どちらも好きだけれど、そこにはそれぞれの作品にたどり着くまでの距離にかなり隔たりがある。
奏者の違いというよりも作品自体の持つ奏者との距離である。

書いている途中で焼きたてのアップルパイを匂いがしてきた。も、この辺でやめよ。

作品10の3

第1楽章プレストの後の
第2楽章のラルゴ・エ・メストはバックハウスの演奏では4分58秒あたりから始まる。

古生物を中心に動物(想像上のもの)を含め、現代動物までを描くイラストレーターです。
露出度が少ない世界なので、自作の展示と趣味として行っている地元中心の石ころの展示を中心に始めようかと思っています。
海と川が身近にある生活なので気分転換の散歩コースには自然が豊富です。その分地震があれば根こそぎ持っていかれそうなので自分の作品だけは残そうかとAdobe stockを利用し、実益も図りつつ、引退後の生活を送っております。
追加ですが、
古いものつながりで、音楽についてもLabを交えてCD音源の部屋をつくっています。娘の聴いてるような音楽にも惹かれるものがありますが、ここではクラッシックから近代。現代音楽に散漫なコレクションを雑多に並べていきながら整理していこうかと思っております。走り出してから考える方なので、整理するのに一苦労です。

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