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あぶない(!?)ヴィデオカメラ@昭和初期の一般向け科学雑誌
昭和初めの娯楽科学雑誌巻頭グラヴィアに出てくる、ドイツ人放射線医と技術者とがタッグを組んで考案なさったという小型連続撮影用カメラ。 といっても普通の映画を撮るためのものではない。なんと、エックス線撮像を連続して写すことができる、という「レントゲン活動写真機」なのだ。 写される側の患者や付き添っておられるドクトルは、当時のエックス線撮影のときにフツーにつかわれていた装備(表面はゴム製で内部に鉛の板が仕込んであるもの)のようだが、肝腎のカメラを構えておいでの技術者氏はどうも何も放射線を防護するようなものを身につけておられないように見える。放射線はレンズが向いている方にしか飛ばないからだいじょーぶ☆ ということなのだろうか……。 この時代のライヒスマルクはハイパーインフレのあおりをもろに受けていたのではないかとおもうのだが、果たしてこの「一マルク」はどれくらいの価値だったのか……ともかく、それまで局部を1枚撮るだけで十数マルクかかったものが、この新案装置を使えばたったの1マルク! しかも操作も簡便! とくれば医療界がこぞって飛びつきそうな画期的発明だ。 しかし、実際そういうブレイクスルーがあった、というお話は聞いたことがないから、ウィーンで開催された放射線医療学会で紹介されたこの器械は、恐らく何らかの致命的な問題があって、歓呼をもって迎えられることなく消えてしまったのだろうとおもわれる。 いや〜、どう考えても危ないでしょ、これ。撮影者の命がいくつあっても足りなさそう。 オマケの7枚目はご参考までに、同じ号に載っている小型撮影機の広告。こういう器械が、当時の庶民はともかく富裕層には「手の届く実用品」になっていた。
科學知識 第九卷第七號 昭和04年(1929年) グラビア刷り 洋紙(塗工紙)図版研レトロ図版博物館
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間違い探し!? の名古屋港@大正後期〜昭和初期ごろの名古屋名所風景絵葉書
最近ヨーロッパの某紙モノ屋さんから調達した、多分1920年代ごろの風景絵葉書2枚。当時の名古屋港の景色だが、ぱっと見まるっきり同じように見えるけれども、よぉく視てみると細かいところが色々と違うのに気づく。それをつぶさに眺めてみたくて、ついつい両方とも手を出してしまった次第。 どちらも絵葉書セットの標題は「名古屋名所」。 右下に「A」と打ってあるセピア色の方は「中京海運の大玄関、名古屋港 THE PORT OF NAGOYA THE CENTRE OF THE SEA TRADE, NAGOYA」、モノクロームの方は「巨船織るが如き名古屋港 THE PORT OF NAGOYA, WHERE ALL THE LARGE SHIPS ARE GOING TO AND FRO, NAGOYA」と説明書きがある。 表書き側をみると、版元は別々のようだが、どちらも日本製であることがわかる。通信欄がおよそ半分になっているので大正7年(1918年)よりも後、「郵便はがき」ではなく「郵便はかき」となっていることから昭和8年(1933年)よりも前だろう、と推定できる。 https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000290979 (とはいえ、この通説の典拠をちゃんと調べたことはないので、イマイチ心許ない……。)旧蔵者か紙モノ屋の方か、「1924」と鉛筆で書き込んでおられるが、その根拠は不明。 それはさておき、あまりにも似た構図なので一瞬「……Photoshopか?」と思ってしまったほどだが(そんなワケはない)、実際わざわざネガ修正を施したりしたのではなくて、両方とも同じ日の、さほど違いのない時刻にほぼ同じ位置から撮られた二枚とおもわれる。つまり、撮影者は同一人物に違いない。 大きな船はどれも碇泊中らしく位置が同じだが、片方は煙を吐いたりしている。艀らしき小舟数艘は走り回っているようだ。「A」の方は下船客らしき一団がぞろぞろとこちらへ向かって歩いていて、柵のこちら側にも二人連れが二組いるのがみえる(手前の一組は三人連れかも)。桟橋の奥側に三人の人影があるが、もう一枚の方の桟橋にいる三人と同じ人物かどうかはわからない。人が少ない方は、手前に荷台つきの三輪車のような車が二台停まっている。たなびく煙や旗の様子からして海風が吹いているようだが、煙のない写真の方がやや波だっているか。セピア色の方が陽射しがあるらしく、倉庫の壁に映っている影がはっきりしている。 ……などと、細かくみていくとキリがないのだが、いったいいくつ「間違い」があるのか、ご用とお急ぎのない方は探求してみていただきたいww
名古屋名所 大正後期〜昭和初期ごろ 網版+活版刷り 洋紙(塗工紙)図版研レトロ図版博物館
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三省堂の理科教材ショウルーム@明治末期の理化学器械カタログ
今年の4月に創業140周年を迎えられた老舗の三省堂書店は、最初に古本屋として出発した後に新刊書店に転換して事業を拡大、次いで乗り出した出版印刷業部門が大正期に三省堂として独立したことがよく知られているが、明治40年代に理化学器械や標本などの教材を拵えて売り出しておられたというのは、それに較べたらかなりマイナー、というか寧ろマニアックな部類の話だろう。 このお店、「三省堂器械標本部」については、その後継企業を自負される教育理科機器製造販売会社「ナリカ」が創立百周年を迎えられた、平成30年(2018年)に就任なさった現社長氏が、そのご著書『ナリカ製品とともに読み解く理科室の100年』 https://www.scibox.jp/index.php?dispatch=products.view&product_id=7770 などで熱く語っておられるほかは、東日本大地震の際に津波による難を受けながらも救い出されたことが話題になった1台を含め、公式には僅か3台しか現存が確認されていない所謂「海保オルガン」 http://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/tsunami/data/Sect02_13.pdf の表向きの製造元として取り沙汰されるくらいではないだろうか。 同店は明治38年(1905年)11月に三省堂書店本店の並び、神田區裏神保町七、八番地(今日では冨山房buildが神田すずらん通りに面する、ツルハドラッグ神田神保町店や地下のサロンド冨山房FOLIOが店開きしているところ)にできたとされる。1枚目に掲げた外観写真をみると、七番地の方は三面のショウウィンドウを持つ重厚な土蔵造りの、典型的な明治期商店建築で、手前の八番地の方はそれよりもっと簡素な造りの木造二階屋だ。 ここには実験室や、製品ショウルームとしての器械陳列室・標本陳列室が置かれていたことが2〜4枚目の画像から知れるが、どの部屋が建物のどこにあったのかは平面図などがないためわからない。とはいえ、「實驗室2」写真に写っている実験台の上の背の高い器械が、「器械陳列室1」写真の奥の部屋にあるものと同じように見えるし、窓の木枠のデザインも同じようだ。これはどちらかの建物の二階部分で、窓のあるのが通りに面している側だろう。そして「標本陳列室1」写真のライオンの剥製の後ろに写っている硝子戸は、手前側建物の入口のそれに似ている。 5枚目の巻頭序には、如何にも明治人らしい大言壮語が綴られているが、それが伊逹じゃないことを証明するためか、明治43年(1910年)にロンドンで開催された「日英博覽會」に製品を出品して「金賞牌(GOLD MEDAL)」を受けた、と誇らしげに掲げている。6枚目はそのメダルと賞状、そして7枚目は国内の博覧会や共進会で得たメダルとあわせて、「日英博覽會」の際に大英博物館長から授与された感謝状まで載せてある。ただ、どのような製品で賞を得たのか、という肝腎なところがすっぽ抜けている。ありゃま。 6枚目の賞状を拡大してよぉくみてみると一部読み取れないものの、 'Chuichi Kamei' という堂主の名、そして 'for Specimen of Stuffed Animals' と書いてあるらしいのが何とかわかる。少なくともこの金賞は、(4枚目画像のライオンのよーな)動物剥製標本に対して与えられたもののようだ。ほかにどのようなものが出品され、彼の地でどう評価されたのかはわからないが、部門発足から僅か5年で先進国の博覧会に出品し好評を得た、というのは「弊堂創業以來歳月長カラズト雖モ長足ノ進歩ヲナシ」と序文にいうのがまんざら誇張でもなかったことを示しているとおもう。 このように順調な発展をみせ勢いづいておられた「三省堂器械標本部」は、しかし短命に終わってしまわれたらしい。ナリカの中村社長が書いておられるところによると、大正2年(1913年)に起こった神田大火により焼けてしまい、その後三省堂は百科辞典刊行に傾注する方針になったこともあって、結局再建されなかったという。ナリカ社長氏のご祖父は明治41年(1908年)からここで勤めておられたが、器械標本部解散のとき「器械部」を譲り受け、それを基に大正7年(1918年)現在社屋のある場所、当時の神田區龜住町四番地にナリカの前身「中村理化器械店」を興されたそうだ。 https://www.sci-museum.jp/files/pdf/study/universe/2019/06/201906_04-09.pdf ところで三省堂のその百科辞典というのは、明治41年(1908年)から刊行が始まっていた我が国最初の本格的なエンサイクロペディアである『日本百科大辭典』を指す。当初は6巻+索引巻の計7巻組で企画されたが、二百数十名の各分野専門家を動員した執筆陣、豪華な装幀造本、あくまで妥協しない編集方針、そしてあまりにも編集作業に時間を喰って途中で改訂作業にも手を着けざるを得なくなり、10巻組に膨らむことになったはいいが、結局版元の三省堂の方がもたず、大正元年(1912年)10月に経営破綻してしまわれたという。 https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/ayumi17 しかし第6巻で打ち切りとは如何にも惜しい、という声が引きも切らず、善意が寄せられ出資が集まって、大正2年(1913年)5月には「日本百科大辭典完成會」なる組織が立ち上がり、そして同8年(1919年)4月にめでたく全巻刊行の運びになった、と辞書研究家・境田氏がまとめておられる。なお同4年(1915年)には、出版印刷部門が「三省堂」として独立され、今日まで続いている。 件の神田大火は、このように社運を賭した一大事業が、三省堂の経営を追いつめる事態になりつつあった年の2月20日に起こったのだった。 https://jaa2100.org/entry/detail/036609.html 三省堂書店神保町本店に拠点を据える「本の街・神保町を元気にする会」が出しておられる、『神保町が好きだ!』誌第13号のp. 10「明治・大正2度の大火に見舞われた、その後の復活劇!」に、この火災の経緯が出てくる。 https://www.books-sanseido.co.jp/jimbocho/pdf/jinbocho_sukida_13.pdf また、この時校舎と、そしてそれに隣接する校長私邸が罹災した順天中學(北区王子本町にある順天学園順天中学校・高等学校の前身)校史にも「神田の大火災」として載っている。 https://www.junten.ed.jp/kousi/160nen-68.htm これらによると、20日の午前1時過ぎに今のJR中央線水道橋駅南側、東京歯科大水道橋病院の西側(裏手)の辺りにあった救世軍大學殖民部の建物から出火、折りからの烈しい北風に煽られて、今の白山通り両側の街並みを捲き込みながらみるみる南側へ燃え拡がって、神保町交叉点辺りから東へ逸れてお堀端の錦町河岸まで焼き尽くしていったらしい。 『東京日日新聞號外』の方は、拡大図が格納されていたサーヴァが今はお亡くなりらしくてすこぶる読みづらいが、「燒失の町 三崎町、猿樂町、■(仲?)猿樂町、裏神保町、表神保町、錦町」「燒失戸数 三千百九十戸」「發火!! 三崎町二丁目救世軍大學殖民部より」「猿樂町を燒き盡す」「神保町に燃出づ」「烈々たる二手の火勢」「錦町河岸へ燃え拔く」「午前八時消止む」などと書いてあるのがかろうじてわかる。 『東京朝日新聞』の方も荒れていてキビシいが、PDFを拡大し眼を凝らしてみると「二手の火勢」について「一方は三崎町一丁目二丁目を水道橋方面に■■し一方は仲猿樂町を南に走り■■■線路を飛越え裏神保町へ移り■■幅數町に亘る火の海となつて只押しに神保町方面へ■■■て學校商店其他大建築を■紙の如く無造作に燒し盡し裏、表神保町を攻めて一は東明館勸工場附近を■し其裏手より小川町方面へ出でんとし他の火先は神保町の中心を貫きて錦町二丁目へ突進しつゝ一ツ橋通りに其■■を揮はんとす……午前三時半頃には、北は三崎町より西は西小川町の■場、東は猿樂町二丁目、南は錦町二三丁目に至るまで南北十數町の■■の一大焦熱地獄と化したる光景、……」などと書かれているようにみえる。 さて、そこで8枚目の「三省堂營業所及所屬工場」を眺めてみると、全滅した裏神保町にあった「器械標本部」は惜しくも2棟とも罹災したのは間違いないだろうし、火元に近い三崎町三丁目の「商品貯藏場」も助からなかったかもしれない。 しかし美土代町三丁目の「理化器械工場」は、焼けた錦町二、三丁目の東隣の延焼しなかった錦町一丁目と、その向こうの電車通り(今の本郷通り)を挟んだ更に東に位置していることから考えると、ここは焼けなかったのではないかしらん……とおもえてくる。 ともかく、本店に加えてショウルームを兼ねた店舗と、製品もろともにストックヤードとが同時に失われたとすれば、このときの経営状態からして「器械標本部」再建は断念なさらざるを得なかっただろう、と腑に落ちる。反対に、工場はどれも被災を免れたのであれば、解雇せざるを得なくなった有能な従業員たちに設備を譲ることで先行きの補償に充てた、とみることもできよう。「中村理化器械店」が5年後に立ち上げられたのも、三省堂の製造設備が無傷だったお蔭かもしれない。 最後に余談だが、「三省堂器械標本部」扱いの「海保オルガン」について触れられた、日本リードオルガン協会長・赤井励氏の『オルガンの文化史』には「海保と思われる楽器工場の住所は、小石川西江戸川町二十二。」とある。 https://books.google.co.jp/books?id=HG9xDgAAQBAJ&pg=PA97 その隣に当たる同町二十一番地に「生理模型工場」が設けられたからこそ、海保のオルガン工場は三省堂扱いで製品を世に送ることになる縁が生まれたに違いない。最初に提携を持ちかけたのがどちらかのかはわからないにしても。
理化樂器械及藥品 天文地文氣象學器械 數學製圖及測量器械 顯微鏡及寫眞機目録 明治45年(1912年) 明治42年(1909年)? 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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東半球と西半球@明治中期の地理教科書
明治20年代前半に版を重ねていた分厚い地理教科書の巻頭に載っている、彩色世界全図。子午線と180°線とで地球をすぱっと割った「東半球」と「西半球」の2葉に分かれている。このような世界地図が載っている地理書はたいがいが明治20年代、早くて18〜19年、晩くて20世紀が明けた明治33年(1900年)のようにおもう。こうした本の書き出しは必ずといっていいほど、「惑星/遊星は太陽のまわりを回っているまるい天体で、われわれの住む地球はそのひとつ」であって、球体である証拠としての現象が3つばかり挙げられている。というのも、それまでの日本人の大半は17世紀に入ってきた天文書『天經或問』 https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai2009/shiryo/kaisetsu08.html そのままの天動説か、あるいはいわゆる「仏教天文学」、つまりこの世は天地ともに平らで、世界の中心には巨大な須弥山という山がそそり立ち、太陽や月などが昇ったり沈んだりしてみえるのは実は須弥山の向こう側に隠れてしまうからだ、という考え方を信じていたから、世界地理を説くにもその前に誤った世界観をまずはただす必要があったからなのだろう。当時も他の描き方の地図がなかったわけではないのに、判で押したようにこうした東西両半球として描かれた図版が載っているのも、地球がまるく、我が国がその上にへばりついている小さな島々であることを視覚的にわからせようとしたからではないかしらん。 海岸線の形は大ざっぱには現代人の認識とあまり変わらないが、細かくみていくとかなりいい加減な感じだ。台湾など、そこだけ取り出したらどこの島だかさっぱりわからない。南極大陸はまだ海岸線のごく一部しか描かれていない。それと、国境がひとつも描かれていないのも、今ではあんまりない種類の地図ではないかしらん。 地名は漢字が宛てられているところが多く、ややわかりづらいかもしれない。オーストラリアが「豪州」の「豪」ではなく「墺」で始まっていたり、オセアニアが「亞西亞尼亞」になっていたり、ニューギニア島の東のニューブリテン島が「新貌利顚」と書いてあったりする。また、ベンガル湾やハドソン湾が「ベンゴール曲海」「ハドソン曲海」、カニャークーマリー(コモリン岬)や喜望峰が「コモリン海角」「好望海角」となっているし、マゼラン海峡は「マゲラン海峽」だがモザンビーク海峡の方は「モザンビク海岔〈かいふん〉(<大正前期の代表的な漢和辞典・上田萬年ほか『大字典』(啓成社)をひいてみたら「大きなる海峽のこと」だそうだ)」になっていたり、と今日では使われない用語が出てくる。このへんは多分支那語の借用なのだろう。ウラル海を「裏海」と書くのは、明治期の出版物にはよくみられる。 西半球図をみて、あれ? 海の難所として有名な「サルガッソ海」がアメリカ大陸を挟んで2ヶ所もある……とおもったら、あらら「太平洋」と「大西洋」とが逆じゃないの。タイヘンなポカミスだが、その所為でサルガッソ海もサンドウィッチ諸島の北方にもうひとつ出現しちゃったのではないだろうかww 19世紀の地図は色味がかわいいとおもう。地名などの「現代の地図との違い」とともに、題字の飾り罫その他のデザインもたのしめるのが、古地図を眺めるひとつの魅力だろう。
訂正萬國地理 明治25年(1892年) 明治21年(1888年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館
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マシン・エイジの巨大蒸気機関@昭和初期の科学図鑑
18世紀に大量生産方式と工場生産制とを導入した合衆国の工業は急速に発展していき、明治23年(1890年)にその生産高が農業を追い抜き、大正2年(1913年)には世界の3分の1のシェアを占めるまでになったそうだ https://americancenterjapan.com/aboutusa/profile/1936/ が、さまざまな場面に機械が採り入れられるとともに、そのイメージは明るい未来を招来するものとしてもてはやされ、やがて美術や建築デザインなどの分野にも強い影響をあたえて精密派、国際様式 https://kenchikuchishiki.jimdofree.com/2017/08/18/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB-%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%81%A8%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0%E5%BB%BA%E7%AF%89%E3%81%AE%E4%B8%89%E5%A4%A7%E5%B7%A8%E5%8C%A0/ などを生み出すことになった。そうした時代は「機械時代——マシン・エイジ——」と呼ばれた https://jp.techcrunch.com/2018/05/30/2018-05-27-review-cult-of-the-machine-at-the-de-young/ が、そうした流れのなかで大量の電力供給をもとめられる発電所などでは、その動力源となる機械が巨大化していった。今回は1920年代の巨大蒸気機関のようすを、昭和初期に刊行された科学図鑑にみてみることにしよう。 1枚目はキャプションにあるように当時最新式の機関室でパブコック式水管汽缶(かま)42基が整然とならんでいる。2枚目がその汽缶のひとつを部分断面図で示したもの。石炭をかたまりのまま燃焼室へほうりこむのではなく、まず右手にある乾燥室で水分をできるだけ飛ばしてから歯車で微粉炭にして送風機で汽缶内に送り、燃焼効率を高めている。3枚目はさらに改良を加えた機械で、上は循環するうちに冷めた蒸気を余熱を利用して温度を上げてから汽缶に送り込むようにしたもの、下は微粉炭燃燒による高温が耐火煉瓦を融かしかねないので、その余熱を水管加熱にまわして蒸汽にするための補助とし、エネルギーの有効活用を図ったものだそうだ。 4枚目は当時世界最大の「メトロポリタン・ヴヰカース」蒸気タービン組立工場のようす。「ラトー式衝動タービン」という型式で、手前にあるのが完成品とのこと。5枚目の発電所はキャプションに「マンチエスターのバートン發電所」とあるが、ここのことはよくわからない。イギリス第3の都市マンチェスターの古い発電所について地元の方が紹介されている動画があったが、これには出てこなかった。 https://www.youtube.com/watch?v=zDQEW4PE_1s もしかするとアメリカのニューハンプシャー州にある同名の街のことかもしれないが、こちらの発電所事情もやはりよくわからなかった。 6・7枚目のタービンは国産品で、キャプションにあるように三菱神戸造船所で組み立て中のものと、発電室に据え付けられたもの。本文には「内地製としては三菱製のものが多い。」とある。この「ユングストロム・タービン」は基礎もふくめ小型軽量ながら発電量がほかの型式に退けをとらないのだそうだ。8枚目は「ニューヨーク・エディソン會社のヘルゲート發電所」に設置された当時世界最大の蒸汽タービンで、上が高圧部を組み立てているところ、下が組み上がったものを運転試験台に載せたところだ。余談だが、この発電所は昭和11年(1936年)に停電騒ぎを起こしているそうだ。 https://books.google.co.jp/books?id=nuzQDwAAQBAJ&pg=PA61
最新科學圖鑑6 機械時代 上 昭和05年(1930年) 昭和05年(1930年) グラビア刷り+網版刷り図版研レトロ図版博物館
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商店建築図案@大正後期の商店建築デザインコンペ優秀作品選集
前回のショウウィンドウ図案 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/154 に引き続き、震災復興期の建築資料展覧会に出品された公募商店建築デザイン画の受賞作を今回は取り上げる。 1・2枚目の「洋品化粧品ト美容店」、3枚目の「喫茶店」、4枚目の「金物商(普通一般家庭ニ用フル諸金物)又ハ硝子商(シートグラ(<「シートグラス」の誤りとおもわれる。要するに板ガラス)及びガラス製器具)」の3つが金賞、5枚目の「寫眞機諸材料店」、6枚目の「化粧品店と附設理容館」、7枚目の「寫眞機業商店」、8枚目の「小さな百貨店」が銀賞を勝ち取った作品。各階平面図もそれぞれにあるのだが、画像の枚数制限があるのでほぼ割愛。どれも正面の造作はかなり凝っている。屋上庭園を設けたり、水洗便器や汚水浄化装置・温水暖房設備を導入したり、とかなり先進的な仕様で、最初に掲載されている建物などは、1階が洋品雑貨売り場と事務室、2階が化粧品・薬品売り場と休憩室、3階が男女ヘアサロンと貸し展示会場と事務室、4階が店主一家の住処と女中、店員の居室というプランが想定されていて、荷物上げ下ろし用のエレベータまである。二つ目の喫茶店は貨客用エレベータつきだ。内部は壁面にレリーフをあしらい、調光スイッチつきのブラケット灯がそれを照らし、またガス灯も併用すると書いてある。三つ目の商店は金物やガラス製品以外の小売商でもよく、また上階は貸店舗や賃貸居室を設定可能なことも想定している。 実はこの図案集、国会図書館デジタルコレクションに帝國圖書館旧蔵の初版が公開されている https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966918 のだが、序文の後の図版ページが頭から4丁分失われている。だから最初の「洋品化粧品ト美容店」は平面図も含めまるまるなく、次の「喫茶店」も正面図・立面図が欠けているのだ。帝國圖書館の蔵書は、デジタルコレクションでインターネット公開されているものだけでも一部のページ抜けや破れ欠損・書き込みなど、利用者のモラルを疑わせる痕跡が相当数みられる。この本の欠落ページも最優秀作品のところが消えているわけで、おそらくはさもしい性根の手合いがこっそり破り取って持ち去ってしまったものとおもわれる。いつの世にもほかの人々の迷惑を顧みない困り者は少なからずいた、ということを端的に示しているのだろう。 なおこれらの図版は拡大してみても網点がなく、写真をコロタイプで縮刷したものとおもわれる。だから細かいところまでかなりよく見えるのだけれども、それでも手書きの解説文や註釈などの文字が小さくてなかなか読み取りづらいページもある。余白をかなり大きくとってあってかっこいいレイアウトではあるが、それにしてももうちょい読みやすくできなかったのかな、というのが正直なところww それにしても、こんなスタイリッシュで趣味のよい建物群が整然と建ち並ぶ通りを散歩したら、どんなにか心たのしいことだろう。今のピカピカした、面白味も統一感もないガラス張りのハコをごちゃごちゃと並べたてた都市風景は、機能的にははるかに進歩しているのだろうけれどもどうも好きになれない。
商店建築及店頭計畫圖案 大正13年(1924年) 大正13年(1924年) コロタイプ図版研レトロ図版博物館
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商店ショウウィンドウ図案@大正後期の商店建築デザインコンペ優秀作品選集
大正12年(1923年)9月、南関東を襲った大震災により壊滅した帝都を、単なる都市機能の復旧だけでなく、その景観をも意識した美観あふれる街として復興しよう、という機運はかなり早くから盛り上がったようで、だいぶ前に図版研架蔵資料目録の方で昭和初期の例を取り上げたことがあるが、欧米の都市で最尖端のデザインを身をもって接してきた民間人による図案集が大正の末ごろから続々と刊行された。その一方で、公の機関による商店建築のデザイン競技会が企画され、公募作品のなかから特にすぐれたものを集めた図案集も震災の翌年に出ている。これは予想を超えた人気を呼んだらしく、なんと初版が出てから半月で再版されている。今回はその図案集から「店頭計畫圖案」、つまりショウウィンドウのデザイン画をいくつかみてみることにしよう。 この本の序文によれば、その競技会は府立東京商工獎勵館が大正13年(1924年)5月1日から翌6月10日まで開催した「帝都復興建築資料展覽會」の展示品の一部として企画されたもので、「(甲)商店(住居を含む)計畫圖案」「(乙)店頭計畫圖案」の二種を募集した。いずれも幅11メートルの大通りに面した、間口10メートル奥行き25メートルの敷地に新築するものとし、甲の方は鉄筋コンクリート耐火造に限り、乙の方は任意とされていた。懸賞として最優秀賞である金賞は3名、優秀賞の銀賞は5名と設定されたが、4月25日の〆切までに寄せられた応募総数は260、半分以上は東京府内からだったが関西からのものも多く、北海道や満州から送られてきたものもあったという。乙、つまり店頭計画図案はそのうちたった32で、やはりどうせ出すなら建物全体をやりたい、と考えるデザイナが多かったようだ。委嘱された4名の専門家が審査した結果、商店建築110、店頭は18が入選となり、そのうち金賞はいずれも商店建築、銀賞はひとつを除いてやはり商店建築が受賞した。展示会場では入選作品全128点が観覧に供され好評を博したそうだ。 なお府立東京商工獎勵館は、欧州大戦後に盛んになってきた国内工業のレヴェルアップを目的に東京府と実業界とがタイアップして大正6年(1917年)から寄附を募りはじめ、同10年(1921年)にそれを資金として有楽町の東京商業會議所そばに建てられたそうだ。後には東京都へ引き継がれ、大正13年(1924年)設立の東京市電氣研究所の後身と合併して東京都立工業技術センターとなったが、これが現在の東京都立産業技術研究センターの前身のひとつとなったという。 https://tobira.hatenadiary.jp/entry/20140715/1405402793 さて前置きが長くなってしまったが、1・2枚目が店頭計画図案作品の中で唯一銀賞を勝ち取った入選作。アール・ヌーヴォー調の植物文を主体とした、現在の東京ではおよそお目にかかれないような優美なデザインで、特に照明効果を意識しているためだろう、夜景として描かれているようだ。説明文には「洋品店店頭として計畫せり」とある。金物はすべてブロンズで、青みがかった仙徳鍍金仕上げ https://www.atomlt.com/kanamono_sc/sc03/sc03_13/ 、左右の飾り窓周囲は特製タイル貼り、内部の天井部分は金属板に銀色のエナメル塗装で前面は分厚い磨き板ガラス入り、入口手前の天井は石膏色に金彩、床は人造石磨き出しで植物や小鳥の模様を描きタイルを貼りまぜるなど、あれこれ凝った仕様が指示されている。 3枚目以降は「選外」で、「MATSUYA」とロゴが掲げられているのは化粧品店、4枚目はショウケースの中にグランドピアノやギターが見えるとおり楽器店、5・6枚目の「アサヒヤ」は洋服洋品店、7枚目の「TOILET SHOP」は化粧品店で、外光が前者の立面図で庇下や張り出し窓のショウケースなどに影をつくり、後者の平面図で2箇所ある両開き框扉のガラスを透かして店内に床面を照らしているさまが表現されている。8枚目は文房具店で、まぐさを飾る銅鈑打ち出し模様や鉄骨鋼鈑張りに繊細な模様のステンドグラスをあしらった左右出入り口の扉など、これまた凝った造りだ。 折角なので、次回は商店建築図案作品の入選作の方も取り上げてみることにしよう。
商店建築及店頭計畫圖案 大正13年(1924年) 大正13年(1924年) コロタイプ図版研レトロ図版博物館
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20世紀初期のビーカーいろいろ@明治末期の理化学実験用品カタログ
少し前に、戦前まではビーカーはセット売りだった、当時のカタログをみるとわかる、などと書いた https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/149 のに、名前を出したカタログをご覧に入れないわけにもいかないよね、ということで今回はそれを取り上げようと改めて開いてみたら、あららちゃんと1個売りの単価も載っていた……ということで、先に以前の記事の方を書き直しておいた。だいぶ前に調べたことを再確認せずにうろおぼえで書いてしまったのがまずかった。イケマセンね〜。 というわけで、少なくとも20世紀に入ってからはばら売りもされていたけれども、しかしやはりここに掲げた図版にみられるように、複数のサイズを入れ子にしたセット売りが相変わらずおこなわれていたことは間違いない。どうしてそういう売り方が引き続いていたのかはわからないが、何かしらそういう需要があったからなのか、それとも単なる商習慣なのか……どの本だったか忘れてしまったが、戦後に理化学ガラス業界のお方がお出しになった回顧録にも戦前は組で売っていた、という記述を読んだことがあるのだけれども、そこにもたしかその理由は言及されていなかったようにおもう。 さておき1・2枚目にある、今日もっとも普通に使われる、高さが底面直径のおよそ1.4倍の比率のビーカーを「グリフィンビーカー」と呼ぶのだが、これはあの想像上の生き物のくちばしを連想したわけではなくて、考案者のジョン・ジョセフ・グリフィンの名を冠してあるのだ。で、3・4枚目をみると、これとは別に「普通形」という、もっと縦長のものがあったことがわかる。現在「トールビーカー」と呼ばれる、高さが底面直径の倍くらいのものに似ているが、これよりもさらに細長〜い「長形ビーカー」というものもあったのがご覧いただけるだろう。そのほかにも6枚目にみられるように、磁器製の「煮沸ビーカー」、注ぎ口のない「厚壁硝子ビーカー」、それに「銅製ビーカー」など今では全くみられなくなったものも出てくる。このようにやたらと種類が多いのはなにもビーカーに限ったことではなく、それがまた図版を眺めて喜んでいる口にはたのしい限りなのだが、現場で実験を重ねながら改良や取捨選択を試行錯誤していた時代ならではのヴァリエーションの多さなのではないかと考えている。
理化學機械藥品類目録 明治44年(1911年) 明治35年(1902年) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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帝都から東(というか北)への旅マップ@二十世紀初頭の観光ガイドブック
前回 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/150 のつづき、まずは追記に書いたように琉球と臺灣の地図を洩らしていたので、「東部」篇に移る前にご覧いただこう。タイトルが「大島及琉球諸島」となっているが、左側の臺灣の左上に「臺灣圖」とあるところからして、この「大島」というのは臺灣島のことではなくて奄美大島を指しているものとおもわれる。こちらはさすがにつながっていない地域の境目に赤線がひっぱってある。前回の小笠原諸島のところも、本来はこのような線がおかれる筈がうっかり忘れられたのではないかしらん。 さて、2枚目の「北陸道」からが「西部」に対する「東部」の各地地図として載せられているもの。7枚目に掲げた本文冒頭部をご覧いただければおわかりのとおり、臺灣から再び帝都に舞い戻って今度は上野より出発している。3+4枚目の「東山道」は長いため、「中山道」と「奥羽」とに分けてある。5枚目の「北海道」には千島列島も載っているが、こちらの仕切り線はなぜか赤い線ではなくて薄い青の親子罫だ。地図10枚のデザインが統一されているようで、細かいところはそのへんあんまり気にしていない気ままさ加減だ。そういえば、こちらの巻にはなぜか目次もない(おそらく単なる落丁ではないとおもわれる)。 なお千島は当時遊覧できるような地域ではなかったのか、本文にはひと言も出てこない。終いの方の航路案内は東京灣内からはじまって東北・北陸・北海道方面のものがひと通り紹介されたあと、8枚目にあるように「伊豆七島及小笠原島」でしめくくられている。こうした掲載順も、当時の「国内旅行観」をあらわしているようで面白い。
日本海陸漫遊之栞 東部 明治36年(1903年) 明治36年(1903年) 銅版刷り図版研レトロ図版博物館
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帝都から西への旅マップ@二十世紀初頭の観光ガイドブック
大阪〜神戸間に蒸気船が就航したのが明治元年(1967年)、東京〜橫濱間で旅客鉄道が動きはじめた明治5年(1872年)だそうだが、以降路線がふえていくに連れ、あちらこちらへ観光旅行に出かける人々が増えるとともに、やがてそうした旅へいざなう案内書も次々に刊行されるようになっていった。今回は、20世紀が明けたころのそうした本のひとつに載っている地図を眺めてみよう。 この本では主な鉄道と船の路線に沿って各地の見どころを紹介しているのだが、全国を10枚の地図に分けて、鉄道は赤い実線、航路は黒い点線で示している。明治30年代にもなって、行政区ではなく昔ながらの五街道や旧国名表示って、古くさい感じがしなかったのかな? などとおもってしまうのだが、当時の世の中にもこういう「諸国漫遊」趣味が受け容れられる下地がちゃんとあった、ということなのだろう。色味に明治らしいやわらかさがあって、しかもわかりやすく描いてある。該当地域以外をさっぱりと白抜きにしているのも画面がごちゃごちゃしなくて、なかなかいいアイディアだ。各地図のタイトルに、いちいち「漫遊之栞」と隷書体風の赤い図案文字で大きく書いてあってたのしい。 上下2冊に分かれていて、それぞれそれぞれ「西部」篇、「東部」篇になっているのだが、先にも書いたように路線別なので「西部」といっても最初は東京から始まっている。1枚目の「東海道」の沖合には離島も描かれているけれども、はるか南の小笠原諸島などは伊豆諸島の右側に(むりやり)たくし上げてある。その間に区切り線もなにもないのは、ちょっと珍しいとおもう。「東海道」や2枚目の「畿内」は鉄道路線がかなり整備されてきているけれども、3枚目の「南海道」や4枚目の「山陰道及山陽道」、5枚目の「西海道」はそれに較べたらまだごく一部にしか敷かれてないことがひと目でわかる。なお本文では九州地方につづいて沖繩や臺灣まで紹介されていることが、8枚目に掲げた目次の項目からおわかりいただけるだろう。 次回は「東部」の地図をご覧いただく予定。 追記:我が国の版図なのに、なぜか琉球や臺灣の地図がない……と終いのところに書いていたのだが、それはどうやら記事を書いているヤツに「各巻地図が5葉づつ」という謎の思い込みがあったようで、それで見落としていただけで実はちゃんとあった。でも折角載せた画像を取っ払うのもどうか、ということで、抜けた地図は次回にまわすことに。あしからず〜。
日本海陸漫遊之栞 西部 明治36年(1903年) 明治36年(1903年) 銅版刷り図版研レトロ図版博物館
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ライカ解剖図@昭和初期の写真術解説書
写真撮影といえば今やスマートフォン全盛、コンパクトデジカメなどすっかり市場を奪われて風前の灯状態らしいが、その一方でかつてデジタルカメラに追いやられて似たような立ち位置に追い込まれたかにみえたフィルムカメラは、今なお熱烈な愛好家が少なからずおられるばかりか、若い世代にまでファン層がひろがっているようだ。 そうした背景あって、今も高い人気を誇る戦前のカメラのうちにドイツ・ライツ社製のライカがある。図版研はカメラマニアがいるわけではないのでくわしいことは専門の方々におまかせするとして、昭和初期にすてきな装幀の本をたくさん出している出版社・アルスの写真大講座シリーズの本に載っている、ライカの内部構造を示した図版を今回は眺めてみることにしよう。精密機械萌えの方にはたまらん感じだとおもうし、インターネットでちょっと検索してみてもこういう図は意外と引っかかってこないようだから、こういうカメラにご興味がおありの向きにもちょっと面白いかな、ということで。 この本によれば、「十數年前、イーストマンより 3A判と 1A判のロール・フィルムにこの型式を應用したのが、距離計とレンズとを連結させた始祖ではないでせうか。」ということだが、おそらく大正の半ばごろに出たこのカメラは距離計の精度が低い上に、「(おそらく焦点合わせの)見方」が難しく扱いづらかったのだそうだ。1930年代に入って、いずれもドイツのメーカー・ライツとツァイス=イコンがほぼ同時期に製品化したライカとコンタックスで、こちらははるかに使いやすく市場に大歓迎され、ホクトレンデル(フォークトレンダー)社もプロミネントで参戦して、ようやくその仕組みが普及するようになったという。 この本の中ではライカが如何にすぐれているか、その特徴を12箇条にわたって挙げたあと、「今日の寫眞術はこの型式に屬する寫眞器を度外して話をすることが出來ないし,技術問題を述べることも出來ない立場にあります。隨つて,此の型式の寫眞器が在來のものに比べ,如何に完全,如何に精巧,如何に精密に作られてあるかを知つてゐることは,この型式の寫眞器を有〈も〉つてゐる人には無論必要であるし,有つてゐない人にも亦〈また〉必要ですから,更に詳しく述べたいのですが,紙面の都合があるので」ということで、ライカの代表機種として「III型」と呼ばれるものの解剖図を代わりに載せている。1枚目の機体+レンズの写真のうち一番上が初めて距離計連動機構を載せた「II型」、一番下(2枚目がその拡大したもの)はそれに加えて「1/20秒以下の遲速度シヤツター」、つまりスロー・シャッターを採用した上位機種の「III型」、真ん中は両機種に取り付けられる「廣角・大口徑・長焦點距離」などの交換レンズヴァリエーション。 3枚目以降が「斷面圖」、つまり筐体やパーツをまっぷたつにした内部構造図で、4枚目に拡大したのが機体を上下の真ん中で水平に切って上からみたところ、5枚目が同じく前後の真ん中で垂直に切って後ろからみたところ、6枚目が左側からみたところで「遲速度シヤツター目盛輪」のところだけ縦に切ってみせている。丸つき数字で示した各部名称もここにまとめられている。8枚目に拡大したのが「焦點距離7.3cm. f:1.9 ヘクトール・レンズの斷面と距離計への連絡裝置」と、その下が機体上部の距離計を水平に切って上からみたところ。7枚目に以上の図版の説明原文が載っている表裏2ページ分を並べてみたが、小さくてちょっとご覧になりづらいかも。なおその右側にある図版はコンタックス本体と交換レンズヴァリエーション。双方の機械について、「人間のやれる處には自づと限りがあるためか,ライカとコンタックスとの同格品を比較すれば,その能力は殆ど同等。差異は,極めて難かしい細かい問題。簡單に片附けられません。/普通一般の用途に對しては,/ライカで出來ることなら,コンタックスでも出來ます。/CONTAXで出來ることなら,ライカでも出來ます。/ライカならではとかコンタックスなるが故に,……などといふ言葉をウカツに使ふことが出來ないほど,兩者は,極めて接近したものであります。」と評してある。
ルス最新寫眞大講座 第3卷 撮影の實際 昭和10年(1935年) 昭和10年(1935年) 網版+銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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鳩あれこれ@昭和初期の原色動物図鑑
前に空撮用の「鳩カメラ」を取り上げた https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/138 が、そういえば当時我が国ではどんなハトが紹介されていたのだろう? とふとおもって動物図鑑の鳥類編を引っ張り出して、「鳩鴿目」つまりハト目のところを開いてみたら思いの外、図版だけみてその名前が言い当てられないものでいっぱいだった。だいぶ前にモノ日記の(中断したままになっている)「ザボンと文旦」稿 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/diaries/19 のなかで引用した一冊もの図鑑の別ヴァージョン6巻組の端本。彩色図版は特に、あのメタリックな羽の色つやがうまい塩梅に表現されているとおもう。 1枚目の上半分にあたる2枚目アオバトのうち上段のふたつは日本産、下段のふたつは南洋諸島の産。1枚目下半分を拡大した3枚目は左側のボタンバト・カルカヤバトがマレー半島からスンダ列島にかけて分布。右上のカラスバトは国産種で、この図鑑には「本州・四國・九州の南部沿岸の諸地方並〈ならび〉に琉球の北部に分布してゐる。」とあるが、現在では離島にしかいないらしい。 https://db3.bird-research.jp/news/wp-content/uploads/2016/04/13_4_janthina.pdf 右下のカワラバトは街中でもっとも普通にみられるドバトや伝書鳩などの原種。この本の解説では「我國にては、往時は本州より沖繩までの各地に、棲息せし種類なれど、現時は四國・沖繩などの海岸に少數を見るに過ぎぬ。」と書いてあるが、山階鳥類研究所『ドバト害防除に関する基礎的研究』 http://www.yamashina.or.jp/hp/kenkyu_chosa/dobato には、日本鳥類學會会長を務められた黑田長禮の図鑑『鳥類原色大圖說』の中で見間違いとされている、とある。 http://www.yamashina.or.jp/hp/kenkyu_chosa/dobato/hato11.html で、同書第三卷(昭和9年(1934年)刊)を引っ張り出してみたらたしかに、「743 かはらばと」のところに「嘗て本州・琉球・臺灣等より報吿あるものは總べて家禽となれる「どばと」中にて「かはらばと」に類似の羽色のものを誤稱せるによる。」と書かれていた。当時の博物ギョーカイと鳥類ギョーカイとで意見が割れていた、ということだろうか。 4枚目はどれもカワラバトを品種改良したもので、原形とは似ても似つかない愛玩種もある。上半分を拡大した5枚目の左上が伝書鳩で、解説には「我國へは、白耳義〈ベルギー〉の品種が輸入され、其〈その〉雜種又は原品も輸入せられてゐる。」とある。右上のドバトの方には、「現今數百の品種があり、愛玩用・食用・傳書用として、利用される有用の鳩である。何れも原種カハラバトより淘汰改良をうけて生ぜしもので、羽色にも種々あり、黑色・白色・黃色・黑白斑・蒼色二引・鞍掛などがある。我國では、多く神社・佛閣に飼養せられてゐる。」と解説されているが、昭和中期以降有害駆除がはじまったそうで、人間が手前勝手にこの島に持ち込んでおきながら今やすっかり害鳥扱いだ。 http://www.yamashina.or.jp/hp/kenkyu_chosa/dobato/hato221.html 5枚目のやや地味なひとたちは左上から、俗にヤマバトとも呼ばれる、当時「鳩類中最も普通に見る種類」のキジバト、その隣が屋久島から琉球諸島にかけて分布しているリュウキュウキジバト、2段目左が台湾や支那に多いカノコバト、次のジュズカケバトは現在では中央アフリカ産のバライロシラコバトから派生したとされているようだ http://www.ax.sakura.ne.jp/~hy4477/link/zukan/tori/juzukakebato.htm が、当時は「原産地は、北亞弗利加〈アフリカ〉か、印度・小亞細亞〈アジア〉であるとの說がある。」という認識だったようだ。次の「べにじゅずかけばと」というのは解説に書かれている学名と「「スマトラ」・爪哇〈ジャワ〉に産し、飼鳥として舶來する。」という一節からして、スンダ列島にいるオオベニバトのことのようだ。昭和31年(1956年)に埼玉県の鳥に指定されたシラコバトについては、「小亞細亞・土耳古〈トルコ〉・印度・「ビルマ」・支那等に、棲息してゐる。往時は我國にも、廣く各地に分布せしも、現時は、埼玉縣・千葉縣に亙る、江戸川筋の御獵場と其附近に限り、棲息するを見るのみである。」と書いてある。なおこれもまた、当時は「じゅずかけばと」と呼ばれていたらしい。コブバトは南洋、ベニバトは「「ビルマ」・交趾支那〈こーちしな〉・「ヒリツピン」・支那・西比利亞〈シベリア〉東南部地方、滿洲等に分布し、我國にては、臺灣にのみ多く棲む。」とあるが、現在は南西諸島にもいるようだ。 https://www.birdfan.net/pg/kind/ord10/fam1001/spe100106/ 7・8枚目はモノクロ図版だが、よくみると実は墨単色刷りではなく二色版でことがわかる。「すずめばと」は「南米「コロンビヤ」・墨國〈メキシコ〉の東南部に棲息してゐる。」とあるが、学名からして今いうフナシスズメバトで、「南「アリゾナ」・南「テキサス」・「カリフオーニア」・墨國等に分布してゐる。」とある「しゅばしすずめばと」の方が今日のスズメバトのことらしい。ケアシスズメバトは中南米の暖かい地方の産で、当時飼い鳥として輸入されることもあったようだ。チョウショウバトはマレー・フィリピン・スンダ列島・タイなどにいて、古くから日本へも飼い鳥として持ち込まれていたそうだ。ベニカノコバト・ウスユキバトはオーストラリア方面から輸入されていた当時の人気品種。ヒムネバトはフィリピン産で、こちらは稀に輸入されることもあったという。キンバトは印度からニューギニアにかけて分布していて、琉球南部や台湾にもいる、と書いてある。ショウキバトとレンジャクバトはオーストラリア産、シッポウバトはアフリカ産、当時は「さざなみすずめばと」と呼んだサザナミインカバトは南アメリカ産で、いずれも輸入飼い鳥として人気があった。カンムリバトはニューギニア西部とその周辺にいると書いてあるが、19世紀初頭に描かれた絵巻物『外國珍禽異鳥圖』にも出てくる。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286746/3 キンミノバト、ソデグロバトはいずれも東南アジアの産だが、当時愛玩用として 稀に輸入されていたという前者は島部にしかいないそうだ。http://www.ax.sakura.ne.jp/~hy4477/link/zukan/tori/kinminobato.htm 1920年代、大正後期から昭和のはじめにかけて飼い鳥ブームが起こり、さまざまな珍しい鳥がさかんに輸入されたから、図鑑にもそうした興味を惹きつける図版が必要とされたにちがいない。
内外動物原色大圖鑑 第二卷 昭和13年(1938年) 昭和11年(1936年) 原色版図版研レトロ図版博物館
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大東京の橋@昭和初期の東京風景写真帖
今日は都知事選の投開票日……何ひとつ期待はしていないけれど、一応投票だけはした。ま、それはさておいて。 昭和7年(1932年)、大正12年(1923年)の震災の後にそれまで農村だった東京十五區の外側の郡部へ住宅地がひろがっていき、そのままのしくみではいろいろと障りがもちあがってきたところで、荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾の五郡だったところに新たに二十區を設定して三十五區からなる「大東京」になった。さらにその4年後、昭和11年(1936年)に北多摩郡の一部をくっつけて、現在の二十三特別区とほぼ同じ版図になった。そのへんの経緯などは「探検コム」のお方がわかりやすくまとめておられる。 https://tanken.com/35.html 住民が東京市外に移り住むようになったのは、震災で被災したというのももちろんあるが、都心部は煤塵などの公害がひどかったようだし、住環境も狭くてよいとはいえない状況になっていたから、この際もっと空気も水もきれいな広いところで暮らしたい、という人がふえたからだろう。 今回ご覧に入れるのは、ちょうどそのころの大東京の姿を紹介した小型の写真帖に載っている、いろいろな橋の姿。1・2枚目はご存知日本橋、明治44年(1911年)に架け替えられた石橋が今も使われているが、2枚目の図版と違って高速道路が上におっかぶさってうっとうしいことこの上ない。当時は中央に据えられていた道路原標も、都電の路線が廃止された昭和48年(1973年)に橋向こうに見える今はなき大栄ビル(旧帝國製麻ビル)の脇にどけられてしまっている。 https://blog.goo.ne.jp/ryuw-1/e/bc95758191a3d9f1b52e68aef01c742c 3枚目は隅田川にかかる橋々のなかから震災復興建築としての清洲橋と永代橋、それから駒形橋上から吾妻橋方向を眺めたところ、そして4枚目として拡大した部分には御茶ノ水驛に近い昌平橋あたりの中央線高架橋と聖橋。よくみると、聖橋の下の鋪道を若い女性がふたり歩いているのが写っている。 5・6枚目のはね上げ橋は、湾岸を走る貨物線が通っていた芝浦可動橋。 http://odawaracho.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-0ae8.html 廃線になった後もしばらく残っていたが、現在では東京臨海新交通臨海線が頭上を通る、新浜崎橋という特徴のない歩行用の橋にかけ替わっているらしい。 7・8枚目は新たに東京市に加わった地域から、世田谷區の多摩川にかかる鉄橋……ということなのだが、このトラス橋は鉄道線のように見える。世田谷区から多摩川を渡っている線路といえば東急田園都市線の二子玉川〜二子新地間しかない筈だが、二子橋梁はたしかこんな形はしていなかった。じゃあいったいこれはどこ? ……としばらく悩んだが、同じく東急の東横線が多摩川を渡る多摩川橋梁が以前はこんな鉄橋だったのを思い出した。 http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link151.html 同線前身の東京橫濱電鐵が大正15年(1926年)丸子多摩川驛〜神奈川驛間を開通させたときに造られたというが、二十世紀末ぐらいにかけ替えられて今はトラスじゃなくなっている。この橋の東京側は当時大森區(現在は大田区)の筈だが、丸子橋の上あたりからこの鉄橋方向にレンズを向けたとすれば、川向こうの左手や奥はたしかに世田谷區の玉川村ということになるようにおもう。
大東京寫眞帖 昭和12年(1937年) 昭和12年(1937年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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チョコレート工場見学@昭和初期の化学プラント図解本
以前、明治の初めに西洋薬の輸入製造販売のさきがけとして始まった当時の資生堂について一次資料をあたっていたときに実感したことだが、今やその名をしらない人がいないような大企業でも、その創業のころの記録は意外とわからなくなってしまっていることが少なくないようだ。もちろん、震災や戦災、大火というような不可抗力に巻き込まれてうしなわれた資料もすくなくないだろうけれども、試行錯誤を繰り返しながら製品を造ったり売り買いしたり、という日々の仕事におわれて、おそらくは記録をきちんととっておこうというゆとりがなかったからではないか、などと想像してしまう。 日本で最初にチョコレートをつくって売ったのはいつか、というのを安直にネット検索してみるといろいろな説がでてきて、製造者の同業団体ですらおっしゃることが一致していないので、いったいホントのところはどーなの? という疑問がわくのだが、同じことをおもわれた方がすでにあったようで、レファレンス共同データベースに日本最初の新聞広告はいつのものか、というお尋ねへの福岡県立図書館回答事例が載っていた。 https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000254553 結局、一次資料が確認されているうちでは八杉佳穂氏『チョコレートの文化誌』 https://sekaishisosha.jp/smp/book/b354345.html に紹介されている明治10年11月1日附け『東京報知新聞』の凮月堂米津松造のものが最も早く、同図書館の方がお調べになった範囲ではそれ以前にはないらしい。「新製猪口令糖」というくらいだから、まぁこの年がはじまりとみてよいのだろう。なおレファレンス記事にもあるように、当の東京凮月堂サイトの「東京凮月堂の歴史」には翌年の『かなよみ新聞』広告のことしか書かれていない https://www.tokyo-fugetsudo.jp/about/history ので、いつが最初なのかはあんまり気にしておられないのかもしれない。 森永製菓の「沿革・歴史>明治・大正(1899〜)」には、同社がカカオ豆からの一貫生産を国内で初めておこなったのが大正7年(1918年)、とある。 https://www.morinaga.co.jp/company/about/history.html 大正5年(1916年)に「東京菓子」として創業、大正13年(1924年)に「明治製菓」と商号がかわった今の明治が「ミルクチヨコレート」「明治ココア」を売り出したのが大正15年(1926年)、と同社サイト沿革に書いてある https://www.meiji.co.jp/corporate/history/ が、その前年に建てられたという川崎工場の生産ラインを今回は見学してみることにしよう(あらら、ずいぶん前振りが長くなってしまった……)。ところどころに登場している人形や動物をかたどった製品は、当時「トーイス」と呼ばれていたようだ。なお4枚目のページだけはチョコレートではなく、同じ工場内のビスケットとウェーファースの製造現場。2枚の写真ともにまるで人形のように全く同じ恰好で立っておられる長白衣に丸眼鏡のお方が、ご取材の際のご案内役だったのかもしれない。 戦前のチョコレート一貫生産の各工程のようすは、なかなか目にする機会がない。原料産地での採集風景からはじまっているのが、さすがは当事者の全面協力あっての記事だけのことはある。このような出版企画が実現したのも、当時の科学教育界と化学工業界の有力者がつどって啓蒙活動をすすめる団体だったからだろう。
圖解化學工業 昭和04年(1929年) 昭和04年(1929年) グラビア刷り図版研レトロ図版博物館
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野の草花の彩色博物画@明治後期の小型植物図鑑
暑い。朝から夕まで、陽が出ているあいだ中こう暑いと、なにかやろうという気持ちになかなかならない……綺麗な植物画でも眺めて、せめて心持ちだけでも清々しくしておきたい。ということで今回は、明治の末に村越三千男ひきいる東京博物學研究會が出した、薄い5冊組の植物図鑑を引っ張り出して、そのうちの1冊から草花の彩色図版を、特に今が花どきというわけでもなくいくつか拾ってみた。 1枚目が「桔梗科」(キキョウ科)、2枚目が「山蘿蔔科」(マツムシソウ科)+「敗醬科」(オミナエシ科)+「連幅草科」(レンプクソウ科)、3・4枚目が忍冬科(スイカズラ科)、5・6枚目が茜草科(アカネ科)、7・8枚目が玄參科(ゴマノハグサ科)。なお、レンプクソウ科は今ではガマズミ科に統合されているらしい。 https://www.digital-museum.hiroshima-u.ac.jp/~main/index.php/%E3%82%AC%E3%83%9E%E3%82%BA%E3%83%9F オフセット多色刷りの細密な博物画で見せる日本の植物図鑑としてはかなり早い時期のものだが、色味や構図など精確性を期すると同時に絵としての美意識もあわせ持たせた美しい図版とおもう。
自然分類ニ據ケル日本之植物 卷之二 明治43年(1910年) 明治43年(1910年) 網版多色刷り+活版刷り図版研レトロ図版博物館