シューマン 死の歌-崩れかけた精神

初版 2025/01/30 15:05

改訂 2025/01/30 15:05

ロベルト・シューマン/ヴァイオリン協奏曲ニ短調 (遺作)


第1楽章 Im kräftigen nicht zu schnellem tempo 力強く、速すぎないように
第2楽章 Langsam ゆっくりと (短いインテルメッツォ風)
第3楽章 Lebhaft doch nicht schnell 生き生きと、しかし急速でなく


ロベルト・シューマン晩年のヴァイオリン協奏曲には作品番号がない。


ベルリン図書館に80年以上も眠り続けたこの作品は贈られたヨーゼフ・ヨアヒムの弓で歌うことはなく、シューマンを支え続けたブラームスも、彼の全作品の校訂整理に以後の生涯を捧げたクララに助力を惜しまなかったにも拘わらず、この作品を意図的にリストから外している。
この作品を書いた43歳の時、既にシューマンは精神を病んでいた。


それは現在の統合失調症のようなもので演奏不可能なほどの破滅性ははなく、作品を貫く音楽性やそのロマンティックな流れが安定しない精神の滑落が感じられることから、強度の鬱病であったのではないかとボクは想像する。

現代でも、どちらかというと難曲の部類に入る。当時のヴィルトゥオーソであったヨアヒムが技術的な点からのみこの曲を敢えて弾かなかったのだとは思えない。

ヨアヒムは失われそうになる歌の命を病んだ心で必死に支えるシューマンの「精神の死」の匂いを嗅いだのではないだろうか。


ヨアヒムは2週間という短期間で書き上げられたこの作品の訂正までクララに許可されていたが、彼をして初演を放棄させる何かがあったのだと思う。
崩れかけた精神の歌は天才がもう高く飛翔しないこのだとヨアヒムに告げたのだろう。


クララは彼女の日記に次のような言葉で、ロベルトの戻ることのない病んだ心を伝えている。
「ロベルトの頭の中には、無数の数え切れない歌が生まれていて、それを彼は天の啓示のように聴き、天使の歌う歌に囲まれて、再び私と結ばれるのだと話しています。」


作品番号のないこの名曲はシューマン独特の幻想性やロマンティシズムに溢れた楽想ではなく、オーケストラの一部のように淡々とヴァイオリンが深く内省を語ってゆく。
華はなく、どちらかというとレーガーの作品のように晦渋である、演奏映えする作品ではない。

それ故、草稿が発見されてすぐ翌年の1937年に初演されたロンドンよりも、ナチス・ドイツの横槍でクレーンカンプにベルリン初演を奪われたメニューヒンによる1938年セントルイスでの演奏によって、ようやくその崇高な第2楽章が真の姿を現したのだろう。
曲は3楽章から成るが、第2,第3楽章は切れ目なく演奏される。難曲であることは言うまでもない。


ボクはこの曲を地味なのに不思議と何度も聴いている。
今日初めてクレーメルのヴァイオリンで聴いているが、いつもはミケランジェリのシューマンのピアノ協奏曲に同時に納められているDOKUMENTEというテルデック版。ベルリンでの初演者クレーンカンプのモノラル盤のモノラルを車の中で聴くことが多い。
聴き始めた時には書いてきたいきさつなどは知らなかった。
ただ、不思議なことに何度聴いても、全体のアウトラインが覚えられない。ヴァイオリンの動きが聴き始めるまで見えない。これは、クレーンカンプのせいか、シューマンの作品によるものか、ボクのボケがすすんだか…?

それでも、飽きずに聴くのは、喉の渇きに似ている。

演奏はクレーンカンプのH・S・イッセルシュテットとベルリンフィルによる1937年の演奏でもなく、バルビローリ指揮のニューヨークフィルの1938年のものでもない。ギドン・クレーメルのヴァイオリン、野心家リッカルド・ムーティ指揮フィルハーモニアo.のものを選びました。美しく、繊細で、客観的です。

 

古生物を中心に動物(想像上のもの)を含め、現代動物までを描くイラストレーターです。
露出度が少ない世界なので、自作の展示と趣味として行っている地元中心の石ころの展示を中心に始めようかと思っています。
海と川が身近にある生活なので気分転換の散歩コースには自然が豊富です。その分地震があれば根こそぎ持っていかれそうなので自分の作品だけは残そうかとAdobe stockを利用し、実益も図りつつ、引退後の生活を送っております。
追加ですが、
古いものつながりで、音楽についてもLabを交えてCD音源の部屋をつくっています。娘の聴いてるような音楽にも惹かれるものがありますが、ここではクラッシックから近代。現代音楽に散漫なコレクションを雑多に並べていきながら整理していこうかと思っております。走り出してから考える方なので、整理するのに一苦労です。

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