帝都から東(というか北)への旅マップ@二十世紀初頭の観光ガイドブック

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https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/150
のつづき、まずは追記に書いたように琉球と臺灣の地図を洩らしていたので、「東部」篇に移る前にご覧いただこう。タイトルが「大島及琉球諸島」となっているが、左側の臺灣の左上に「臺灣圖」とあるところからして、この「大島」というのは臺灣島のことではなくて奄美大島を指しているものとおもわれる。こちらはさすがにつながっていない地域の境目に赤線がひっぱってある。前回の小笠原諸島のところも、本来はこのような線がおかれる筈がうっかり忘れられたのではないかしらん。

さて、2枚目の「北陸道」からが「西部」に対する「東部」の各地地図として載せられているもの。7枚目に掲げた本文冒頭部をご覧いただければおわかりのとおり、臺灣から再び帝都に舞い戻って今度は上野より出発している。3+4枚目の「東山道」は長いため、「中山道」と「奥羽」とに分けてある。5枚目の「北海道」には千島列島も載っているが、こちらの仕切り線はなぜか赤い線ではなくて薄い青の親子罫だ。地図10枚のデザインが統一されているようで、細かいところはそのへんあんまり気にしていない気ままさ加減だ。そういえば、こちらの巻にはなぜか目次もない(おそらく単なる落丁ではないとおもわれる)。

なお千島は当時遊覧できるような地域ではなかったのか、本文にはひと言も出てこない。終いの方の航路案内は東京灣内からはじまって東北・北陸・北海道方面のものがひと通り紹介されたあと、8枚目にあるように「伊豆七島及小笠原島」でしめくくられている。こうした掲載順も、当時の「国内旅行観」をあらわしているようで面白い。

帝都から西への旅マップ@二十世紀初頭の観光ガイドブック
大阪〜神戸間に蒸気船が就航したのが明治元年(1967年)、東京〜橫濱間で旅客鉄道が動きはじめた明治5年(1872年)だそうだが、以降路線がふえていくに連れ、あちらこちらへ観光旅行に出かける人々が増えるとともに、やがてそうした旅へいざなう案内書も次々に刊行されるようになっていった。今回は、20世紀が明けたころのそうした本のひとつに載っている地図を眺めてみよう。 この本では主な鉄道と船の路線に沿って各地の見どころを紹介しているのだが、全国を10枚の地図に分けて、鉄道は赤い実線、航路は黒い点線で示している。明治30年代にもなって、行政区ではなく昔ながらの五街道や旧国名表示って、古くさい感じがしなかったのかな? などとおもってしまうのだが、当時の世の中にもこういう「諸国漫遊」趣味が受け容れられる下地がちゃんとあった、ということなのだろう。色味に明治らしいやわらかさがあって、しかもわかりやすく描いてある。該当地域以外をさっぱりと白抜きにしているのも画面がごちゃごちゃしなくて、なかなかいいアイディアだ。各地図のタイトルに、いちいち「漫遊之栞」と隷書体風の赤い図案文字で大きく書いてあってたのしい。 上下2冊に分かれていて、それぞれそれぞれ「西部」篇、「東部」篇になっているのだが、先にも書いたように路線別なので「西部」といっても最初は東京から始まっている。1枚目の「東海道」の沖合には離島も描かれているけれども、はるか南の小笠原諸島などは伊豆諸島の右側に(むりやり)たくし上げてある。その間に区切り線もなにもないのは、ちょっと珍しいとおもう。「東海道」や2枚目の「畿内」は鉄道路線がかなり整備されてきているけれども、3枚目の「南海道」や4枚目の「山陰道及山陽道」、5枚目の「西海道」はそれに較べたらまだごく一部にしか敷かれてないことがひと目でわかる。なお本文では九州地方につづいて沖繩や臺灣まで紹介されていることが、8枚目に掲げた目次の項目からおわかりいただけるだろう。 次回は「東部」の地図をご覧いただく予定。 追記:我が国の版図なのに、なぜか琉球や臺灣の地図がない……と終いのところに書いていたのだが、それはどうやら記事を書いているヤツに「各巻地図が5葉づつ」という謎の思い込みがあったようで、それで見落としていただけで実はちゃんとあった。でも折角載せた画像を取っ払うのもどうか、ということで、抜けた地図は次回にまわすことに。あしからず〜。
https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/150

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