大東京の橋@昭和初期の東京風景写真帖

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今日は都知事選の投開票日……何ひとつ期待はしていないけれど、一応投票だけはした。ま、それはさておいて。

昭和7年(1932年)、大正12年(1923年)の震災の後にそれまで農村だった東京十五區の外側の郡部へ住宅地がひろがっていき、そのままのしくみではいろいろと障りがもちあがってきたところで、荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾の五郡だったところに新たに二十區を設定して三十五區からなる「大東京」になった。さらにその4年後、昭和11年(1936年)に北多摩郡の一部をくっつけて、現在の二十三特別区とほぼ同じ版図になった。そのへんの経緯などは「探検コム」のお方がわかりやすくまとめておられる。
https://tanken.com/35.html
住民が東京市外に移り住むようになったのは、震災で被災したというのももちろんあるが、都心部は煤塵などの公害がひどかったようだし、住環境も狭くてよいとはいえない状況になっていたから、この際もっと空気も水もきれいな広いところで暮らしたい、という人がふえたからだろう。

今回ご覧に入れるのは、ちょうどそのころの大東京の姿を紹介した小型の写真帖に載っている、いろいろな橋の姿。1・2枚目はご存知日本橋、明治44年(1911年)に架け替えられた石橋が今も使われているが、2枚目の図版と違って高速道路が上におっかぶさってうっとうしいことこの上ない。当時は中央に据えられていた道路原標も、都電の路線が廃止された昭和48年(1973年)に橋向こうに見える今はなき大栄ビル(旧帝國製麻ビル)の脇にどけられてしまっている。
https://blog.goo.ne.jp/ryuw-1/e/bc95758191a3d9f1b52e68aef01c742c

3枚目は隅田川にかかる橋々のなかから震災復興建築としての清洲橋と永代橋、それから駒形橋上から吾妻橋方向を眺めたところ、そして4枚目として拡大した部分には御茶ノ水驛に近い昌平橋あたりの中央線高架橋と聖橋。よくみると、聖橋の下の鋪道を若い女性がふたり歩いているのが写っている。

5・6枚目のはね上げ橋は、湾岸を走る貨物線が通っていた芝浦可動橋。
http://odawaracho.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-0ae8.html
廃線になった後もしばらく残っていたが、現在では東京臨海新交通臨海線が頭上を通る、新浜崎橋という特徴のない歩行用の橋にかけ替わっているらしい。

7・8枚目は新たに東京市に加わった地域から、世田谷區の多摩川にかかる鉄橋……ということなのだが、このトラス橋は鉄道線のように見える。世田谷区から多摩川を渡っている線路といえば東急田園都市線の二子玉川〜二子新地間しかない筈だが、二子橋梁はたしかこんな形はしていなかった。じゃあいったいこれはどこ? ……としばらく悩んだが、同じく東急の東横線が多摩川を渡る多摩川橋梁が以前はこんな鉄橋だったのを思い出した。
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link151.html
同線前身の東京橫濱電鐵が大正15年(1926年)丸子多摩川驛〜神奈川驛間を開通させたときに造られたというが、二十世紀末ぐらいにかけ替えられて今はトラスじゃなくなっている。この橋の東京側は当時大森區(現在は大田区)の筈だが、丸子橋の上あたりからこの鉄橋方向にレンズを向けたとすれば、川向こうの左手や奥はたしかに世田谷區の玉川村ということになるようにおもう。

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