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日本でも売られていたヴィクトリア朝のマスク@明治初期の医療用品カタログ
前回取り上げたカタログ https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/162 を出した自動車用品店の創業時期もそうだが、ある事業や商品が「いつが最初だったのか」がはっきりしていることはあんまりない。先行きどうなるかわかったものではないときに、そんなことをいちいち記録しておこうという考えが浮かぶ余地はないのかもしれないし、当事者は当たり前のようにわかっていたとしても、彼らがいなくなってしまえばたちまちわからなくなってしまうのは仕方のないことだろう。 今や誰もが日々お世話になっている医療用マスクにしても、大正期のいわゆる「スペイン風邪」流行の際に一般に広まったことはしられているものの、日本で最初に使われ出したのがいつなのかは精確にはわかっていない。宮武外骨が大正14年に出した自著『文明開化』二 廣告篇の中で、日本橋區本町の薬種商・いわしや松本市左衛門が自家製マスクの売り出しをしている広告を紹介している https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1182351/42 のはよくしられているけれども、「遅くともこの頃には、我が国でも作られるようになっていた」ということがわかるばかりだ。 なお同書では、外骨は新聞広告についてはちゃんとその出典を明記しているので、括弧書きで「(明治十二年二月)」としか書き込んでいないからには、この広告は恐らく引き札のたぐいなのだろう。松本一族のいわしやは大正期あたりまで、屋号の「わ」を変体仮名で書き表すのが常だから、文の文字組みはオリジナルではなく、この本のために新たに組み直していることがわかる。 と、前置きがちょっと長くなってしまったが、今回はそのいわしやが明治11年に刊行した医療用品のカタログに載っているマスクをみてみよう。 図解してあるのは表側が真っ黒で、口だけを覆うものと、それから鼻と口とを覆うものとの2種類。今日のものと同じく両耳にかけるものと、それから頚の後ろに紐を回して留めるものとがあったようだ。品名表の方をみると、「護息器 レスピラートル」と総称されている。 49番は「英式三層護息器」、50番は「ヱフライ氏の護息器」となっていて、このほかに「單純護息器」「英式四層護息器」「英式六層護息器」「鼻口護息器」というのもあったらしいことがわかる。カタカナで添えてあるのはドイツ語のようだが、綴りがちょっと思いつかないものもあって正確な意味がつかみづらい。素材や価格なども書かれていなくて不明。 それはともかく「英式」というからには、イギリス式のマスクがこの頃には輸入販売されていたということになる。では「ヱフライ氏」とはナニモノか? というところに興味が向くが、図版研で最有力候補と目されているのが、ヴィクトリア朝のロンドンで外科医をしていたジュリアス・ジェフリーズ Julius Jeffreysだ。 彼は自身の考案した慢性呼吸器疾患対策用の「レスピレータ」、つまりマスクの特許を取った初めての人物という。インペリアルカレッジ・ロンドンやオハイオ州立大の医学史研究者の方々のお話によると、ジェフリーズは東インド会社の武官や文官の診療にあたる医師としてインドのベンガルに赴任していたが、その後ロンドンに戻ってきた際に彼の妹(でなければ姉)の喘息の発作がひどくなったため、UKの寒冷で乾燥した空気がよくないと考えて、絹布と革、そして重ねた金属製の網を用いたマスクの開発に取り組んだという。彼女は結局1838年に結核で世を去ってしまうが、彼は呼吸器疾患に苦しむ人のために「身につける人工環境」を実現する道具として改良を重ね、1864年「呼吸環境改善装置climatic apparatus」として売り出して、大いに世の支持を得たらしい。 ただし、少なくとも当初は超高級品で、当時の値段で1コ7〜50シリング、今の日本円にしてざっと2600円あまり〜2万円近くもしたという。当然一般庶民には到底手が届くものではなかったし、使い捨てなどとても考えられないシロモノだった。それでも人気を博したのは、ルイ・パストゥールやロベルト・コッホによって感染症を惹き起こす病原菌が見出されるよりも前の時代、「悪い空気が病の元凶」という考えが支配的だったからだろう。 19世紀も後半になって、スコットランドの化学者ジョン・ステンハウス John Stenhouseがロンドンの下水から発生する有毒ガスの除去で効果を挙げている木炭に目をつけ、これを用いた新しいマスクを考案したそうだ。彼はジェフリーズと違って特許登録をせず、なるべく価格を抑えるように努め、一般への普及に貢献したらしい。 https://origins.osu.edu/connecting-history/covid-face-masks-N95-respirator https://newseu.cgtn.com/news/2020-05-17/The-Respirator-the-face-mask-used-by-the-Victorians-QuthYXeI8w/index.html http://wwwf.imperial.ac.uk/blog/imperial-medicine/2020/04/27/masks-and-health-from-the-19th-century-to-covid-19/ ということで、外骨紹介の広告に「或は金屬板を以てし或は金線を以てし或は木炭を以てする等各一樣ならず」とあるように、ジェフリーズやステンハウスその他の考案した色々な種類のUK製マスクが明治初めの日本にも入ってきていたことが、このカタログから窺えるというわけだ。 因みに、大幅に増補されて倍以上に分厚くなったこのカタログの明治17年訂正再版でも、マスクのヴァリエーションは図版ともども初版と全く同じで、なぜかいわしや自家製「呼吸器」は載せられていない。
醫療器械圖譜 明治11年(1878年) 明治11年(1878年) 銅版刷り図版研レトロ図版博物館
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婦女子に愛される猫@昭和初期の愛玩動物飼育手引書
ペットといえば、今や我が国で最も飼われている頭数が多いのは永年トップだったイヌを追い落としたネコらしい。一般社団法人ペットフード協会が毎年おこなっている調査によると、イヌがじりじり減りつつあり、ネコは反対に少しづつふえてきていて、3年前についに逆転したそうだ。 https://petfood.or.jp/data/chart2019/3.pdf ということで、前回ウサギについて取り上げた昭和初期のペットの飼い方の本 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/158 の、ネコのところも眺めてみよう。 今や完全室内飼いが推奨されることもあって、キャットハウスとかトイレとかいろいろ関連グッズがあるが、かつてはせいぜい首に鈴をつけるくらいだったから、図版もウサギのときのように小屋だとかは出てこなくて、かわりに1枚目の道具を使った面白写真とか、2枚目の池の中に魚でもいるのか水面を前肢でちょいちょいやっているところとかが載っている。3枚目は章の冒頭部分だが、「猫は犬と共に家庭愛物の雙璧とも云ふべきもの」とあって、当時もイヌと人気を二分していたことがわかる。イタリアのファシスト党が食糧の無駄遣いとして市民に猫を飼うことを禁じた、という話は初めて識った。まったく、しょーもないヤツだムッソリーニ。 つづいて「猫の魅力」として、「元來ネコは鼠捕りと云ふ転職はありますが、それにしても犬などに較べると利用の範圍の極めて狹いものです。それにも拘はらず、かく愛育されるのは、身體が手頃の大さで可愛いらしく、一種の魅力があるからでありませう。そして主として婦女子の愛撫を受け、その方面に絶大の人氣をもつてゐます。」と解説されていることから、女性に好まれる傾向が強かったことがしれる。5枚目はその実例として、和装の若い女の方に抱きかかえられて落ち着いている黒猫が写真に収まっている。4枚目右の方は垂れ耳の長毛種らしき下の犬も、その背の上に乗っかっている仔猫も外国種らしく見える。1枚目の「猫の學校」「猫のカメラマン」ともども、おそらくは日本国内ではなく、海外で撮影された写真を輸入書から引っ張ってきたのではないかしらん。2枚目のは三毛柄らしいから、4枚目左同様日本猫だろう。 「猫の七不思議」として、高いところからたとえ背を下に落としても必ず前肢から平然と着地すること、遠くに棄ててきてもいつの間にか戻ってきて平然と日向ぼっこなどしていること、水に濡れることを非常に嫌うくせに水中の魚を巧みに獲ってしまうこと、天候の変化を敏感に感じとるので昔は船に乗せられていたこと、三毛柄の雄は航海安全のお守りとして珍重されていたこと、暗闇でも視覚が利き、また暗がりで毛並みを逆なでしてみると火花が散ること、仕込めばかなり芸当ができることが挙げられている。このうち船に乗せられた三毛猫については、欧州大戦中の大正7年(1918年)の実話として、「郵船平野丸」にいたものがイギリスの港に碇泊中、隣の「丹波丸」へいつの間にか乗り換えてしまい、翌日出港してから猫がいないことに乗組員が気付いたその日のうちにドイツ海軍の潜航艇からの魚雷を喰らって沈没してしまった、という「面白い話」が紹介されている。なお貨客船平野丸の撃沈から100年を記念して平成30年(2018年)、当時犠牲者を埋葬したウェールズ南部の土地に慰霊碑が建てられたそうだ。 https://www.nyk.com/news/2018/20181005_01.html 5・6枚目は「種類」のところに添えられている図版で、イヌはもちろんウサギにくらべてもだいぶ少ない。当時最も多く飼われていたのはもちろん短毛の在来種「日本猫」だが、「併〈しか〉し最近は大分〈だいぶ〉歐洲種、中にもペルシヤ種が愛養されるやうになりました。」とある。そのほか、被毛の長いものとして5枚目上の「アンゴラ種」、それから「フランス長毛種」「ロシヤ長毛種」、短いものとして「シヤム種」、それから5枚目下の「エジプト種」が紹介してある。 「毛色」のところで、「日本種は白、黑、茶もしくはその斑〈ぶち〉か白黑茶の三毛に限られてゐますが、その模樣に依つて虎斑〈とらふ〉、雉猫〈きじねこ〉などの名稱があります。虎斑は虎の斑のやうなだんだらの斑があるもの、雉猫は一見雉のやうな毛並のものを云ふのです。外國種にはこのほかに赤茶、鼠、靑などの毛色もあつて、ペルシヤ猫は白、黑、金色、靑色、灰󠄁色及びそれ等〈ら〉の斑があげられます。」と説明してあり、つづいて「こゝで一つ不思議なのは、三毛の雄猫で、日本でも昔から三毛の雄は非常に數が尠〈すくな〉いために珍重されますが、歐米でも矢張りこの三毛の雄は殆んど生れず、優生學的にいろいろ硏󠄀究した學者もありますが、まだはつきりした理由は判らないやうです。卽〈すなは〉ち三毛の雄は科學的にも未だ謎の存在で、猫の七不思議が今一つ殖えた譯〈わけ〉です。」とあるのだが、三毛柄は伴性遺伝によるもの、ということがわかったのは結構最近になってかららしい。ネコの性染色体は人間と同じくXXが雌、XYが雄なのだが、遺伝の仕組みを理解させるために長年ネコの毛色について調査研究を重ねてこられた東京学芸大学附属高等学校教諭の浅羽宏氏によれば、メラニン色素(黒)かフェオメラニン色素(茶/オレンジ/黄)かを発現させるO遺伝子はX染色体に乗っているため、Xをひとつしか持たない雄は三毛にはならない(雄が三毛になり得るのは三倍体XXY)、という理屈のようだ。 http://ci.nii.ac.jp/books/openurl/query?url_ver=z39.88-2004&crx_ver=z39.88-2004&rft_id=info%3Ancid%2FAN00158465 ここに添えてある「變〈かは〉つた虎斑猫」は何種かは書いてないのだが、この太い渦巻き柄は「クラシック・タビー」と呼ばれる欧米に多い模様。今や「国産」をうたうネコ餌の容器にまで登場するほど人気の品種アメリカン・ショートヘアーなどはこの手だ。ネコの野生種と家畜種とを比較した図鑑、澤井聖一+近藤雄生『家のネコと野生のネコ』(エクスナレッジ) https://cat-press.com/cat-news/book-ieneko-yaseineko によると、13世紀にイタリアで生じた、という説と、イギリスの雑種の8割がこの柄ということから同国が発祥地なのでは、とする説とがあるそうだ。 なおネコの被毛の色柄表現にかかわる基本的な遺伝子は20種ほどあるそうだが、その仕組みについて浅羽氏のご解説を視覚的によりわかりやすくたのしく理解できるよう工夫した『ねこもよう図鑑』(化学同人) https://netatopi.jp/article/1201046.html がすこぶる面白いので、まだの方は是非ご一読いただきたい。 さて、昭和初期のネコの餌についてだが、もちろん当時は既製品のキャットフードなどはなかった。で、この本には「食物の與〈あた〉へ方」としてどのように書いてあるかというと、「普通朝夕の二囘、お飯の少量に牛乳か魚肉の煮たものを少し添へるか、その汁を交ぜてやれば喜んで食べます。非常にその點〈てん〉は樂で、魚の あら(<傍点つき) とか頭とか鰹節〈かつぶし〉の粉をふりかけて與へても喜んで食べます。味噌汁をかけてもお腹の空いた時は食べますが、一般的には菜食は不向で、その他では猫にも依りますがうどんを好んで食べるもの、鹽〈しほ〉せんべいを嚙んで與へると、これ又喜んで食べるものがあります。」とあって、要するに基本的にはいわゆる「ねこまんま」推しだったようだ。今日では、ネコの身体はナトリウムなどの金属を摂り込んでしまうとなかなかうまく排出できず、それが重なると健康を害することから塩気は極力避けることが推奨されているが、かつてはそういう知識はなかったため全く気にされていなかった。最近の飼い猫は栄養状態がよい上に家の外に出さない個体もふえていることから、前掲の「令和元年 全国犬猫飼育実態調査」によれば平均寿命が15.03歳とのこと、そういえば20年を超えたという個体の話もときどき聞こえてくるようになったが、塩分の摂り過ぎに飼い主が注意するようになったのも長生きにプラスに働いているのではないだろうか。なお、「さうした譯で食物は手近のもので間に合ひますが、食べ過ぎるとよく嘔吐することがあり、こんな場合殊更に靑草など食べて吐き出すものです。」とあるのは、毛玉吐きの習性が誤解されているものとおもわれる。7枚目のイギリスの猫病院はどうみても屋外だが、これは日本にはない形態なのではないだろうか。雨が大量に降ったりせず、そのかわり陽射しが少ない時期の長い土地ゆえかもしれない。 「飼育上の注意」として「最も大切な點は、猫の環境を住心地よくすることです。」とあるのは、今でも大いに首肯けるところ。8枚目の親ネコが仔ネコを運んでいる図は、「猫のお産」「仔猫」のところに添えてある。お産は床下などの薄暗い、外敵におそわれる心配のないところでするもの、と説いたあと、「仔猫を見たい許〈ばか〉りに、無暗〈むやみ〉に覗き込んだり、仔猫をいぢつたりしますと、母猫は不安を感じて、仔猫を啣〈くは〉へて他へ移轉することがあります。」と注意しているが、これも大事な点。トイレのしつけについては、「不淨を一定のところでさせる習慣をつけるため、戸外に出られる通路を作ってその度に外へ出すやうにするか、小箱に砂を盛つて、その中で行はせるやうに仕込みます。仕込み方は犬と同樣、繰返し行へば間もなく習慣となります。」と書かれている。箱に砂を入れてトイレにするのは座敷猫、つまりおそらくは(完全ではないかもしれないが)室内飼いの場合だろう。ブラッシングは日に一度はしてやることを奨めている。
愛翫動物 昭和05年(1930年) 昭和05年(1930年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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ペットとしてのウサギ@昭和初期の愛玩動物飼育手引書
明治の初め、さまざまな西洋の文物とともに舶来種のウサギももたらされ、にわかペットブームが起きたのだが、明治5年(1872年)からそれが本格化し人気の柄のものに高値がついて、投機に入れ込む人が続出し社会が混乱したという。 http://doi.org/10.15083/00031135 あまりのことに明治10年(1877年)対策として高額の課税がなされてブームはしぼんだが、ウサギの毛織物製造の産業課をこころみる動きがそのころからはじまり、明治30年代にかけていくつか会社も立ち上げられたものの、政府がバックアップをしなかったこともあって輸入製品に太刀打ちできず失敗におわったそうだ。大正も末になって、アンゴラウサギを蕃殖してその毛で商売しようという人も現われたが、昭和3年(1928年)あたりから養兎業者が増えてきて、さまざまな種類が飼われるようになったという。 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10076939&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 その一方で、利殖のためでなく純粋に生活にうるおいをあたえるためのペット飼育が、庭つきマイホームを手に入れた人々の間で流行るようになってきた。今回取り上げるのはそうした時期に出された、一般向けの総合飼育解説書のウサギのところ。 当時はペットショップなどはないから、ウサギを飼うための巣箱は自作する必要があった。1枚目の上のはビールびんの空きケース(2ダース入り木箱)を加工したもので、放し飼いができるような広い庭がない家庭用のもの、2枚目のはもっと広い敷地に拵える、庭木を取り込んで金網で囲った「兎のお家」。図には描かれていないが、金網の外から飼い犬が土を掘って中に入り込んだり、穴掘りの得意なウサギ自身が脱走したりしないよう、「尠〈すくな〉くも地下一尺位〈くらい〉は金網に限りませんが、兎の逃亡の邪魔になる亞鉛板か貫板〈ぬきいた〉を埋込んで置く必要があります。」と本文には注意書きがある。なお1枚目の下はウサギの持ち方を示している。なお今日では「耳はつかまない方がよい」という考え方に変わっているようだ。 3〜7枚目はウサギの種類についての解説に添えてある輸入種の例の図。「ベルヂアン種」はベルギー原産で野ウサギに似ていて、赤茶色の毛で耳や脚が長い。「フレミツシユ種」は「ベルヂアン」とフランス産の大型種「バタコニアン種」とをかけ合わせた中欧産の、当時最大種のウサギで灰色のが多い。「イングリツシユ種」は脊骨に添った1本の縞と、それから胴のわきと眼のまわり、鼻先、耳に黒斑がある特徴的な見た目。「白色メリケン種」は我が国在来種の白ウサギと外来種(どれなのかは書いてない)とを交配させて作った大きな白ウサギ。「ヒマラヤン種」は「露西亞種」とも呼ばれ支那北部産で、鼻・耳・脚・しっぽが黒くそのほかの部分は真っ白、というもの。「ダツチ種」はオランダ産で黒・灰・黄・白とその斑、と柄はいろいろ、写真のようにびしっと塗り分けになっているのが特徴。「ロツプイヤー種」は「耳が素適(<ママ)に大きい英國兎」で毛色は「ダツチ」に似ているが、虚弱なのが欠点。「チンチラ種」は昭和に入ってからひろまった、毛の特に柔らかい種。「シルバー種」はその名のとおり銀色の毛をもつ英国産の割と大きな品種。終いのもこもこしたヤツが「小亞細亞のアンゴラ地方の原産で、佛蘭西〈ふらんす〉で盛んに飼育され」ていたという「アンゴラ種」。白・黒・茶とそれぞれの斑があり、ご覧のとおり非常に毛が長いのが盗聴だが比較的弱いのが玉に瑕、というように解説している。このほかにフランス産のダッチ種の突然変異「ジヤパニーズ種」、イギリスでダッチ種に在来種を交配して作った斑の色が濃い「タン種」、オランダ原産で光の当たり具合により毛色が変わってみえるという「ハバナ種」、ベルギー産で白いのと青いのとがあるという「ベヘリン種」、イギリスでダッチ・アンゴラ・ローブ種などをかけ合わせて作出した緑色の毛の「インペリヤル種」も、図はないが紹介されてある。 さて、8枚目に掲げたのはこの章の最初の部分なのだが、これをお読みになるとおわかりのように、当時家庭でウサギを飼う目的は現在のように単に日常生活のともとしてかわいがるだけでなく、食肉目的もあった。輸出元の西欧諸国ではもちろん食べていたわけだし、我が国でも、鳥肉の一種という方便で昔から食べられていたから数えるときに「1羽2羽」という、とする説があるように、元から馴染みのある人々もある食材だったから、それは自然な流れといえるだろう。しかし、ここに「食肉の矛盾」として書かれているように、飼っているウサギを絞めて食卓にのせる、ということに抵抗を感じる人々が昭和のはじめには既にかなりの数あったことが知れる。
愛翫動物 昭和05年(1930年) 昭和05年(1930年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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マシン・エイジの巨大蒸気機関@昭和初期の科学図鑑
18世紀に大量生産方式と工場生産制とを導入した合衆国の工業は急速に発展していき、明治23年(1890年)にその生産高が農業を追い抜き、大正2年(1913年)には世界の3分の1のシェアを占めるまでになったそうだ https://americancenterjapan.com/aboutusa/profile/1936/ が、さまざまな場面に機械が採り入れられるとともに、そのイメージは明るい未来を招来するものとしてもてはやされ、やがて美術や建築デザインなどの分野にも強い影響をあたえて精密派、国際様式 https://kenchikuchishiki.jimdofree.com/2017/08/18/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB-%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%81%A8%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0%E5%BB%BA%E7%AF%89%E3%81%AE%E4%B8%89%E5%A4%A7%E5%B7%A8%E5%8C%A0/ などを生み出すことになった。そうした時代は「機械時代——マシン・エイジ——」と呼ばれた https://jp.techcrunch.com/2018/05/30/2018-05-27-review-cult-of-the-machine-at-the-de-young/ が、そうした流れのなかで大量の電力供給をもとめられる発電所などでは、その動力源となる機械が巨大化していった。今回は1920年代の巨大蒸気機関のようすを、昭和初期に刊行された科学図鑑にみてみることにしよう。 1枚目はキャプションにあるように当時最新式の機関室でパブコック式水管汽缶(かま)42基が整然とならんでいる。2枚目がその汽缶のひとつを部分断面図で示したもの。石炭をかたまりのまま燃焼室へほうりこむのではなく、まず右手にある乾燥室で水分をできるだけ飛ばしてから歯車で微粉炭にして送風機で汽缶内に送り、燃焼効率を高めている。3枚目はさらに改良を加えた機械で、上は循環するうちに冷めた蒸気を余熱を利用して温度を上げてから汽缶に送り込むようにしたもの、下は微粉炭燃燒による高温が耐火煉瓦を融かしかねないので、その余熱を水管加熱にまわして蒸汽にするための補助とし、エネルギーの有効活用を図ったものだそうだ。 4枚目は当時世界最大の「メトロポリタン・ヴヰカース」蒸気タービン組立工場のようす。「ラトー式衝動タービン」という型式で、手前にあるのが完成品とのこと。5枚目の発電所はキャプションに「マンチエスターのバートン發電所」とあるが、ここのことはよくわからない。イギリス第3の都市マンチェスターの古い発電所について地元の方が紹介されている動画があったが、これには出てこなかった。 https://www.youtube.com/watch?v=zDQEW4PE_1s もしかするとアメリカのニューハンプシャー州にある同名の街のことかもしれないが、こちらの発電所事情もやはりよくわからなかった。 6・7枚目のタービンは国産品で、キャプションにあるように三菱神戸造船所で組み立て中のものと、発電室に据え付けられたもの。本文には「内地製としては三菱製のものが多い。」とある。この「ユングストロム・タービン」は基礎もふくめ小型軽量ながら発電量がほかの型式に退けをとらないのだそうだ。8枚目は「ニューヨーク・エディソン會社のヘルゲート發電所」に設置された当時世界最大の蒸汽タービンで、上が高圧部を組み立てているところ、下が組み上がったものを運転試験台に載せたところだ。余談だが、この発電所は昭和11年(1936年)に停電騒ぎを起こしているそうだ。 https://books.google.co.jp/books?id=nuzQDwAAQBAJ&pg=PA61
最新科學圖鑑6 機械時代 上 昭和05年(1930年) 昭和05年(1930年) グラビア刷り+網版刷り図版研レトロ図版博物館
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欧州大戦期の業務用リトグラフ印刷器械@大正初期の化学工業解説書
大正3年(1914年)に勃発した欧州大戦によってヨーロッパからの物資供給が滞るようになり、当時尖端技術を使った化学工業製品の多くを輸入に頼っていた我が国は、戦火からは地理的にはるか遠くにあったにもかかわらず非常に困ったことになった。国内工業は盛んになりつつあったとはいえ、まだまだ技術的にはおくれていて、もちろん熟練工も十分に育ってはおらず、その教育を施そうにもぴったりくる日本語の参考書がなかった。今回はそうした状況で企画された実務家向けの解説書の中から、石版印刷、すなわちリトグラフによる平板印刷に当時用いていた印刷機や色々な道具類の図版を拾ってみよう。 リトグラフは、今日ではアルミニウムなどの金属板を使うことが多く、また石版を使うにしてもその産地はあちらこちらにあるようだが、かつてはドイツ特産の石灰石でしか刷れない印刷法だった(なお当時も、金属版としてアルミニウム版と亜鉛版はおこなわれており、この本にも石版に引き続いてそれぞれ解説されている)。当時すでに石版印刷による美麗な印刷物が国内でも作られて人気を博するようになっていたが、それに用いる印刷機にしても、それから製版に使う描画用品なども輸入品が多かったため、戦争で物流が停まってしまって鉄鋼材料の価格がいきなり上がり、それにつられて器械類の値段もはね上がったらしい。例えば1枚目の手刷印刷機は当時「第三號機」と呼ばれる、四六判四つ切りを刷る最も普通に印刷工場で使われていたものだそうだが、この本によれば戦前は25〜26圓だったものがこの当時には45〜46圓に、となんと1.8倍にも高騰していたことが解説されている。大正4年(1915年)の大卒初任給が35圓ほどだったという http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J077.htm から、その程度がしれよう。なお手動印刷機の「第二號機」は菊判半截、「第一號機」は菊全判が刷れるものだったが、これらはたいてい製版のために使われ、印刷は専ら「第三號機」でおこなわれていたという。 2枚目の大型機は「動力使用印刷機」で、当時のドイツ製最新鋭機。四六判四截、四六判二截、四六全判、菊判半截などのヴァリエーションがあり、電動機のほか石油エンジンや石油ガスエンジンを動力源としていた。印刷能力は職工が手刷りで1日10時間に600枚刷るところを、これらの動力機を使えばその10倍は確実に刷れたそうだ。ただし初期投資額はもちろん比較にならないほどで、導入できる工場は限られていたようだ。 3枚目の卓上機は印刷工場では使われない小型機で、石版印刷を発明したプラハ生まれのドイツ人劇作家兼俳優のヨーハン・アロイス・ゼーネフェルダーのが自ら使う台本を刷った http://www.joshibi.net/hanga/history/1700.html ように、自費出版や商店の広告宣伝などに使われたのだろうし、もちろん美術家の版画作品も生まれたことだろう。その下の 「ルーラ」は「印肉」、つまりインクを版面につけ伸ばすのに使う、今でいう「革ローラー」で、木製の円柱のまわりに舶来の「紋羽(起毛加工を施した綿布の一種。フランネルに似ているそうだ)」かフランネルを重ならないように巻きつけ、その上に上等の牛革をかぶせて縁と縁とを毛抜き合わせで縫い付けて覆ってある。「墨ルーラ」と「色ルーラ」の2種類があって、前者は革の裏側の粗い面、後者は反対に毛の生えていた表側の滑らかな面を外側にしてある。これは買ってきてすぐに印刷に使えるものではなく、ワニスを塗ってはインクの上で日に1、2度ころころやるのを5、6日も繰り返したあとに余分のワニスを拭き取って日に2、3回インクを塗ってはころころやるのを2、3日やってからインクをへらでこそげ落としてからまた同じことをやるとおよそ2週間後には表面がつるつるになる、という「ルーラ平〈なら〉し」をやらないといけなかったそうだ。ただしこれは「墨ルーラ」のならし方で、「色ルーラ」の場合はワニスの後のインクを拭き取らずに揮発油で洗い落としてから布で十分に拭きこすってから10日ばかりおいておくと、元々滑らかな表面がさらにつやつやになってようやく使えるようになるのだそうだ。なお「色ルーラ」は表面のインクが乾いて固まってしまうと次に刷るときに綺麗に仕上がらなくなるので、使いおわるたびに揮発油か石油で洗って布で拭き取る作業が欠かせなかったらしい(「墨ルーラ」は前日のインクをこそげ取りさえればすぐ使えるそうだ)。いずれにしても手間暇がかかる話だ。当時はまだゴムローラーはなかったらしい。ここでご参考までに、武蔵野美術大学「造形ファイル」サイトに公開されている現代のリトグラフ用具をご覧いただいておこう。 http://zokeifile.musabi.ac.jp/%e3%83%aa%e3%83%88%e3%82%b0%e3%83%a9%e3%83%95%e7%94%a8%e5%85%b7/ ↑の下の方の「関連項目」のところに、個別解説のある道具もある。 4〜6枚目は石版の製版に用いる道具いろいろ。6枚目左側にある「第十七圖」はキャプションに「クライオン挼」とあるのだが、本文には「クライオン挾〈はさみ〉」とあって、「挼〈おさえ〉」というのは出てこない。こんな滅多に使わないような活字をわざわざ間違って拾うだろうか? という疑問は涌くのだが、8枚目の図版キャプションも「研磨機」が「研麿機」とあからさまに誤植をやらかしているので、多分ここも間違いなのだろうと想像している。この「クライオン」というのはリトグラフで砂目立てした石版面に絵を描くときに使う、脂肪分の多い特殊なクレヨン。今では「リトクレヨン」と呼んだりするらしい。 http://zokeifile.musabi.ac.jp/%E3%83%AA%E3%83%88%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A8%E3%83%B3/ 今日の市販品はメーカーによって硬さの呼び方がばらばららしいが、当時は硬質な方から順に「號外」「一號」「二號」「三號」 の4種類だったそうだ。なおこの本には「クライオン」の作り方も載っていて、シェラックの多い「シエラツク、クライオン」、羊脂を使いシェラックを含まない「エンゲルマ氏クライオン」、シェラックが少なく鯨油から作った蝋と白蝋(晒し蜜蝋)を使う「デレー氏クライオン」の3法が紹介されている。石版用の石材は先にも書いたように、現在も最上とされるドイツ・ゾーレンホーフェン産のものに当時は限られるとされていて、濃鼠色、淡鼠色、黄色の3種があった。鼠色の方は緻密で細密画に適し、黄色のものはそれよりも硬度が低く表面がやや粗いため直描きや細密でない転写などに用いたそうだ。大きさは用途別に作られていて、「美濃版石」とも呼んだ原版用の「原版石」、印刷用として最もよく使われる四六判四截大の「柾版石」、その名のとおり菊判半截を印刷する「菊半石」、菊全判を印刷する「菊全判石(この本には「菊金判石」とあるがこれも誤植だろう)」、同じく「四六半截石」「四六全判大石」の6種類が主に市販されていたという。 7枚目の「鑄鐵製研磨具」は円い穴の中に金剛砂 http://zokeifile.musabi.ac.jp/%E9%87%91%E5%89%9B%E7%A0%82/ を入れて石版石面を研磨するのに使う。この道具が砂目立てには最適、と書いてある。8枚目の「研磨機」は大規模工場で使う業務用で、当時この図版にある器械が最も一般的だったそうだ。
實驗化學工業 第三卷 大正06年(1917年) 大正06年(1917年) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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化学実験用のガラス器具@明治初期の定量分析解説書
古い化学実験器具の図を見たい、とおもって探してみても、ヨーロッパやアメリカの出版物のものは復刻されたりそういう図をあつめたイラスト集が出ていたりするし、インターネット上でもPDFや素材データその他として公開されているものもあったりするから比較的アクセスしやすいけれども、じゃあ昔の日本で使っていたヤツは、というとこれが割とむずかしい。もちろんインターネット公開されている資料のなかにも出てくるものは実はかなりあるのだが、そもそもどういうタイトルの本がそれなのか識らなければなかなか見つけられないだろうし、少なくとも国内出版物でそういう図版をまとめた本、というのはおよそ目にしたことがない。まぁ商業出版として成り立つだけの需要が見込めないからなのかもしれないが、もしかすると出版側がそう思い込んでいるだけなのでは、という気がしなくもない。 さて、今回は明治ひと桁の時代に出された和本仕立ての翻訳書に載っている、ガラス製の実験器械をいくつか眺めてみることにしよう。巻頭序文によれば、この本は19世紀ドイツの著名な化学者カール・レミギウス・フレゼニウスが著した教科書のひとつ "Anleitung Zur Quantitativen Chemischen Analyse(定量化學分析法)" https://books.google.co.jp/books?id=i30MAQAAIAAJ をベースに、アメリカで刊行されたこの本の英語訳版やイギリスの鉱物分析についての本などを参考にまとめた金属鉱物の定量分析入門書で、これの中に実験に使われる化学器械類がいくつか紹介されている。フレゼニウスの化学分析の本を初めて日本に紹介したのは明治5年(1872年)に大阪舎密局の三浦尚之(嘯輔) https://karin21.flib.u-fukui.ac.jp/repo/AN10517316_Vol.21_51-78__cover._?key=YCDTJS が邦訳したものがそれらしいが、大阪開成所で学んだ後衛生技師となった飯沼長藏 https://www.jstage.jst.go.jp/article/rcmcjs/12/0/12_0_29/_pdf の手になるこの本もほぼ同じ時代のもの。19世紀半ばごろに使われはじめたものも含め、1870年代に西洋の道具と実験方法とが、そのころ我が国ではじまったばかりの化学教育現場へも持ち込まれたようだ。なにしろ入ってきたばかりだから、おそらくここに書かれている日本語での呼び名も、訳者がその場で考えてつけたのだろうとおもう。なお掲げた画像のうち、原典で名称と図版とが離れているものについては、その名称部分を切り貼りしてある(まわりに赤っぽい影がついているのでおわかりいただけるかと)。 1枚目の「驗容壜」は全量フラスコ(メスフラスコ)。図版研が架蔵する理化学器械の総合カタログでは最も古い明治末期の田中合名會社『理化學機械藥品目録』五版(明治44年(1911年)刊、以降「目録」と略す)を引きくらべてみると、「計量フラスコ」「容量フラスコ」、別称としてカッコ書きで「細頸劃度壜」などという名前に変わっている。「劃度〈かくど〉」というのは要するに「目盛りつき」ということ。2枚目の「劃度圓壔」はメスシリンダ。目録では「無栓劃度圓筒」として載っている(19世紀には「円筒」を「圓壔〈ゑんたう〉」と書いていたようだ)。3枚目「吸液管」はふりがなでおわかりのとおりピペット。目録では「容量ピペット」 になっている。4枚目「漏液管及ヒ其架」はこれもかながふってあるとおりビュレットとその架台で、目録では「ビウレツト(モール氏)」「ビユレツト保持架臺」とある(ただし、同じカタログ内で「ビウレツト」「ビユレツト」「ビユーレツト」「ビーレツト」などと表記にブレがある……明治らしいといえば明治らしいww)。「モール氏」はこのようにビュレットの下部に流量調節のできる仕組みをくっつけた、フレゼニウスと同国・同時代の化学者カール・フリードリヒ・モールを指す。それから図版の右側の解説にある「樹膠管」は前ページに「ゴム」とルビが振ってある。「短小ナル尖端玻管」は先っぽに取りつけた短いガラス管、「鉸鑷子〈かうせつし〉」はピンチコックのこと(目録では「護謨管挾」)。なおこの架台は木製だが、目録の方では金属製になっていて、台の部分は磁器、腕は黄銅製だったようだ。 5枚目「嘘吹漏液管」は「「ガイ、リュツサク」氏の創製スルモノナルヲ以テ「ガイ、リュツサク」漏液管トモ云フ」と解説されているが、これは現在では使われていない……実験でどう使うのか、本篇のどこかにきっと書いてあるよね、とおもってこの本のアタマからシッポまで斜め読みしてみたのだが、出てこない……この書物、標題に「前編」とついているとおり「後編」卷之上中下+附録も当初は企画されたことが前編卷之上巻頭の目録(=目次)や、ここに掲げた「器械圖解」卷奥附に「後編近刻」とあることからわかるのだが、実は(理由はよくわからないが)結局前編3冊で終わってしまったらしい。おそらく本来は、後編に出てくる予定だったのだろう。で、この変わったビュレットについてちょっと検索してみると、海外サイトに載っている18世紀フランスの化学者ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック略伝に、彼が1824年に側管のついた改良型ビュレットを考案した、という記事があって、その図のものと構造が似ている。 https://www.bookofdaystales.com/gay-lussac/ そこで原書の英語訳版が公開されていたのでこれが載っているところをみてみると、ここに詳しい説明が書いてあった。 https://books.google.co.jp/books?id=Cf44AAAAMAAJ&pg=PA36 ゲイ=リュサック式は本体と側管との繋ぎ目のところで泡が邪魔しがちなので、モールが改良型を考案した、ということのようだ。因みにその次のページに、この側管を内部に取り込んだ形の「ガイスラー氏ビュレット」というのがあるが、こちらは今でも生き残っているらしい。なお目録をみてみたら、「ビユレツト(ゲールサック氏)」「ビウレツト(ガイスレル氏)」としてどちらも載っていた(ただし後者は図なし)。さておき、原書では脚がついていなくて木製架台で支えるようだが、この「器械圖解」卷では円錐台形のしっかりとした脚部がある。目録にある図版でもやはり同じような脚つきなので、そういう製品が当初から輸入されていたものとおもわれる。 6枚目「迸水壜」は洗浄びんのこと。目録では「洗滌〈せんでき〉壜」になっていた。現在のものは胴がやわらかいプラスティック製で押せば水が出るが、かつてはガラス容器だからもう1本空気抜きの管が生えていたわけだ。7枚目「嘴杯」はビーカー。本篇ではカギカッコつきで「ビーケル」と書いてあって、漢字は使っていない。ところでどうしてこのように大きさ順にたくさん重ねてあるかというと、かつてはこのようなセット売りが主流だったからだ。目録でも5個、7個、8個、12個が載っている。もっと時代が下って昭和あたりからは3個組とかも出てくるが、バラ売りしかしなくなったのはようやく大東亜戦の最中から(多分戦時物資統制の影響だろう)、というのがカタログをいくつもみているとわかってくる。海外の19世紀半ばごろのカタログをみると、組売りしか載っていない。 https://books.google.co.jp/books?id=vf8qAAAAYAAJ&pg=PA10 https://books.google.co.jp/books?id=1r0LAAAAYAAJ&pg=PA6 どうしてそうだったかというと、そうしないと輸送中に割れてしまうからだったらしい。当時易損品は緩衝材が薦〈こも〉(日本酒の薦樽を覆っているあれ、というのでおわかりいただけるかしらん)とか藁〈わら〉とかで、輸出の場合はそれでくるんで縄でくくったのを木箱に入れて運んでいたから、薄〜いガラスでできたビーカーをそのままひとつひとつ並べて箱詰めして、というのはできない相談だったのだ。20世紀のカタログには1個あたりの単価が出てくるようになるが、あんまり使わない大きさのヤツも毎回買わないとならないのはもちろん不合理だし、それに梱包材や輸送中の振動防止などの技術が向上し、また国内生産もひろくおこなわれるようになっていたこともあって当初の問題は解消していたのだろう。それから、「ビーカー」という語は「ビーク(くちばし)」からきているから「嘴杯」と宛てたのだろうが、かつては鳥のくちばしみたいな注ぎ口がついていないものも少なからずあった、というのもカタログの図版でわかる。8枚目「時儀甲盞」は時計皿。「時儀」は時計の古いいい方、「盞」は小さいさかづきのこと。かつては携帯用時計として一般的だった懐中時計の風防ガラスと成型の仕方が同じだったからウォッチグラスと呼ばれるのだそうだ。なお目録ではすでに時計皿になっていた。 それにしてもどれもこれも、ずいぶんとまた硬い字面を宛てたモンだなぁ、とおもってしまうが、漢文が知識人の当然身につけているべき教養のひとつだった時代ゆえ、なのかもしれない。 追記:ビーカーについて、我が国でも戦前まではばら売りしなかった、と書いていたのは間違いと気づいたので書き直し、セット売りしか載っていない実例として海外のカタログへのリンクをふたつ追加した。
定量試礦撰要前編 器械圖解 明治09年(1876年) 明治09年(1876年) 木版刷り図版研レトロ図版博物館
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ねこの観察・うさぎの観察@明治末期の子ども向け理科観察手引書
20世紀が明けて、学校教育を受けた世代が成人して子どもを持つようになると、理科趣味を誘う大人向けの通俗科学書とともに、学校や家庭での理科教育の手助けを企図した子ども向けの理科の本も出版されるようになった。今回取り上げるのは、そうした出版物の中では早い時期のものとおもわれる小冊子から、身近な哺乳類としての「ねこ」と「うさぎ」の観察のところ。 ちなみに著者の野田瀧三郎は東京高等師範學校文學科の出身だそう https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/12271/1/kyouyoronshu_437_%281%29.pdf で、この本の序文にも「自分はこれまでの學修は文科ぢや。」と書いている。「中の記載は箇條がきで、ほんの骨だけ、それに肉をつけるのが、教師たち、親たち、兄たち、先達たちのつとめぢや。」とあるところから、おそらく尋常小學くらいの子が教師や親きょうだいなどとともにみることが想定されていることがわかる。大きな文字組みが子ども向け、各章の終いの小さな文字組みは指導にあたる年長者向けということになろう。 1枚目と5枚目の図版は、どちらも基本的には当時のたいていの動物教科書に載っているものと同じだが、それらよりもやや図案化されている、というか略画っぽく描かれている。精確性よりも、まずは小さな子どもに対象への興味を持ってもらうことを優先したからかもしれない。文章も教科書よりはかなりくだけていて、誘いかけるような語調だし、終いの方にはテーマの動物の名が入った慣用句や童謡、俳句など、より文学に寄ったおまけもついている。序文で著者が「我が國民は妙に文學的のことを好み、理科的のことをきらふ。のみならず、文學を上品とし、理科を下品なこととしてゐる。好惡はしかたがないとしても、上品、下品のしなさだめはちと酷ではあるまいか。」と歎じているが、下品とまではいわなくとも文学にくらべて科学は取っ付きがわるい、と毛嫌いする向きが少なくなかったようで(もしかするとその辺、今の世もあんまり変わらないんじゃないの、とゆー気もするけれど……)、明治大正期の一般向け科学書には、文系の著者ばかりでなく理学士の手になるものでも、こうした要素がところどころに挟み込んであることが少なくない。 最初にまずどこにでもいそうなネコを持ってきて、その後に出てくるウサギについてはネコとの比較をうながしているところがおもしろい。問題集と違って、「比べてごらん」と問うてもその模範解答が安直に書いてあったりはせず、あくまで自らよくみて体感した上で考えさせようという姿勢に好感がもてる。ふりがなが単なるよみではなく、その意味をかみくだいた傍訓になっているのは、いかにも明治期らしい。 2枚目のネコの毛について、「二色〈ふたいろ〉ある」というのは、その後の解説でおわかりのように毛色の話ではなくて、上毛(刺毛)と下毛(綿毛)との二種類がある、という意味。イヌよりもネコの方があったかい、というのは実際に彼らに触れてみなければわからないことだ。3枚目初っぱなの「四、蹠」はあしのうら。「やわらかい肉嚢〈にくぶくろ〉」というのはお察しがつかれるかとおもうが肉球のことをいっている。「肉球」という語はいつから使われはじめたのか、ちゃんと調べていないのでわからないが、そんなに古いことではなく、早くとも戦後からではないかと想像している。それよりも前はどうも統一用語がなかったらしく、文献によりさまざまな呼び方が出てくるが、「肉嚢」という例は今のところこの本だけ。「七、齒」のところに「猫は猛獸であることがわかります」とあるのが興味を惹かれるが、4枚目右側の大人向け解説のところにより詳しくその論拠が書いてある。「習慣」や「摘要」のところの表現が「ニャーオ。ニャニャ。」「舌——ざらざら。」とオノマトペを使ってみたり「おめかしをする。」などと、教科書ではちょっと出てこないようなやわらかさでたのしい。「四、じゃれ、ほとたへる。」の「ほとたへる」という語ははじめてみるので、「これってもしかしたら、ごろごろうにゃうにゃする、って意味かな〜」などとおもいつつ『言海』『ことはのいつみ』『辭林』『和漢雅俗いろは辭典』『俗語辭海』など手近に積んである明治末期〜大正前期くらいの辞書をいくつかひっぱってみたのだが、意外や意外どれにも出てこない……ありゃ。しばらく悩んだ揚げ句、ひょっとして「じゃれる」の上方語「ほたえる」 https://www.weblio.jp/content/%E3%81%BB%E3%81%9F%E3%81%88%E3%82%8B のおつもりなのかも、とおもい至った。文語だと「ほたゆ」なので下二段活用で「ほたへる」にはならないのだが、元々日本語ってヤツは正書法がなく、かなづかいがどうこう小うるさくなったのは右傾化がすすんで国粋主義が幅を利かすようになってからで、少なくとも明治期まではその辺かな〜りゆるかった(例えば「さうではない」の口語「さうぢやねえ」が江戸期の草紙などでよく「ねへ」と書いてある)ようだから、あり得ることではある。 おまけのところ、はじめの3つは慣用句だろうが、「猫のこし。」というのはちょっとわからない。「猫の腰」ならば腰抜けを揶揄する「河豚喰った〜」なのかもしれないし、「猫残し」ならば小さい子どもが食事のときにきれいに食べないことをいう「猫の食残し」がおもい当たるが、さてどうなんだろう(子ども向けの本だから後者にちがいない、とおもっておきたい)。次の「くるくるまはつてニャニャの目。」というのは、水谷まさるの歌詞に中山晉平が曲をつけた「上がり目下がり目」 http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/doyo/agarime-sagarime.htm をすぐ連想させるが、実はこの歌詞が収録された昭和4年(1929年)刊の水谷の『歌時計 童謠集』 https://www.aozora.gr.jp/cards/001074/files/42285_23907.html には「――むかしの遊戲唄につけ足して/今の子供たちにおくる――」と添えてあるそうで、あるいはこれがその原型なのかもしれない。その次の俳句は18世紀に活躍した俳人橫井也有時般〈ときつら〉 http://urawa0328.babymilk.jp/haijin/yayuu.html の俳文集『鶉衣』に収められている「猫自畫賛〈ねこのじがさん〉」 http://shinshu-haiku-pr.namaste.jp/yayu/y_uz14.html にある句のようだ。なお「二十日草」というのは、大正期に新古畫粹社から出された齋藤隆三『畫題辭典』に「牡丹の異名なり。」とある。元は白樂天の詩からきている由。 http://www.arc.ritsumei.ac.jp/opengadaiwiki/index.php/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E6%97%A5%E8%8D%89 さて次はウサギの方を眺めてみよう。6枚目の「三、脚」の「注意事項」のところ、「兩足不揃のために甘〈うま〉く、え、あるかぬ。」というのは左右の脚が、という話ではなくて、その上に書かれている「前足は短く、後足は長くて……」バランスがよくないから(例えばネコのようには)うまく歩けない、ということだろう。「え、あるかぬ。」は古語の否定形「得歩かぬ」(どーしてわざわざそういう表現にしたのかはわからないが……文学の「上品」ぶりのあらわれだろうか?)。次に「四、足」があって、これは前項の「脚」が肩・腰より先全体を指しているのに対してくるぶしよりも下の部分を別途取り上げているわけだが、先に言及した「前足」「後足」は前脚・後脚を指しているのは明らかで、やはり類義漢字の使い分けは結構気ままといえる。「注意事項」に書いてあるように土の上で暮らすウサギの爪はネコの爪と違って磨り減っているが、それは「猫のやうに保護されてゐないから」 だけではなく、そもそもの生え方が違うからでもある。ネコは頻繁に爪磨ぎを自らおこなって、その際磨り減った爪はカートリッジのように剥けおちてその下から鋭いのがあらわれるが、ウサギの場合は磨り減ってくれないとどんどんそのまま伸びていってしまう。だから室内飼いのペットなどは、ネコと違って飼い主がしょっちゅう爪切りしてやらねばならないらしい。 7枚目、「六、目」のところの「耳の附きどころがこんなですから、……」というのは「目の附きどころが」の誤植ではないかとおもわれる。「習慣」の「一」にある「夕暮に野原へ出て何かくひよるのを……」は、「何か食べているのを」という意味だろう。「効用」の「一」の「衣類の料」はもちろん原材料の意。8枚目の大人向け解説にも「皮は多少價〈あたい〉を有する。」と補足してある。この「効用」、つまり人間にとってどう役立つか、というのは19世紀の博物教科書などには必ずといっていいほど書いてあって、ネコの場合は鼠をとる、皮を三味線の胴に張る、などと当然のように解説されていたものがこの本ではみられないのは、もしかしたら時代のうつり替わりにしたがって、ネコに対する人々(特に子ども目線を意識する人たち)の意識が少し変わってきている(が、一方ウサギはまだペット飼育の対象としてとらえる人があんまりいない)ことを示しているのかもしれない。
幼年讀本 觀察實驗理科小訓 明治35年(1902年) 明治35年(1902年) 木版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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ライカ解剖図@昭和初期の写真術解説書
写真撮影といえば今やスマートフォン全盛、コンパクトデジカメなどすっかり市場を奪われて風前の灯状態らしいが、その一方でかつてデジタルカメラに追いやられて似たような立ち位置に追い込まれたかにみえたフィルムカメラは、今なお熱烈な愛好家が少なからずおられるばかりか、若い世代にまでファン層がひろがっているようだ。 そうした背景あって、今も高い人気を誇る戦前のカメラのうちにドイツ・ライツ社製のライカがある。図版研はカメラマニアがいるわけではないのでくわしいことは専門の方々におまかせするとして、昭和初期にすてきな装幀の本をたくさん出している出版社・アルスの写真大講座シリーズの本に載っている、ライカの内部構造を示した図版を今回は眺めてみることにしよう。精密機械萌えの方にはたまらん感じだとおもうし、インターネットでちょっと検索してみてもこういう図は意外と引っかかってこないようだから、こういうカメラにご興味がおありの向きにもちょっと面白いかな、ということで。 この本によれば、「十數年前、イーストマンより 3A判と 1A判のロール・フィルムにこの型式を應用したのが、距離計とレンズとを連結させた始祖ではないでせうか。」ということだが、おそらく大正の半ばごろに出たこのカメラは距離計の精度が低い上に、「(おそらく焦点合わせの)見方」が難しく扱いづらかったのだそうだ。1930年代に入って、いずれもドイツのメーカー・ライツとツァイス=イコンがほぼ同時期に製品化したライカとコンタックスで、こちらははるかに使いやすく市場に大歓迎され、ホクトレンデル(フォークトレンダー)社もプロミネントで参戦して、ようやくその仕組みが普及するようになったという。 この本の中ではライカが如何にすぐれているか、その特徴を12箇条にわたって挙げたあと、「今日の寫眞術はこの型式に屬する寫眞器を度外して話をすることが出來ないし,技術問題を述べることも出來ない立場にあります。隨つて,此の型式の寫眞器が在來のものに比べ,如何に完全,如何に精巧,如何に精密に作られてあるかを知つてゐることは,この型式の寫眞器を有〈も〉つてゐる人には無論必要であるし,有つてゐない人にも亦〈また〉必要ですから,更に詳しく述べたいのですが,紙面の都合があるので」ということで、ライカの代表機種として「III型」と呼ばれるものの解剖図を代わりに載せている。1枚目の機体+レンズの写真のうち一番上が初めて距離計連動機構を載せた「II型」、一番下(2枚目がその拡大したもの)はそれに加えて「1/20秒以下の遲速度シヤツター」、つまりスロー・シャッターを採用した上位機種の「III型」、真ん中は両機種に取り付けられる「廣角・大口徑・長焦點距離」などの交換レンズヴァリエーション。 3枚目以降が「斷面圖」、つまり筐体やパーツをまっぷたつにした内部構造図で、4枚目に拡大したのが機体を上下の真ん中で水平に切って上からみたところ、5枚目が同じく前後の真ん中で垂直に切って後ろからみたところ、6枚目が左側からみたところで「遲速度シヤツター目盛輪」のところだけ縦に切ってみせている。丸つき数字で示した各部名称もここにまとめられている。8枚目に拡大したのが「焦點距離7.3cm. f:1.9 ヘクトール・レンズの斷面と距離計への連絡裝置」と、その下が機体上部の距離計を水平に切って上からみたところ。7枚目に以上の図版の説明原文が載っている表裏2ページ分を並べてみたが、小さくてちょっとご覧になりづらいかも。なおその右側にある図版はコンタックス本体と交換レンズヴァリエーション。双方の機械について、「人間のやれる處には自づと限りがあるためか,ライカとコンタックスとの同格品を比較すれば,その能力は殆ど同等。差異は,極めて難かしい細かい問題。簡單に片附けられません。/普通一般の用途に對しては,/ライカで出來ることなら,コンタックスでも出來ます。/CONTAXで出來ることなら,ライカでも出來ます。/ライカならではとかコンタックスなるが故に,……などといふ言葉をウカツに使ふことが出來ないほど,兩者は,極めて接近したものであります。」と評してある。
ルス最新寫眞大講座 第3卷 撮影の實際 昭和10年(1935年) 昭和10年(1935年) 網版+銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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大東京の橋@昭和初期の東京風景写真帖
今日は都知事選の投開票日……何ひとつ期待はしていないけれど、一応投票だけはした。ま、それはさておいて。 昭和7年(1932年)、大正12年(1923年)の震災の後にそれまで農村だった東京十五區の外側の郡部へ住宅地がひろがっていき、そのままのしくみではいろいろと障りがもちあがってきたところで、荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾の五郡だったところに新たに二十區を設定して三十五區からなる「大東京」になった。さらにその4年後、昭和11年(1936年)に北多摩郡の一部をくっつけて、現在の二十三特別区とほぼ同じ版図になった。そのへんの経緯などは「探検コム」のお方がわかりやすくまとめておられる。 https://tanken.com/35.html 住民が東京市外に移り住むようになったのは、震災で被災したというのももちろんあるが、都心部は煤塵などの公害がひどかったようだし、住環境も狭くてよいとはいえない状況になっていたから、この際もっと空気も水もきれいな広いところで暮らしたい、という人がふえたからだろう。 今回ご覧に入れるのは、ちょうどそのころの大東京の姿を紹介した小型の写真帖に載っている、いろいろな橋の姿。1・2枚目はご存知日本橋、明治44年(1911年)に架け替えられた石橋が今も使われているが、2枚目の図版と違って高速道路が上におっかぶさってうっとうしいことこの上ない。当時は中央に据えられていた道路原標も、都電の路線が廃止された昭和48年(1973年)に橋向こうに見える今はなき大栄ビル(旧帝國製麻ビル)の脇にどけられてしまっている。 https://blog.goo.ne.jp/ryuw-1/e/bc95758191a3d9f1b52e68aef01c742c 3枚目は隅田川にかかる橋々のなかから震災復興建築としての清洲橋と永代橋、それから駒形橋上から吾妻橋方向を眺めたところ、そして4枚目として拡大した部分には御茶ノ水驛に近い昌平橋あたりの中央線高架橋と聖橋。よくみると、聖橋の下の鋪道を若い女性がふたり歩いているのが写っている。 5・6枚目のはね上げ橋は、湾岸を走る貨物線が通っていた芝浦可動橋。 http://odawaracho.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-0ae8.html 廃線になった後もしばらく残っていたが、現在では東京臨海新交通臨海線が頭上を通る、新浜崎橋という特徴のない歩行用の橋にかけ替わっているらしい。 7・8枚目は新たに東京市に加わった地域から、世田谷區の多摩川にかかる鉄橋……ということなのだが、このトラス橋は鉄道線のように見える。世田谷区から多摩川を渡っている線路といえば東急田園都市線の二子玉川〜二子新地間しかない筈だが、二子橋梁はたしかこんな形はしていなかった。じゃあいったいこれはどこ? ……としばらく悩んだが、同じく東急の東横線が多摩川を渡る多摩川橋梁が以前はこんな鉄橋だったのを思い出した。 http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link151.html 同線前身の東京橫濱電鐵が大正15年(1926年)丸子多摩川驛〜神奈川驛間を開通させたときに造られたというが、二十世紀末ぐらいにかけ替えられて今はトラスじゃなくなっている。この橋の東京側は当時大森區(現在は大田区)の筈だが、丸子橋の上あたりからこの鉄橋方向にレンズを向けたとすれば、川向こうの左手や奥はたしかに世田谷區の玉川村ということになるようにおもう。
大東京寫眞帖 昭和12年(1937年) 昭和12年(1937年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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チョコレート工場見学@昭和初期の化学プラント図解本
以前、明治の初めに西洋薬の輸入製造販売のさきがけとして始まった当時の資生堂について一次資料をあたっていたときに実感したことだが、今やその名をしらない人がいないような大企業でも、その創業のころの記録は意外とわからなくなってしまっていることが少なくないようだ。もちろん、震災や戦災、大火というような不可抗力に巻き込まれてうしなわれた資料もすくなくないだろうけれども、試行錯誤を繰り返しながら製品を造ったり売り買いしたり、という日々の仕事におわれて、おそらくは記録をきちんととっておこうというゆとりがなかったからではないか、などと想像してしまう。 日本で最初にチョコレートをつくって売ったのはいつか、というのを安直にネット検索してみるといろいろな説がでてきて、製造者の同業団体ですらおっしゃることが一致していないので、いったいホントのところはどーなの? という疑問がわくのだが、同じことをおもわれた方がすでにあったようで、レファレンス共同データベースに日本最初の新聞広告はいつのものか、というお尋ねへの福岡県立図書館回答事例が載っていた。 https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000254553 結局、一次資料が確認されているうちでは八杉佳穂氏『チョコレートの文化誌』 https://sekaishisosha.jp/smp/book/b354345.html に紹介されている明治10年11月1日附け『東京報知新聞』の凮月堂米津松造のものが最も早く、同図書館の方がお調べになった範囲ではそれ以前にはないらしい。「新製猪口令糖」というくらいだから、まぁこの年がはじまりとみてよいのだろう。なおレファレンス記事にもあるように、当の東京凮月堂サイトの「東京凮月堂の歴史」には翌年の『かなよみ新聞』広告のことしか書かれていない https://www.tokyo-fugetsudo.jp/about/history ので、いつが最初なのかはあんまり気にしておられないのかもしれない。 森永製菓の「沿革・歴史>明治・大正(1899〜)」には、同社がカカオ豆からの一貫生産を国内で初めておこなったのが大正7年(1918年)、とある。 https://www.morinaga.co.jp/company/about/history.html 大正5年(1916年)に「東京菓子」として創業、大正13年(1924年)に「明治製菓」と商号がかわった今の明治が「ミルクチヨコレート」「明治ココア」を売り出したのが大正15年(1926年)、と同社サイト沿革に書いてある https://www.meiji.co.jp/corporate/history/ が、その前年に建てられたという川崎工場の生産ラインを今回は見学してみることにしよう(あらら、ずいぶん前振りが長くなってしまった……)。ところどころに登場している人形や動物をかたどった製品は、当時「トーイス」と呼ばれていたようだ。なお4枚目のページだけはチョコレートではなく、同じ工場内のビスケットとウェーファースの製造現場。2枚の写真ともにまるで人形のように全く同じ恰好で立っておられる長白衣に丸眼鏡のお方が、ご取材の際のご案内役だったのかもしれない。 戦前のチョコレート一貫生産の各工程のようすは、なかなか目にする機会がない。原料産地での採集風景からはじまっているのが、さすがは当事者の全面協力あっての記事だけのことはある。このような出版企画が実現したのも、当時の科学教育界と化学工業界の有力者がつどって啓蒙活動をすすめる団体だったからだろう。
圖解化學工業 昭和04年(1929年) 昭和04年(1929年) グラビア刷り図版研レトロ図版博物館
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野の草花の彩色博物画@明治後期の小型植物図鑑
暑い。朝から夕まで、陽が出ているあいだ中こう暑いと、なにかやろうという気持ちになかなかならない……綺麗な植物画でも眺めて、せめて心持ちだけでも清々しくしておきたい。ということで今回は、明治の末に村越三千男ひきいる東京博物學研究會が出した、薄い5冊組の植物図鑑を引っ張り出して、そのうちの1冊から草花の彩色図版を、特に今が花どきというわけでもなくいくつか拾ってみた。 1枚目が「桔梗科」(キキョウ科)、2枚目が「山蘿蔔科」(マツムシソウ科)+「敗醬科」(オミナエシ科)+「連幅草科」(レンプクソウ科)、3・4枚目が忍冬科(スイカズラ科)、5・6枚目が茜草科(アカネ科)、7・8枚目が玄參科(ゴマノハグサ科)。なお、レンプクソウ科は今ではガマズミ科に統合されているらしい。 https://www.digital-museum.hiroshima-u.ac.jp/~main/index.php/%E3%82%AC%E3%83%9E%E3%82%BA%E3%83%9F オフセット多色刷りの細密な博物画で見せる日本の植物図鑑としてはかなり早い時期のものだが、色味や構図など精確性を期すると同時に絵としての美意識もあわせ持たせた美しい図版とおもう。
自然分類ニ據ケル日本之植物 卷之二 明治43年(1910年) 明治43年(1910年) 網版多色刷り+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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昭和十年代の東宝系映画館@昭和初期の興行会社史本
昭和18年(1943年)の暮れといえば大東亜戦の戦局がだいぶ悪化し、建物疎開のための閣議決定「都市疎開實施要綱」が出されたころだが、そんなときに大手興行会社・東京寳塚劇場(東寶)が創立十周年を記念して刊行した社史本に載っている、同社経営の都内映画館写真をご覧いただこう。どうしてそんな時局に出せたかといえば、もちろん当局の戦意高揚などの宣伝に一役買っていたからなのは間違いない。 1・2枚目の日比谷映畫劇場は省線有樂町驛近くに洋画専門封切館として昭和9年(1934年)2月開場、最新設備を完備しながらも50銭均一、という庶民的な入場料設定を初めて導入し話題をさらったという。昭和五十年代の末に取り壊されたらしい。 https://blog.goo.ne.jp/ryuw-1/e/0f5cb3dde19c28b71f607faf279b9cff 現在ではここに東宝日比谷ビル(日比谷シャンテ)が建っている。 3・4枚目の東橫映畫劇場は澁谷道玄坂に東寶直営館として昭和11年(1936年)11月開場、直後に運営会社が合併された、とこの本の「東寶十年史略」はいう。これは小林一三が東急の創始者五島慶太をたき付けて建てさせたものの、日比谷映畫劇場の観客がこちらに引っ張られては困る、と考えて出来上がったところですかさず取り上げてしまった、という話が菊地浩之氏のご著書『日本の15大同族企業』に出てくる。 https://books.google.co.jp/books?id=S-2fDwAAQBAJ&pg=PA62-IA2 なお、渋谷は空襲で大部分が焼け野原になったが、この建物は免れたそうだ。 http://www.touyoko-ensen.com/syasen/sibuyaku/ht-txt/sibuyaku07.html ☝の「昭和24年、渋谷駅前で焼け残ったビルの移動」のところに写っている。平成元年(1989年)2月まであったが、現在はここに渋東シネタワーが建っている。 5〜7枚目の帝都座は昭和6年(1931年)5月、日本活動寫眞の封切館として新宿通り沿いに開場。昭和15年(1940年)11月の末に東寶傘下になった。 https://suzumodern.exblog.jp/26434559/ 昭和47年(1972年)まであったというが、何月までだったのかは意外と情報が拾えない。今は新宿マルイ本店が建っている。 なお、7枚目の「帝都座グリル」(おそらく地下にあった食堂のことではないかと)内部風景は小さな写真なのだが、拡大してみるとお客がごはんを召し上がっているのがかろうじて見える。右手手前がネクタイをしめている?男性1名、左手奥に男女カップル……かな? 少なくとも、顔の見える方は女性のようだ。 8枚目は錦糸町駅前の操車場だったところに昭和12年(1937年)にできた遊園地、江東樂天地の娯楽施設のひとつとして、江東劇場とともに12月に開場した本所映画館。昭和20年(1945年)3月の東京大空襲で被災したもののこの2館の建物自体は残り、昭和46年(1971年)5月に閉場するまで続いたという。 http://www.cinema-st.com/road/r118.html 現在、楽天地ビルが建っている場所らしい。 ……というわけで、昭和初期のモダン建築映画館が空襲をくぐりぬけ、戦後も意外と長く命脈を保っていたのだが、今はひとつも残っていない。 ところで5枚目の帝都座外観写真、なかなかいい画なのだが残念ながらノドがきつくて右ページ側はうまく撮れなかった。ある程度以上のページ数のある束厚本はどうしてもノドの部分がみづらくなるが、この本のようにせっかく見開きで図版を大きくみせる趣向なのに、そのへんちゃんと配慮してくれていないのはいかにも残念。あるいはこれも、時局柄材料や精神的なゆとりがうしなわれていたあらわれなのかも……ともおもったり。
東寶十年史 昭和18年(1943年) 昭和18年(1943年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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生物ドローンカメラ@昭和初期の中等教育用理科図解参考書
最近はドローンを使って一般人でも割と気軽に空撮ができるようになったが、かつては伝書鳩に專用のカメラを取り付けて撮影させていたことがあった。明治40年(1907年)、ドイツ人薬剤師J.ノイブロンナーが初めて考案した「鳩カメラ」は、パノラマ撮影用だったそうだ。 http://blogbu.doorblog.jp/archives/52402641.html いわば「生物ドローンカメラ」といったところだが、いくら軽量機とはいえかなりデカいし、こんなじゃまくさいものを取りつけられて、ハトにはさぞや災難だったことだろう。 今回は、前にジュラルミンのところ https://muuseo.com/home/734046 を取り上げた昭和十年代の中等教育理科の図解参考書から、その「寫眞機」項に載っている図版を眺めてみることにしよう。ここに鳩カメラが出てくる。1枚目のページ中の「3」のハトと6枚目のページの左上のハトは構図がそっくりでカメラの向きとか右側に鉛管がくくりつけられている脚とかも似通っていて、ぱっと見まるっきり同じ写真のようにも見えるが、よ〜く視ると前者は頭から何か被せられているようだ。 8枚目にご参考までに掲げておいた「航空寫眞」解説には、「之〈これ〉は歐洲大戰以來,大いに發達して來たものであるが,今日では,平時に必要缺〈か〉く可〈べか〉らざるものとなつて來た」とあるが、図版の方はキャプションに「軍用鳩の體につける寫眞機」とあるように、新聞社などの民間企業ではなく陸軍の鳩を撮ったものとおもわれる。背負いケージや車輪つきの鳩小屋の図が写真ではなくイラストなのは、恐らく「撮影場所を特定されては困る」とか、何かしら軍機に引っかかるからなのだろう。
解說實驗應用理科講義 昭和13年(1938年) 昭和13年(1938年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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ジュラルミンと飛行船@昭和初期の中等教育用理科図解参考書
中学校・師範学校でおこなわれる5年制の中等教育では、昭和6年度(1931年度)より実施された改正中學校令施行規則により大幅な教科の変更があったが、それまでの「博物」「物理」「化學」に加えて「一般理科」「應用理科」を設け、ひっくるめて「理科」という科目になった。最終学年におかれた応用理科では、それまで学んできた理科知識と実際の世の中のあれこれとのかかわりをより具体的につかむことに主眼がおかれていたようだが、その理解をたすけるために編まれた図解参考書のなかから、合金のひとつジュラルミンのところを今回はみてみることにしよう。 軽くて引っ張り強度のたかいアルミニウム合金は今日でも航空機を造るのにかかせない材料だが、その最初のものは明治39年(1906年)ドイツで生まれた、アルミニウム・銅・マンガン合金にマグネシウムをちょこっと加えて焼き入れしたものだった。加熱処理をしてから時間をおくと強度が格段に増す「時効硬化」が、たまたま実験途中に週末がはさまったために発見されたのだそうだが、この合金がまず実用されたのが同国のフォン・ツェッペリン伯が19世紀末に考案し、自ら会社を立ち上げて明治33年(1900年)に第1号機を造った新しい乗りもの・飛行船の機体だった。当初は鉄骨で組み立てる考えだったのが、軽量化をはかるためアルミニウム材を用いる方針に切り換え、その時に最も強度のあった亜鉛アルミニウム合金を使ったという。それよりもすぐれた材質である自国の技術者による特許ジュラルミンに早速跳びついたのは自然なことだったろう。なお、ジュラルミンの語源はフランス語の「かたい」を意味する「Dur-」を冠した、という話は意外だが、これは国際展開を見据えてのことだった、ときけばなるほどと納得がいく。 https://www.uacj.co.jp/review/uacj/vol4no1/pdf/vol4no1_15.pdf ジュラルミンは明治44年(1911年)からイギリスでも生産がはじまり、また第一次欧州大戦中の大正5年(1916年)にはドイツ軍の飛行船が同国内で撃墜され、以降その残骸を参考に日本を含む各国で飛行船の製造がはじまった。一方ドイツではその翌年大正6年(1917年)から飛行機の材料としてもジュラルミンが使われはじめた。この本が出た前年の昭和12年(1937年)には、アメリカに寄港中のヒンデンブルク号の有名な事故が起き、それからいくらもしないうちにドイツの飛行船はすべて解体されて飛行機の材料になってしまったというから、ここに書かれている内容は早くもやや時代遅れ、ということになってしまいそうだが、そんなことはさておいてこの飛行船内部を描いた図版イラストが文句なくかっこいいのだ。大正〜昭和初期の教科書などにも飛行船の機体の図はときどき載っているが、内部の様子がわかるものは多くない。それに、これもジュラルミンを使っているらしい巨大な格納庫に収まっているところ(3、4枚目)や、その内部で骨組みの組み立てをおこなっている場面の図(5枚目の下、7枚目)はほかには目にしたことがないようにおもう。その上の図版(5枚目の上、6枚目)にはキャプションがないが、これは操縦席部分だろうか。 なお、8枚目の丸いのはジュラルミンの球ではなくて、合金の顕微鏡写真を模写したもののようだ。熱加工の過程で粒子の状態が大きく変わっているのがわかる。
解說實驗應用理科講義 昭和13年(1938年) 昭和13年(1938年) 三色版刷り・活版+銅版刷り図版研レトロ図版博物館
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無脊椎なヒトたちの彩色博物画@明治後期の小型百科辞典
明治の終い近くに出された一冊モノ百科辞典の「海産動物」項附図として載せてある見開き一枚の彩色博物画から、節足動物だの軟体動物だの棘皮動物とか腔腸動物とか、とにかく脊椎がない種類の生き物たちの部分を拡大して眺めてみよう。 欄外の名称を図版番号で拾ってみるとそれぞれ、一枚目「1 イボヤギ」「2 キクメイシ」「3 ウミシャボテン」「4 赤サンゴ」、二枚目「5 アコヤガイ」「6 アワビ」「7 サヾエ」「8 カキ」、三枚目「9 ビゼンクラゲ」「10 カツオノエボシ」「11 オビクラゲ」「12 水クラゲ」「13 カツオノカムリ」「14 カイメン」「15 カイロードーケツ」「16 ホッスガイ」、四枚目「28 カリナリヤ」「29 アメフラシ」「38 タコブネ」「39 オームガイ」「45 タコ」「46 イカ」「47 ゴカイ」、五枚目「18 イソギンチャク」「22 アシナガヾニ」「32 カブトガニ」、六枚目「27 ヒドラクチニヤ」「37 ホヤ」、七枚目「31 クルマエビ」「33 イセエビ」「40 ウミユリ」「41 ヒトデ」「42 ウニ」「43 ナマコ」、八枚目「36 サルパ」「44 ヤドカリ」。このうち「カツオノカムリ」がカツオノカンムリなのはまだご想像がつかれるかもしれないとしても、「カリナリヤ」はゾウクラゲ、「アシナガヾニ」はタカアシガニ、というのはお分かりにならないのでは……。「ヒドラクチニヤ」は多分カイウミヒドラ。いずれも透明な身体をもつ「オビクラゲ」「サルパ」なども、結構マニアックな選択ではないかしらん。にもかかわらず、以上六種はどれもこの辞典中には立項されていない……覧る側は「そこが知りたかったのに……なんちゅー不親切ぶり」などとついつい勝手を並べたてたくなってしまうww のだが、しかし編む側の立場で考えてみれば、そんな細かいところまでいちいちフォローしていたら、一冊では到底終わらなくなってしまう。項目の取捨選択は悩ましいところだ。 それはさておき、色彩もうるさくない程度に鮮やかで美しく、博物図ひとつひとつをみても全体として眺めても、美意識に裏打ちされた魅力にあふれた図版ではないだろうか。拡大複写してポスターに仕立てたいくらいだ。 なお、この図版のほかの部分は「爬虫類両棲類の部屋」 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/collection_rooms/9 、「魚類の部屋」https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/collection_rooms/3 に展示してあるので、もしまだご覧になっておられない方は是非☆ #レトロ図版 #無脊椎動物 #海の生き物 #博物画 #百科辞典 #明治後期
國民百科辭典 明治41年(1908年) 明治41年(1908年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館