悲しみ(メスト)と時代

初版 2024/05/16 14:00

改訂 2024/05/16 14:01

バルトーク/弦楽四重奏曲第6番Sz114

第1楽章 メスト~ピゥモッソ~ペザンテ・ヴィヴァーチェ
第2楽章 メスト~「マルチア(マーチ)」
第3楽章 メスト~「ブルレッタ」
第4楽章 メスト

現実の世界を俯瞰した時、改めて湧き上がってくるメストの反芻。

第二次大戦への当時のヨーロッパ全体を覆う絶望的な雰囲気を曲全体に強く印象づけるこの曲は、大戦終結後に完成し、バルトークはこの楽譜を抱えて海を渡り、アメリカへと亡命した。

古典的4楽章に回帰したこの曲を被う雰囲気からは、ベートーヴェンが自分の外に流れる音の世界から隔絶し、自己との対話の中で絶対的な精神世界に深く沈潜しつつ、そこから雄々しく顔をあげ、約束の空へ魂を馳せるような音楽を創造したのとは異なり、過酷な殺戮と圧政と運命的な人類の不幸を背景に持ちながら表現者としてこれを凝視し、その中から人間的なかなしさを痛みを伴いながら掘り起こして行く辛い作業がきこえる。

この作品は芸術という言い方の好き嫌いはあるにしろ、ベートーヴェンに与えられる賛辞と同じレベルで評されなければならない作品だとボクは思う。

ヴィオラが奏でる落ち着きのない不安と怯えの入り混じった多くの目が祈りのために閉じられる。
第1楽章は祈りが籠もっている。

第2楽章は悲しみの色はチェロから発せられ、不思議な奏法で生まれるエコーの中で破滅への行進が、とどめようもない運命のように音楽と心の間の空間を満たして行く。

全ての光が降り注ぐものの上に悲しみの影が立ち上がって覆い被さろうとしている。

第3楽章には救いがない。

愚かさを思い知った為すすべ無く立ちつくす疲れた人間の顔にはシニカルな笑いが貼り付いている。

自ら招いた悲しみに自らとらわれて行くどうしようもない人間の性を、嘲るのもまた人間であり、何かに罵倒され、懺悔したい欲求が静かに皮肉の中に込められているようだ。

そして、最終楽章にはただ「悲しみ」が曲全体を包み込む。

止められなかった蛮行への無力感と失うものへの正直な恐れ、終わった事への悲しみと安堵。

全てが回想され、悲しみは生まれたときの姿に静かに帰って行くように終わる。

これ以前、特に超難解な第3番や第4番を越えたバルトークの感情表現が調性を越えたところで慈しみと深い内省と結びついている。

ベートーヴェンとは違った道を通って同じ場所に行きついた、いけるところまで行った作品。
でも、今聴いていたアルバンベルクSQでもまだ何か聴きたりない部分がある。

ブタペストSQや旧ジュリアードSQの厳しくストイックな演奏の中にも、まだ開いていないドアを感じた。

昔廉価版で買ったハンガリーSQのレコードでも、バルトークSQでもそうだった。
ボクがこの曲の演奏に感じつつも、まだ何か聴きたりないと思うもの、それはこれなんだと聴かせてくれる弦楽四重奏団はまだない。

今までないということは、そのドアは開かないものなのかも知れない。
本当は語られていることに僕自身が気づいていないのかも知れない。
そう思いながら何度となく聴いてきた。
その度にこの曲はベートーヴェンのように雄弁になってくる。わかりやすくなってくる。
多分隅から隅まで熟知している専門的な音楽家は素人のボクと違って一聴して気づく類のものかも知れない。
この曲は何度でも聴ける。
自分のためだけに書かれた現代音楽のもつ大衆への拒絶がないからだろう。

旧ジュリアードSQのこの1963年の演奏はYoutubeで聴ける。



第1ヴァイオリン ロバート・マン

第2ヴァイオリン イシドア・コーエン

 ヴィオラ    ラファエル・ヒリアー

 チェロ     クラウス・アダムス

古生物を中心に動物(想像上のもの)を含め、現代動物までを描くイラストレーターです。
露出度が少ない世界なので、自作の展示と趣味として行っている地元中心の石ころの展示を中心に始めようかと思っています。
海と川が身近にある生活なので気分転換の散歩コースには自然が豊富です。その分地震があれば根こそぎ持っていかれそうなので自分の作品だけは残そうかとAdobe stockを利用し、実益も図りつつ、引退後の生活を送っております。
追加ですが、
古いものつながりで、音楽についてもLabを交えてCD音源の部屋をつくっています。娘の聴いてるような音楽にも惹かれるものがありますが、ここではクラッシックから近代。現代音楽に散漫なコレクションを雑多に並べていきながら整理していこうかと思っております。走り出してから考える方なので、整理するのに一苦労です。

Default