破棄することの「らしさ」

初版 2023/12/31 10:09

シューベルト/ピアノソナタ第15番ハ長調D.840(レリーク=遺作)

どのような経緯がそこにあるのかは解らない。
でも、シューベルトが残した多くの未完成のピアノソナタは、彼がそのような形式を整えるについて、ボンの巨匠のような明確な意志と才を持ち得なかったことを示しているようだ。

最後にはそれは成就するのだけれど、12年ほどの短い作曲家人生でこれほどのピアノソナタを試み、途中で破棄したものはあまりに多い。
なのに、ボクは、ボク達はその破棄された彼の歌の残滓をかけがえのないものとして聴く。
今でも彼のピアノソナタは4楽章である必要はないし、彼が終わりだと思えばそれでいいのだと思っている。
第3楽章は書けなかった。書き終わらずに放置された。
ボクはそれを何とかつなぎ止め、シューベルトらしく演奏することに何の意味も見いだせない。
パウル・バドゥラ=スコダというピアニストが行った努力を批判はしない。
でも、第2楽章が終わり、第3楽章の途中で流れていた歌は途絶えるのです。
シューベルトのピアノソナタはそれぞれ有機的にな纏まりが求められる古典的なあり方を踏襲しつつ、もう、次の世界へ飛んでいる。
第1楽章 モデラートはそれ自体で完結するように消えながら閉じる歌が、どの作曲家よりも雄弁に旋律の力を感じさせる。


第2楽章 アンダンテの冒頭の息を呑む美しさと悲しさを純化された1音として聴かせてくれるピアニストはそうはいない。胸を衝かれる歌を彼は作ろうとしているのではない。
明るく振る舞っていても、その底に支えるもののない闇を持っている。
野バラの作曲家の心の綾はどこからこんなに深い愁いをたたえるようになったのだろうか。
彼のハ短調は激情ではなく、密やかな涙から始まる。

途切れた歌は繋げない。受けきれない。かつて交響曲第8番と呼ばれた(未完成)と同じように。

古生物を中心に動物(想像上のもの)を含め、現代動物までを描くイラストレーターです。
露出度が少ない世界なので、自作の展示と趣味として行っている地元中心の石ころの展示を中心に始めようかと思っています。
海と川が身近にある生活なので気分転換の散歩コースには自然が豊富です。その分地震があれば根こそぎ持っていかれそうなので自分の作品だけは残そうかとAdobe stockを利用し、実益も図りつつ、引退後の生活を送っております。
追加ですが、
古いものつながりで、音楽についてもLabを交えてCD音源の部屋をつくっています。娘の聴いてるような音楽にも惹かれるものがありますが、ここではクラッシックから近代。現代音楽に散漫なコレクションを雑多に並べていきながら整理していこうかと思っております。走り出してから考える方なので、整理するのに一苦労です。

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