サブコレクション モンテネグロ公国・王国の切手
モンテネグロ公国・王国史
血腥きバルカン半島にはかつてモンテネグロ公国(モンテネグロ:〈黒き山〉はイタリア語であり、ツルナ・ゴラ公国が本来の名称。後にモンテネグロ王国〈ツルナ・ゴラ王国〉となる)という国が存在した。
神権政治国家であったツルナ・ゴラ府主教領は宗主国たるオスマン帝国の影響の下で自治権を獲得していたが、1851年にダニーロ1世が自らモンテネグロ公を名乗ってツルナ・ゴーラ府主教領を世俗的な公国にすると、オスマン帝国との関係が悪化し、ついには干戈を交えることになり、泥沼の戦争に突入する。1860年にダニーロ1世が暗殺されたが、彼の甥にあたるニコラ1世も独立戦争を続け、1876年から1878年のモンテネグロ-オスマン戦争で同胞たるセルビアとロシアの支援を受けてついに勝利することとなった。かくてモンテネグロは独立国家モンテネグロ公国(ツルナ・ゴラ公国)として認められたのであった。
ところで、モンテネグロの切手の歴史は1874年のモンテネグロ-オスマン戦争開始の2年前に始まる。つまりはモンテネグロが国際社会から独立国家として認められるよりも早く切手が発行されているのである。
モンテネグロ公国はニコラ1世の治世の下、アドリアの青き海に面する小国として発展していく。1904年にはモンテネグロ独立の恩人であるロシアと日本との間で日露戦争が起こり、ロシアとともに日本に対して宣戦布告している(なお、戦闘には参加しなかった)。また1905年にはロシア第一革命の影響を受けて法を以て君主の権力を制限する近代的な憲法が制定された。
1910年には前述の1905年の憲法改正で君主の称号が公から国王に格上げされたために、モンテネグロ王国となった。1912年から1913年にはバルカン同盟の一国としてオスマン帝国と戦火を交え(バルカン戦争)、国土を広げることにも成功した。
しかし、1914年6月28日にかの有名なサライェヴォ事件が起こるとオーストリア=ハンガリー二重帝国がセルビア王国に対して宣戦布告し、遂に第一次世界大戦が始まる。セルビア王国とは強い絆(ここでは「きずな」ではなく「ほだし」と読むべきかも知れない)で結ばれたモンテネグロ王国は当然ながらセルビア王国側(協商国側)で参戦するが、セルビアが早々に敗退すると領土の極めて小さいモンテネグロ王国が二重帝国軍にまともに反抗出来る筈もなく、遂には全土を占領されて降伏する。しかしながらモンテネグロ公国建国当時からその君主であったニコラ1世は降伏を受け入れずにフランスのボルドーに亡命して亡命政府を樹立したのであった。
第一次世界大戦は結局協商国側の勝利で終わった。しかし、モンテネグロ王国は事実上瓦解して存在せず、バルカンではユーゴスラヴィア委員会による統一ユーゴスラヴィアの建国の動きが活発になっていく。そのような中でニコラ1世の強い意志にもかかわらず、旧モンテネグロのユーゴスラヴィアへの合同が宣言された(コルフ宣言)。そして1921年3月1日、失意のうちにニコラ1世は亡くなったのであった。
モンテネグロ公国・王国に切手には全てのシリーズにニコラ1世が描かれ、モンテネグロ公国・王国はまさにニコラ1世とともにあったと言えよう。
※ ※ ※
モンテネグロの通貨変遷
・第一次切手・ペトロヴィッチ=ニェゴシュ朝200周年記念:Новчиђа(ノヴチジャ)・Фиорин(フィオリン)
・第二次切手・憲法記念:Хелер(ヘレル)・Круна(クルナ)
・第三次切手:Пара(パラ) Круна(クルナ)
・王国宣言/ニコラ1世の治世50周年記念・第四次切手:Пара(パラ) Перпер(ペルペル)
※ ※ ※
このコレクションルームでは歴史に翻弄されたモンテネグロ公国・王国の切手を展示する。