三省堂の理科教材ショウルーム@明治末期の理化学器械カタログ

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今年の4月に創業140周年を迎えられた老舗の三省堂書店は、最初に古本屋として出発した後に新刊書店に転換して事業を拡大、次いで乗り出した出版印刷業部門が大正期に三省堂として独立したことがよく知られているが、明治40年代に理化学器械や標本などの教材を拵えて売り出しておられたというのは、それに較べたらかなりマイナー、というか寧ろマニアックな部類の話だろう。

このお店、「三省堂器械標本部」については、その後継企業を自負される教育理科機器製造販売会社「ナリカ」が創立百周年を迎えられた、平成30年(2018年)に就任なさった現社長氏が、そのご著書『ナリカ製品とともに読み解く理科室の100年』
https://www.scibox.jp/index.php?dispatch=products.view&product_id=7770
などで熱く語っておられるほかは、東日本大地震の際に津波による難を受けながらも救い出されたことが話題になった1台を含め、公式には僅か3台しか現存が確認されていない所謂「海保オルガン」
http://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/tsunami/data/Sect02_13.pdf
の表向きの製造元として取り沙汰されるくらいではないだろうか。

同店は明治38年(1905年)11月に三省堂書店本店の並び、神田區裏神保町七、八番地(今日では冨山房buildが神田すずらん通りに面する、ツルハドラッグ神田神保町店や地下のサロンド冨山房FOLIOが店開きしているところ)にできたとされる。1枚目に掲げた外観写真をみると、七番地の方は三面のショウウィンドウを持つ重厚な土蔵造りの、典型的な明治期商店建築で、手前の八番地の方はそれよりもっと簡素な造りの木造二階屋だ。

ここには実験室や、製品ショウルームとしての器械陳列室・標本陳列室が置かれていたことが2〜4枚目の画像から知れるが、どの部屋が建物のどこにあったのかは平面図などがないためわからない。とはいえ、「實驗室2」写真に写っている実験台の上の背の高い器械が、「器械陳列室1」写真の奥の部屋にあるものと同じように見えるし、窓の木枠のデザインも同じようだ。これはどちらかの建物の二階部分で、窓のあるのが通りに面している側だろう。そして「標本陳列室1」写真のライオンの剥製の後ろに写っている硝子戸は、手前側建物の入口のそれに似ている。

5枚目の巻頭序には、如何にも明治人らしい大言壮語が綴られているが、それが伊逹じゃないことを証明するためか、明治43年(1910年)にロンドンで開催された「日英博覽會」に製品を出品して「金賞牌(GOLD MEDAL)」を受けた、と誇らしげに掲げている。6枚目はそのメダルと賞状、そして7枚目は国内の博覧会や共進会で得たメダルとあわせて、「日英博覽會」の際に大英博物館長から授与された感謝状まで載せてある。ただ、どのような製品で賞を得たのか、という肝腎なところがすっぽ抜けている。ありゃま。

6枚目の賞状を拡大してよぉくみてみると一部読み取れないものの、 'Chuichi Kamei' という堂主の名、そして 'for Specimen of Stuffed Animals' と書いてあるらしいのが何とかわかる。少なくともこの金賞は、(4枚目画像のライオンのよーな)動物剥製標本に対して与えられたもののようだ。ほかにどのようなものが出品され、彼の地でどう評価されたのかはわからないが、部門発足から僅か5年で先進国の博覧会に出品し好評を得た、というのは「弊堂創業以來歳月長カラズト雖モ長足ノ進歩ヲナシ」と序文にいうのがまんざら誇張でもなかったことを示しているとおもう。

このように順調な発展をみせ勢いづいておられた「三省堂器械標本部」は、しかし短命に終わってしまわれたらしい。ナリカの中村社長が書いておられるところによると、大正2年(1913年)に起こった神田大火により焼けてしまい、その後三省堂は百科辞典刊行に傾注する方針になったこともあって、結局再建されなかったという。ナリカ社長氏のご祖父は明治41年(1908年)からここで勤めておられたが、器械標本部解散のとき「器械部」を譲り受け、それを基に大正7年(1918年)現在社屋のある場所、当時の神田區龜住町四番地にナリカの前身「中村理化器械店」を興されたそうだ。
https://www.sci-museum.jp/files/pdf/study/universe/2019/06/201906_04-09.pdf

ところで三省堂のその百科辞典というのは、明治41年(1908年)から刊行が始まっていた我が国最初の本格的なエンサイクロペディアである『日本百科大辭典』を指す。当初は6巻+索引巻の計7巻組で企画されたが、二百数十名の各分野専門家を動員した執筆陣、豪華な装幀造本、あくまで妥協しない編集方針、そしてあまりにも編集作業に時間を喰って途中で改訂作業にも手を着けざるを得なくなり、10巻組に膨らむことになったはいいが、結局版元の三省堂の方がもたず、大正元年(1912年)10月に経営破綻してしまわれたという。
https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/ayumi17
しかし第6巻で打ち切りとは如何にも惜しい、という声が引きも切らず、善意が寄せられ出資が集まって、大正2年(1913年)5月には「日本百科大辭典完成會」なる組織が立ち上がり、そして同8年(1919年)4月にめでたく全巻刊行の運びになった、と辞書研究家・境田氏がまとめておられる。なお同4年(1915年)には、出版印刷部門が「三省堂」として独立され、今日まで続いている。

件の神田大火は、このように社運を賭した一大事業が、三省堂の経営を追いつめる事態になりつつあった年の2月20日に起こったのだった。
https://jaa2100.org/entry/detail/036609.html

三省堂書店神保町本店に拠点を据える「本の街・神保町を元気にする会」が出しておられる、『神保町が好きだ!』誌第13号のp. 10「明治・大正2度の大火に見舞われた、その後の復活劇!」に、この火災の経緯が出てくる。
https://www.books-sanseido.co.jp/jimbocho/pdf/jinbocho_sukida_13.pdf

また、この時校舎と、そしてそれに隣接する校長私邸が罹災した順天中學(北区王子本町にある順天学園順天中学校・高等学校の前身)校史にも「神田の大火災」として載っている。
https://www.junten.ed.jp/kousi/160nen-68.htm

これらによると、20日の午前1時過ぎに今のJR中央線水道橋駅南側、東京歯科大水道橋病院の西側(裏手)の辺りにあった救世軍大學殖民部の建物から出火、折りからの烈しい北風に煽られて、今の白山通り両側の街並みを捲き込みながらみるみる南側へ燃え拡がって、神保町交叉点辺りから東へ逸れてお堀端の錦町河岸まで焼き尽くしていったらしい。

『東京日日新聞號外』の方は、拡大図が格納されていたサーヴァが今はお亡くなりらしくてすこぶる読みづらいが、「燒失の町 三崎町、猿樂町、■(仲?)猿樂町、裏神保町、表神保町、錦町」「燒失戸数 三千百九十戸」「發火!! 三崎町二丁目救世軍大學殖民部より」「猿樂町を燒き盡す」「神保町に燃出づ」「烈々たる二手の火勢」「錦町河岸へ燃え拔く」「午前八時消止む」などと書いてあるのがかろうじてわかる。

『東京朝日新聞』の方も荒れていてキビシいが、PDFを拡大し眼を凝らしてみると「二手の火勢」について「一方は三崎町一丁目二丁目を水道橋方面に■■し一方は仲猿樂町を南に走り■■■線路を飛越え裏神保町へ移り■■幅數町に亘る火の海となつて只押しに神保町方面へ■■■て學校商店其他大建築を■紙の如く無造作に燒し盡し裏、表神保町を攻めて一は東明館勸工場附近を■し其裏手より小川町方面へ出でんとし他の火先は神保町の中心を貫きて錦町二丁目へ突進しつゝ一ツ橋通りに其■■を揮はんとす……午前三時半頃には、北は三崎町より西は西小川町の■場、東は猿樂町二丁目、南は錦町二三丁目に至るまで南北十數町の■■の一大焦熱地獄と化したる光景、……」などと書かれているようにみえる。

さて、そこで8枚目の「三省堂營業所及所屬工場」を眺めてみると、全滅した裏神保町にあった「器械標本部」は惜しくも2棟とも罹災したのは間違いないだろうし、火元に近い三崎町三丁目の「商品貯藏場」も助からなかったかもしれない。

しかし美土代町三丁目の「理化器械工場」は、焼けた錦町二、三丁目の東隣の延焼しなかった錦町一丁目と、その向こうの電車通り(今の本郷通り)を挟んだ更に東に位置していることから考えると、ここは焼けなかったのではないかしらん……とおもえてくる。

ともかく、本店に加えてショウルームを兼ねた店舗と、製品もろともにストックヤードとが同時に失われたとすれば、このときの経営状態からして「器械標本部」再建は断念なさらざるを得なかっただろう、と腑に落ちる。反対に、工場はどれも被災を免れたのであれば、解雇せざるを得なくなった有能な従業員たちに設備を譲ることで先行きの補償に充てた、とみることもできよう。「中村理化器械店」が5年後に立ち上げられたのも、三省堂の製造設備が無傷だったお蔭かもしれない。

最後に余談だが、「三省堂器械標本部」扱いの「海保オルガン」について触れられた、日本リードオルガン協会長・赤井励氏の『オルガンの文化史』には「海保と思われる楽器工場の住所は、小石川西江戸川町二十二。」とある。
https://books.google.co.jp/books?id=HG9xDgAAQBAJ&pg=PA97
その隣に当たる同町二十一番地に「生理模型工場」が設けられたからこそ、海保のオルガン工場は三省堂扱いで製品を世に送ることになる縁が生まれたに違いない。最初に提携を持ちかけたのがどちらかのかはわからないにしても。

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