婦人和装向け懐中時計用のおしゃれチェーン@大正期ごろの宝飾品カタログ

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我が国に懐中時計が輸入されはじめたのは文久4年(1864年)、国内製造が始まったのはその四半世紀後の明治22年(1889年)だそうだが、精工舎が初めてひげぜんまいに至るまですべて国産化することに成功したのは明治43年(1910年)、とセイコーミュージアムサイトに誇らかに書かれている。
https://museum.seiko.co.jp/knowledge/relation_08/
明治25年(1892年)の創業から量産化成功にいたるまで、ずーっと赤字だったというから「よくぞご無事で……」とおもってしまう。

女性向けに開発された12型の懐中時計は1890年代が最初らしいが、日本でひろまり始めたのは多分国産品が出まわるようになってからなのではないかしらん(時計については詳しい方が大勢いらっしゃるとおもうので、ご教示いただければ幸い☆)。とにかく、明治後期あたりから時計を身につける日本女性が現われたようだ。しかし和装の場合、ボタンホールのような時計の鎖を留めるところがない。当初はネックレスのようにくびにかけたり、あるいは衿に取り付けたりする細身の長いチェーン、「首懸式時計鎖」「衿懸式時計鎖」が用いられたそうだけれども、根付のような小さな飾りがぶら下がっているものはあるものの、基本的にはシンプルなデザインだったらしい。
http://www.soushingu.com/collection/japan02/japan_sub13.html

大正期に入って、帯にクリップで留めるショートチェーン、その名も「短鎖」が新たに考案された。最初からそうだったのかどうかわからないが、これは金銀白金の繊細な細工に宝石や真珠をちりばめたペンダントが取り付けられた、派手におしゃれ度の増したデザインで、これはおそらく着物や帯の色柄にまけないように意匠を凝らしたためではないかとおもう。資産階級のステイタスとして珍重された懐中時計をうっかりなくさないよう身に繋ぎ留めておく鎖を、和装に合わせるためのおしゃれアクセサリ要素も兼ねての工夫のなかで生まれた装身具だから、もちろん日本独特のものということになる。今回ご覧に入れるデザイン画は35種ものヴァリエーションがあって、ちょうどそういう装飾品が流行していた時期のものではないかと想像するのだが、モノクロームながら見るからにきらびやかな感じで、色味や輝きが目に浮かんでくるようだ。きっと当時の富裕層の婦人たちの心を鷲づかみにしたことだろう。

残念ながら刊記がないので、実際いつのものなのかははっきりしないが、大正から昭和の初めであることは間違いない。表紙に書かれている情報から第四版であること、東京「下谷仲御徒士町三丁目」の「手島製作所」という会社の製品であることはわかる。これを手がかりにちょっと調べてみることにしよう。まず地名について、「仲御徒士町」は「なかおかちまち」で、正式には「仲御徒町」なのだがひとにより「仲徒士町」と書いたり「仲徒町」と書いたり、表記が揺れていたようだ。
https://furigana.info/r/%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%81%A1%E3%81%BE%E3%81%A1
昭和39年(1964年)に上野に呑みこまれてしまっていて、現在では都営地下鉄大江戸線の駅に名残のようにつけられているばかりだけれども、明治11年(1878年)に東京十五區が制定されたときに下谷區下谷仲御徒町として成立して以来、明治44年(1911年)に町名のアタマについている「下谷」が取っ払われただけで関東大震災後の復興期にも手が加えられることなく、昭和22年(1947年)に下谷區が淺草區と合併されて台東区になるまでずーっと変わらなかった町名だ。だからこれは判断材料にならない……ということで、次に会社の方を国会図書館デジタルコレクションにたくさん公開されている商工信用録のたぐいで探してみる。東京の貴金属・宝石装身具関係を古い方から順に追っていくと、大日本商工會『公認大日本商工録』大正六年調査版第一輯に錺〈かざり〉職人として載っている「手島本三郎」というのがまず引っかかる。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956898/63
ただし、所在は「仲御徒町二ノ二九」になっている。博信社『大日本帝國商工信用録』大正拾年改訂增補第參拾貳版には「合資會社手島製作所」が出てくる。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980865/148
こちらは所在地が「下谷區仲徒士町三ノ二二」、電話が「下谷四二二二」で電信略号の「ダイヤ」も振替番号もカタログと一致するので、代表社員の「手島知三」がメインで経営しておられることがわかる。「本三郎」と姓が同じで業種も場所も近いから、息子か誰かわからないがその身内の可能性が考えられる。そこで東京興信所『商工興信録』をみていくと、大正十一年十一月第四十七版に同名の「手島本三郎」が載っていて、その下に「通稱知三」と添えてある。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970697/293
職業が「(資)貴金屬品」所在地が「下、仲徒、三ノ二二」だから同一人物に違いなく、息子とかじゃなくてなんとご本人だったと判明。「取調年月」が同年7月で開業がその「7年前」とあるから、大正4年(1915年)前後に仕事をはじめられたことになるが、会社組織化したのがいつなのかはわからない。商工録は紳士録同様、掲載料を払って載せてもらうのが通例のはずだから、博信社のもののように業者により掲載スペースが違う本で段ぶち抜きになっていないというのは、それほど大手ではなかったことを示しているとおもう。専属工場を「數ヶ所所有」といっても、それは恐らく合資に加わった同業者何名かの仕事場のことだったのだろう。
この装身具カタログは口絵にかかげられた南アフリカ・トランスヴァールダイアモンド選鉱工場の図や原石見本、そして指輪や帯留め、髪留め、櫛などすべてが細密銅版画で描かれている、なかなか凝ったものだ。扉は3色刷り、墨淡色の口絵4ページ+本文56ページ、巻末に朱刷りの印鑑図案が1ページついている。職人が一枚一枚彫りあげる銅版で全ページ揃えるとなると版を拵えるのにそれなりに時間がかかるから、改版は年に1回できるかどうか、といったところだろう。さりとて流行りはあるし、新製品も継続的に出していかないとお客に逃げられるから、2年も間が空いたりはしないのではないかしらん。ご創業年にカタログの「No.1」が刊行され、以後毎年改訂とすればこの版は大正7年(1918年)ごろのもの、という勘定になる。移転前は個人経営で、何年か後に合資会社になって諸々のゆとりができてから作りはじめた、というパターンも考えられるが、だとしても遅くも昭和改元前のものだろうと(勝手に)推定しておこう。

余談だが、震災後に「京濱復興之卷」として出された『大日本帝國商工信用録』昭和貳年改訂增補第四拾五版に「(資)手島製作所支店」が、かの丸ビルに出店しているのが載っている
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1136078/21
が、これが同じ会社だとすればこのころはかなりの勢いがあったのだろう。日本商工社『日本商工信用録』昭和七年度改訂增補版にも「手島知三」が載っていることは確認できた
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1145535/33
が、同社がいつまで続いたのかははっきりしない。東京興信所『商工信用録』昭和五年五月第六十版で「手島」姓のところをみてもそれらしい人物は見当たらなくなっている
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1241730/253
し、その後の商工録を何年分か眺めてみても同社の名は見つからなかったから、少なくとも右肩上がりに発展したりはしなかったのだろう。NDLに収録されている資料は各年のものが揃っているわけではないし、今日ちょこちょこっと眺めただけから何ともいえないが、あるいは1930年代の世界恐慌による不況の荒波のうちに消えたのかもしれない。

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    M.S

    2021/08/04 - 編集済み

    アールデコ様式の素晴らしいデザインですね。
    実物があれば一つコレクションに加えたいものです。

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    • M.Sさま:この時代のものは洒落たヴァリエーションが豊富で、眺めていて飽きないですね。

      当方は、実物はあったとしても持てあますばかりですので、その辺のコレクションはおまかせいたします⭐︎

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