Hallelujah!書き留めておきたい考察
初版 2023/10/12 12:14
改訂 2023/10/12 12:41
これはCDを展示する以前からレナード・コーエンのこの歌に関して混乱していた思考の糸をほぐす目的で書き留めたものを可能な限り整理した。自分への備忘録の意味合いが強い。恐ろしく長い映像を含めたコラムになった。
数十年前、ボクは、レナード・コーエンという人物を宗教色の強い詩人だと思っていた。
ボブ・ディランを意識するようになったボクの青春時代に遅咲きの彼の歌が流れ始めた。
30過ぎて歌い始めた彼のカントリーウエスタンを基調とした音楽は彼の諭すような温かみのある声とともにボブディランとはまた違う魅力があった。
彼は幼い頃から敬虔なユダヤ教徒の家族に育てられ、それは彼の詩やその後の彼の歌に様々な要素となって聴くことができる。いつだったか、彼のハレルヤを夭逝の天才歌手、ジェフ・バックリィの歌声で聴いた。ご存知のディスニー映画『シュレック』の挿入歌としてね。
この、バックリィがカバーした時もこの歌はあんまり人気がなかった。爆発的な人気は『シュレック』によって予想だにしなかった露出度を得て、歌の人気に火がついたと言って過言ではない。
レナード・コーエンはこのとき既に60歳をはるかに超えていた。
それまで人気がなく、曲自体の録音もレコード会社は乗り気ではなく、長く眠ったままだった。1981年にようやくスタジオ録音され、1984年にアルバムVarious Positionsの5曲目(アナログのLPだったのでB面の1曲目の扱いだった。
ボブ・ディランをはじめ歌手仲間では認められていて高く評価されていたにもかかわらず人気は出なかった。
こういう経緯は今やSNSなんかで誰でも知ることができる。まして彼が活動したイギリスやアメリカでずっとその国で直に彼を聴いてきたYouTuberが丁寧にわかりやすく解説してくれている。
でも、それは同じ結論であっても、自分で感じた結末にはならない。ボクがレコードのライナーノーツをあまり見ないのも、自分が感じた音楽を第一に大事にしたいと思うからだ。
で、最近僕はアメリカかどっかのスター誕生でグランプリをとったルーシー・トーマスの歌う『Someone You Loved』を聴いてその声の素晴らしさと技術の高さと美しさに魅了され、片っ端からアップロードされている曲を聴き始めた。
その中に彼女が歌う『ハレルヤ』があった。素晴らしい歌唱!』でも、「いや、待ってくれ、それでおしまい?」これが偽らざるボクの印象だった。
そして、それがきっかけでボクはもう一度Youtube で、バックリィがアコーススティックな奏法で、吐き出すように歌った歌を聴いた。あれ、と思いつつ何度も繰り返し、ようやく納得した。
https://youtu.be/y8AWFf7EAc4?si=KVE8nSVCzKTX2YVr
ルーシー・トーマスの美声で聴き、
https://youtu.be/dLk9pzmaFHY?si=rTMWVxKlJhr-XC1P
早逝の天才ジェフ・ベックリーを経由して元歌レナード・コーエン
の「ハレルヤ」に帰ってみた。
ボブディランとの会話の中でハレルヤをいつから作曲していたのか訊かれたコーエンが8年位前と応えていたそうだが、実際に彼の製作ノートによれば、10年前から80に及ぶフレーズを作っていたらしい。
彼はその中から大まかにいって8つフレーズを使っているに過ぎない。
しかも、彼は最初の1984年レコードでは
第3フレーズ
Well baby, I've been here before
I've seen this room and I've walked this floor
I used to live alone before I knew ya
And I've seen your flag on the marble arch
And love is not a victory march
It's a cold and it's a broken Hallelujah
ベイビー、俺はここに来たことがあるんだ
この部屋は見覚えがあるし、この床も歩いたことがある
お前(神)に出会うまで俺は孤独に生きていたんだ
大理石のアーチの上にお前(神)の旗が見えた
だけど愛は凱旋マーチなんかじゃない
冷たくてぼろぼろのハレルヤなんだ
第5のフレーズ
Well there was a time when you let me know
But now you never show that to me do ya
But remember when I moved in you
And holy dove was moving too
And every breath we drew was Hallelujah
以前はあなたは僕に伝えてくれていた
でも今じゃ全く見せてくれない
でも覚えているだろう、ボクが君の(二つの意味)中で動いたら
聖なる鳩も羽ばたいたときのこと
そして私たちが吐く息はすべてハレルヤだった
(このフレーズは性的な表現ともとれる
第6フレーズ
Well, maybe there's a God above
But all I've ever learned from love
Was how to shoot somebody who outdrew ya
もしかしたら神はいるのかもしれない
でも俺が愛から学んだことといったら
自分を出し抜こうとする奴をいかに撃つかということだけ
第7フレーズ
And it's not a cry that you hear at night
It's not somebody who has seen the Light
It's a cold and it's a broken Hallelujah
夜中にあんたが耳にするのは泣き声じゃない
信仰に目覚めた誰かじゃない
それは冷たくてぼろぼろのハレルヤなんだ
これらのフレーズが全て抜ける。
https://youtu.be/ttEMYvpoR-k?si=4Ln1Mfrrq7WdpACB
それだけではない。彼のライブでは、各フレーズの位置が変わり、その時の構成で言葉が入れ代わったりする。
そこには明らかに歌に込めたものをそのまま愛とか情念につながるものを、つまり世俗的な意味合いを与えることを避けて行く。
結果、歌は神と呼ぶものの存在を確かなものと認めつつ、自分の中にあるものとして問いかけ、関係性を求めている。ハレルヤ自体の言葉の意味を神から自分の元に引き戻しているようだ。
バックリィは真逆である。世俗的な愛の情念を慟哭を込めて歌い。ハレルヤという言葉にして手の届かない愛を求める祈りにしている。そのために宗教性を否定ることも、肯定するのも避ける。愛についてだけを歌う。
そのために以下の二つのフレーズを省略している。
第4フレーズ
You say I took the name in vain
I don’t even know the name
But if I did, well,really, what's it to you?
There's a blaze of light in every word
It doesn't matter which you heard
The holy or the broken Hallelujah
ボクがみだりに神の名をとなえたというが
ボクはそもそも、その名をしらない
例え、僕が唱えたとしても、君にとってそれが何だというんだ?
どんな言葉にも光と輝きがある
だから君が耳にしたのが、
聖なるハレルヤか壊れたハレルヤか、なんてどうでもいいことなんだ
最後の8フレーズ
And it's not a cry that you hear at night
It's not somebody who has seen the Light
It's a cold and it's a broken Hallelujah
ベストを尽くしました。大したことはできなかったけれど
感じることができなかったから触れて確かめようとしたのです
真実を語りました。あなたをごまかそうなんて気はさらさら無いのです
失敗ばかりの人生でも その終わりが来たら
歌の神の見前に出たなら
口にしたい言葉は、ただハレルヤだけ
この2つの直接精神的な神への祈りの意味を訴え、また、全てを自分の中で祈りに昇華した事を
誇らしく自分が祈りの対象としたものに告げる。この二つのフレーズを削っている。
(最初のビデオを参照)
ルーシー・トーマスは通俗の手前で一歩踏みとどまって、第4フレーズと第5フレーズを省略し。
第7フレーズ
And it's not a cry that you hear at night
It's not somebody who has seen the Light
It's a cold and it's a broken Hallelujah
夜中にあんたが耳にするのは泣き声じゃない
信仰に目覚めた誰かじゃない
それは冷たくてぼろぼろのハレルヤなんだ
で終わる.『神を讃えよ』というダビデ王が定めた『ハレルヤ』を愛の祈りとして熱く情感を込めて歌いあげている。これはこれで歌として素晴らしい。
(上から二番目のビデオ)
レナード・コーエンはこの歌にいくつもの解釈を生む仕掛けを張り巡らせた。これは想像の基礎が彼の言葉が詩によるものであり、受け取り方を絵画を鑑賞するときのわれわれの感性に寄り添っている。
彼がその場に応じて省略や追加や合成をするのは聴衆にどのハレルヤを伝えるかを彼自身が選んでいるとしか思えない。
(最後のライブのビデオを参照)
そしてこの歌を声と音が綾なす感覚的なものから、限りなく詩に近い理解というものを挟んだ芸術に高めている。
推敲の余地がある文章だが最初に印象を言変えずにこのままにしようと思う。
最後に欠けてしまった第1フレーズと
第2フレーズ。これらは省略できないエピソードだが、
第1フレーズは神にささげる曲を竪琴の名人でもあったダビデ王が神にささげる苦心の下り。(ハレルヤという神への賛辞を祭典の始まりと終わりに使うことを定めたのはこのダビデ2世です。)
第2フレーズは前半が旧約聖書のダビデ王が自分の家臣の妻に魅惑され、その夫を戦地に赴かせ、戦死させる。そして自分の妻として娶ったその元人妻との間に子供をつくるが、すぐに死んでしまう。
彼はそれが神を裏切った報いだと悔いている。
後半は同じく旧約聖書のサムソンと恋人デリラの裏切りの話。侵略するためにサムソンの怪力が脅威であったペリシテ人は彼の恋人デリラを買収し、サムソンの強さの秘密を聞き出そうとする。何度もはぐらかし、秘密を明かさなかったサムソンもとうとう恋人の涙に負け、力を与えてくれた神を裏切り、自分の力が、生まれてから切ったことがない髪の毛にあると明かしてしまう。そして彼は何人もの画家の手によって描かれているようにデリラに髪を切られ、捕らえられ、両眼をえぐられ、盲目の俘囚となる。
ある日神殿の大きな柱に縛り付けられ、見世物になったとき、サムソンは神に祈り、自分の命と引き換えに一度だけ力を与えて欲しいと願う。神はそれを叶え、彼はその力で繋がれた柱を倒し、多くのペリシテ人を建物もろとも殺す。その彼も瓦礫の中で息絶える。
どちらも神への信仰と裏切りをテーマにした物語である。
この二つのエピソードの『ハレルヤ』それは神を讃えるだけのものだろうか。初めからいくつもの伏線がそこにあるのがわかる。
長い文章になったが、これについて考えるのはもうこれっきりにする。 2023.10.12
Mineosaurus
古生物を中心に動物(想像上のもの)を含め、現代動物までを描くイラストレーターです。
露出度が少ない世界なので、自作の展示と趣味として行っている地元中心の石ころの展示を中心に始めようかと思っています。
海と川が身近にある生活なので気分転換の散歩コースには自然が豊富です。その分地震があれば根こそぎ持っていかれそうなので自分の作品だけは残そうかとAdobe stockを利用し、実益も図りつつ、引退後の生活を送っております。
追加ですが、
古いものつながりで、音楽についてもLabを交えてCD音源の部屋をつくっています。娘の聴いてるような音楽にも惹かれるものがありますが、ここではクラッシックから近代。現代音楽に散漫なコレクションを雑多に並べていきながら整理していこうかと思っております。走り出してから考える方なので、整理するのに一苦労です。
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