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間違い探し!? の名古屋港@大正後期〜昭和初期ごろの名古屋名所風景絵葉書
最近ヨーロッパの某紙モノ屋さんから調達した、多分1920年代ごろの風景絵葉書2枚。当時の名古屋港の景色だが、ぱっと見まるっきり同じように見えるけれども、よぉく視てみると細かいところが色々と違うのに気づく。それをつぶさに眺めてみたくて、ついつい両方とも手を出してしまった次第。 どちらも絵葉書セットの標題は「名古屋名所」。 右下に「A」と打ってあるセピア色の方は「中京海運の大玄関、名古屋港 THE PORT OF NAGOYA THE CENTRE OF THE SEA TRADE, NAGOYA」、モノクロームの方は「巨船織るが如き名古屋港 THE PORT OF NAGOYA, WHERE ALL THE LARGE SHIPS ARE GOING TO AND FRO, NAGOYA」と説明書きがある。 表書き側をみると、版元は別々のようだが、どちらも日本製であることがわかる。通信欄がおよそ半分になっているので大正7年(1918年)よりも後、「郵便はがき」ではなく「郵便はかき」となっていることから昭和8年(1933年)よりも前だろう、と推定できる。 https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000290979 (とはいえ、この通説の典拠をちゃんと調べたことはないので、イマイチ心許ない……。)旧蔵者か紙モノ屋の方か、「1924」と鉛筆で書き込んでおられるが、その根拠は不明。 それはさておき、あまりにも似た構図なので一瞬「……Photoshopか?」と思ってしまったほどだが(そんなワケはない)、実際わざわざネガ修正を施したりしたのではなくて、両方とも同じ日の、さほど違いのない時刻にほぼ同じ位置から撮られた二枚とおもわれる。つまり、撮影者は同一人物に違いない。 大きな船はどれも碇泊中らしく位置が同じだが、片方は煙を吐いたりしている。艀らしき小舟数艘は走り回っているようだ。「A」の方は下船客らしき一団がぞろぞろとこちらへ向かって歩いていて、柵のこちら側にも二人連れが二組いるのがみえる(手前の一組は三人連れかも)。桟橋の奥側に三人の人影があるが、もう一枚の方の桟橋にいる三人と同じ人物かどうかはわからない。人が少ない方は、手前に荷台つきの三輪車のような車が二台停まっている。たなびく煙や旗の様子からして海風が吹いているようだが、煙のない写真の方がやや波だっているか。セピア色の方が陽射しがあるらしく、倉庫の壁に映っている影がはっきりしている。 ……などと、細かくみていくとキリがないのだが、いったいいくつ「間違い」があるのか、ご用とお急ぎのない方は探求してみていただきたいww
名古屋名所 大正後期〜昭和初期ごろ 網版+活版刷り 洋紙(塗工紙)図版研レトロ図版博物館
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三省堂の理科教材ショウルーム@明治末期の理化学器械カタログ
今年の4月に創業140周年を迎えられた老舗の三省堂書店は、最初に古本屋として出発した後に新刊書店に転換して事業を拡大、次いで乗り出した出版印刷業部門が大正期に三省堂として独立したことがよく知られているが、明治40年代に理化学器械や標本などの教材を拵えて売り出しておられたというのは、それに較べたらかなりマイナー、というか寧ろマニアックな部類の話だろう。 このお店、「三省堂器械標本部」については、その後継企業を自負される教育理科機器製造販売会社「ナリカ」が創立百周年を迎えられた、平成30年(2018年)に就任なさった現社長氏が、そのご著書『ナリカ製品とともに読み解く理科室の100年』 https://www.scibox.jp/index.php?dispatch=products.view&product_id=7770 などで熱く語っておられるほかは、東日本大地震の際に津波による難を受けながらも救い出されたことが話題になった1台を含め、公式には僅か3台しか現存が確認されていない所謂「海保オルガン」 http://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/tsunami/data/Sect02_13.pdf の表向きの製造元として取り沙汰されるくらいではないだろうか。 同店は明治38年(1905年)11月に三省堂書店本店の並び、神田區裏神保町七、八番地(今日では冨山房buildが神田すずらん通りに面する、ツルハドラッグ神田神保町店や地下のサロンド冨山房FOLIOが店開きしているところ)にできたとされる。1枚目に掲げた外観写真をみると、七番地の方は三面のショウウィンドウを持つ重厚な土蔵造りの、典型的な明治期商店建築で、手前の八番地の方はそれよりもっと簡素な造りの木造二階屋だ。 ここには実験室や、製品ショウルームとしての器械陳列室・標本陳列室が置かれていたことが2〜4枚目の画像から知れるが、どの部屋が建物のどこにあったのかは平面図などがないためわからない。とはいえ、「實驗室2」写真に写っている実験台の上の背の高い器械が、「器械陳列室1」写真の奥の部屋にあるものと同じように見えるし、窓の木枠のデザインも同じようだ。これはどちらかの建物の二階部分で、窓のあるのが通りに面している側だろう。そして「標本陳列室1」写真のライオンの剥製の後ろに写っている硝子戸は、手前側建物の入口のそれに似ている。 5枚目の巻頭序には、如何にも明治人らしい大言壮語が綴られているが、それが伊逹じゃないことを証明するためか、明治43年(1910年)にロンドンで開催された「日英博覽會」に製品を出品して「金賞牌(GOLD MEDAL)」を受けた、と誇らしげに掲げている。6枚目はそのメダルと賞状、そして7枚目は国内の博覧会や共進会で得たメダルとあわせて、「日英博覽會」の際に大英博物館長から授与された感謝状まで載せてある。ただ、どのような製品で賞を得たのか、という肝腎なところがすっぽ抜けている。ありゃま。 6枚目の賞状を拡大してよぉくみてみると一部読み取れないものの、 'Chuichi Kamei' という堂主の名、そして 'for Specimen of Stuffed Animals' と書いてあるらしいのが何とかわかる。少なくともこの金賞は、(4枚目画像のライオンのよーな)動物剥製標本に対して与えられたもののようだ。ほかにどのようなものが出品され、彼の地でどう評価されたのかはわからないが、部門発足から僅か5年で先進国の博覧会に出品し好評を得た、というのは「弊堂創業以來歳月長カラズト雖モ長足ノ進歩ヲナシ」と序文にいうのがまんざら誇張でもなかったことを示しているとおもう。 このように順調な発展をみせ勢いづいておられた「三省堂器械標本部」は、しかし短命に終わってしまわれたらしい。ナリカの中村社長が書いておられるところによると、大正2年(1913年)に起こった神田大火により焼けてしまい、その後三省堂は百科辞典刊行に傾注する方針になったこともあって、結局再建されなかったという。ナリカ社長氏のご祖父は明治41年(1908年)からここで勤めておられたが、器械標本部解散のとき「器械部」を譲り受け、それを基に大正7年(1918年)現在社屋のある場所、当時の神田區龜住町四番地にナリカの前身「中村理化器械店」を興されたそうだ。 https://www.sci-museum.jp/files/pdf/study/universe/2019/06/201906_04-09.pdf ところで三省堂のその百科辞典というのは、明治41年(1908年)から刊行が始まっていた我が国最初の本格的なエンサイクロペディアである『日本百科大辭典』を指す。当初は6巻+索引巻の計7巻組で企画されたが、二百数十名の各分野専門家を動員した執筆陣、豪華な装幀造本、あくまで妥協しない編集方針、そしてあまりにも編集作業に時間を喰って途中で改訂作業にも手を着けざるを得なくなり、10巻組に膨らむことになったはいいが、結局版元の三省堂の方がもたず、大正元年(1912年)10月に経営破綻してしまわれたという。 https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/ayumi17 しかし第6巻で打ち切りとは如何にも惜しい、という声が引きも切らず、善意が寄せられ出資が集まって、大正2年(1913年)5月には「日本百科大辭典完成會」なる組織が立ち上がり、そして同8年(1919年)4月にめでたく全巻刊行の運びになった、と辞書研究家・境田氏がまとめておられる。なお同4年(1915年)には、出版印刷部門が「三省堂」として独立され、今日まで続いている。 件の神田大火は、このように社運を賭した一大事業が、三省堂の経営を追いつめる事態になりつつあった年の2月20日に起こったのだった。 https://jaa2100.org/entry/detail/036609.html 三省堂書店神保町本店に拠点を据える「本の街・神保町を元気にする会」が出しておられる、『神保町が好きだ!』誌第13号のp. 10「明治・大正2度の大火に見舞われた、その後の復活劇!」に、この火災の経緯が出てくる。 https://www.books-sanseido.co.jp/jimbocho/pdf/jinbocho_sukida_13.pdf また、この時校舎と、そしてそれに隣接する校長私邸が罹災した順天中學(北区王子本町にある順天学園順天中学校・高等学校の前身)校史にも「神田の大火災」として載っている。 https://www.junten.ed.jp/kousi/160nen-68.htm これらによると、20日の午前1時過ぎに今のJR中央線水道橋駅南側、東京歯科大水道橋病院の西側(裏手)の辺りにあった救世軍大學殖民部の建物から出火、折りからの烈しい北風に煽られて、今の白山通り両側の街並みを捲き込みながらみるみる南側へ燃え拡がって、神保町交叉点辺りから東へ逸れてお堀端の錦町河岸まで焼き尽くしていったらしい。 『東京日日新聞號外』の方は、拡大図が格納されていたサーヴァが今はお亡くなりらしくてすこぶる読みづらいが、「燒失の町 三崎町、猿樂町、■(仲?)猿樂町、裏神保町、表神保町、錦町」「燒失戸数 三千百九十戸」「發火!! 三崎町二丁目救世軍大學殖民部より」「猿樂町を燒き盡す」「神保町に燃出づ」「烈々たる二手の火勢」「錦町河岸へ燃え拔く」「午前八時消止む」などと書いてあるのがかろうじてわかる。 『東京朝日新聞』の方も荒れていてキビシいが、PDFを拡大し眼を凝らしてみると「二手の火勢」について「一方は三崎町一丁目二丁目を水道橋方面に■■し一方は仲猿樂町を南に走り■■■線路を飛越え裏神保町へ移り■■幅數町に亘る火の海となつて只押しに神保町方面へ■■■て學校商店其他大建築を■紙の如く無造作に燒し盡し裏、表神保町を攻めて一は東明館勸工場附近を■し其裏手より小川町方面へ出でんとし他の火先は神保町の中心を貫きて錦町二丁目へ突進しつゝ一ツ橋通りに其■■を揮はんとす……午前三時半頃には、北は三崎町より西は西小川町の■場、東は猿樂町二丁目、南は錦町二三丁目に至るまで南北十數町の■■の一大焦熱地獄と化したる光景、……」などと書かれているようにみえる。 さて、そこで8枚目の「三省堂營業所及所屬工場」を眺めてみると、全滅した裏神保町にあった「器械標本部」は惜しくも2棟とも罹災したのは間違いないだろうし、火元に近い三崎町三丁目の「商品貯藏場」も助からなかったかもしれない。 しかし美土代町三丁目の「理化器械工場」は、焼けた錦町二、三丁目の東隣の延焼しなかった錦町一丁目と、その向こうの電車通り(今の本郷通り)を挟んだ更に東に位置していることから考えると、ここは焼けなかったのではないかしらん……とおもえてくる。 ともかく、本店に加えてショウルームを兼ねた店舗と、製品もろともにストックヤードとが同時に失われたとすれば、このときの経営状態からして「器械標本部」再建は断念なさらざるを得なかっただろう、と腑に落ちる。反対に、工場はどれも被災を免れたのであれば、解雇せざるを得なくなった有能な従業員たちに設備を譲ることで先行きの補償に充てた、とみることもできよう。「中村理化器械店」が5年後に立ち上げられたのも、三省堂の製造設備が無傷だったお蔭かもしれない。 最後に余談だが、「三省堂器械標本部」扱いの「海保オルガン」について触れられた、日本リードオルガン協会長・赤井励氏の『オルガンの文化史』には「海保と思われる楽器工場の住所は、小石川西江戸川町二十二。」とある。 https://books.google.co.jp/books?id=HG9xDgAAQBAJ&pg=PA97 その隣に当たる同町二十一番地に「生理模型工場」が設けられたからこそ、海保のオルガン工場は三省堂扱いで製品を世に送ることになる縁が生まれたに違いない。最初に提携を持ちかけたのがどちらかのかはわからないにしても。
理化樂器械及藥品 天文地文氣象學器械 數學製圖及測量器械 顯微鏡及寫眞機目録 明治45年(1912年) 明治42年(1909年)? 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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輸入車用の幌@昭和初期の自動車用品カタログ
昭和10年代の自動車用品カタログに載っている、US製輸入車のための幌張り替え用ゴム引き生地。 画像3枚目は組み立て成型済みの既成幌。窓のところはセルロイドが嵌まっていたようだ。 貼り付けてある現物見本のうち、一番上の合成皮革のものが既製幌の1928〜31年式フォードと1927〜28年式シボレー、次の織物のものが1929〜30年式シボレー、その下のものが1932〜34年式フォードと1931〜34年式シボレー用、とある。 測り売り生地の方は、「ヤール(=ヤード)」単位売りなのに幅が尺貫法表示なのが可笑しい……「巾四尺六寸モノ」のように尻尾に「モノ」がついているのは、ヤードポンド法ベースの寸法を尺貫法に換算したおおよその幅寸、ということなのだろう。1930年代に輸入車を乗り回すような人々でも、メートル法より尺貫法の方が馴染みがあったのかしらん、とついついおもってしまう。 こういう風に現物見本がついていると、当時の車の屋根幌や横幌がどのような見た目や感触だったのかがよくわかる。殊に複層構造や裏面の色味・テクスチャなどは、こういう資料が残っていてこそ初めてしれるものだ。 画像5枚目と6枚目は幌を取りつけるための部品や補修用品。「シネリ式幌止メ」の「シネリ」は「捻り」のこととおもわれるが、商店主が江戸っ子入っているかww 画像7・8枚目、見本のうち下3枚は座席シート張り替え用の生地。ただし下から3番目の黒いものは横幌用兼用だそうだ。 このカタログを出していた森田商會は、東京市が昭和8年に出した『東京市商工名鑑』第五回によれば、経営者が森田鐵五郎といったらしい。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1115189/546 所在地がカタログ表紙では芝區田村町一丁目、☝の商工名鑑では「芝、櫻田本郷」となっているが、銀座局内の電話番号がどちらも同じなので間違いないだろう。 この人物名で商工信用録などを国会図書館デジタルコレクションで追ってみると、大正11年の東京興信所『商工信用録』第四十六版に大正10年1月調査で「森田鉄五郎」「自動車附屬品」「京、新肴、一七」「1年前」というのがある。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970692/355 また大正12年の第四十八版では大正11年3月調査調査で「森田鐵五郎」「自動車附屬品」「芝、新幸、七」というのが出てくるが、こちらも「開業年月」のところは「1年前」となっている。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970694/327 翌大正13年の第四十九版をみると、大正13年3月調査で「森田鐵五郎」「自動車附屬品」「芝、櫻田本郷、二」「3年前」 となっている。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970693/284 試しに昭和7年第六十五版をみてみると、昭和6年3月調査で「森田鐵五郎」「自動車附屬品」「芝、櫻田本郷、二」「10年前」 とある。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242111/312 ……ということは、創業は大正8〜9年ごろ京橋區新肴町にて、ということになるだろうか。毎年出ている同じ出版物でこうもバラついているとなると、開業がいつだったのか特定するのはなかなか難しそうだ。 なお、帝國商工會『帝国商工録』東京府版の昭和7年版 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1024841/89 では所在が「芝區櫻田久保町二」、翌昭和8年版 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023922/97 では「芝區田村町一ノ三ノ六」で、こちらはカタログの表示と同じになっている。昭和7年12月1日に、帝都復興計画の一環で大幅な町域改正がおこなわれた際、櫻田本郷町は田村町一丁目、櫻田久保町は田村町二丁目に編入されたようだから、前者の「櫻田久保町二」は「櫻田本郷町二」の誤りではないかとおもわれるが、あるいは建物改修か何かで一時的に近所に越していたのだろうか。 ともあれ、今の都営三田線内幸町駅のあたりにあった、おそらくは家族経営の中小自動車用品販売店だったのだろう。
自動車用品型録 No. 15 昭和11年(1936年) 網版+活版刷り 洋紙図版研レトロ図版博物館
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婦女子に愛される猫@昭和初期の愛玩動物飼育手引書
ペットといえば、今や我が国で最も飼われている頭数が多いのは永年トップだったイヌを追い落としたネコらしい。一般社団法人ペットフード協会が毎年おこなっている調査によると、イヌがじりじり減りつつあり、ネコは反対に少しづつふえてきていて、3年前についに逆転したそうだ。 https://petfood.or.jp/data/chart2019/3.pdf ということで、前回ウサギについて取り上げた昭和初期のペットの飼い方の本 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/158 の、ネコのところも眺めてみよう。 今や完全室内飼いが推奨されることもあって、キャットハウスとかトイレとかいろいろ関連グッズがあるが、かつてはせいぜい首に鈴をつけるくらいだったから、図版もウサギのときのように小屋だとかは出てこなくて、かわりに1枚目の道具を使った面白写真とか、2枚目の池の中に魚でもいるのか水面を前肢でちょいちょいやっているところとかが載っている。3枚目は章の冒頭部分だが、「猫は犬と共に家庭愛物の雙璧とも云ふべきもの」とあって、当時もイヌと人気を二分していたことがわかる。イタリアのファシスト党が食糧の無駄遣いとして市民に猫を飼うことを禁じた、という話は初めて識った。まったく、しょーもないヤツだムッソリーニ。 つづいて「猫の魅力」として、「元來ネコは鼠捕りと云ふ転職はありますが、それにしても犬などに較べると利用の範圍の極めて狹いものです。それにも拘はらず、かく愛育されるのは、身體が手頃の大さで可愛いらしく、一種の魅力があるからでありませう。そして主として婦女子の愛撫を受け、その方面に絶大の人氣をもつてゐます。」と解説されていることから、女性に好まれる傾向が強かったことがしれる。5枚目はその実例として、和装の若い女の方に抱きかかえられて落ち着いている黒猫が写真に収まっている。4枚目右の方は垂れ耳の長毛種らしき下の犬も、その背の上に乗っかっている仔猫も外国種らしく見える。1枚目の「猫の學校」「猫のカメラマン」ともども、おそらくは日本国内ではなく、海外で撮影された写真を輸入書から引っ張ってきたのではないかしらん。2枚目のは三毛柄らしいから、4枚目左同様日本猫だろう。 「猫の七不思議」として、高いところからたとえ背を下に落としても必ず前肢から平然と着地すること、遠くに棄ててきてもいつの間にか戻ってきて平然と日向ぼっこなどしていること、水に濡れることを非常に嫌うくせに水中の魚を巧みに獲ってしまうこと、天候の変化を敏感に感じとるので昔は船に乗せられていたこと、三毛柄の雄は航海安全のお守りとして珍重されていたこと、暗闇でも視覚が利き、また暗がりで毛並みを逆なでしてみると火花が散ること、仕込めばかなり芸当ができることが挙げられている。このうち船に乗せられた三毛猫については、欧州大戦中の大正7年(1918年)の実話として、「郵船平野丸」にいたものがイギリスの港に碇泊中、隣の「丹波丸」へいつの間にか乗り換えてしまい、翌日出港してから猫がいないことに乗組員が気付いたその日のうちにドイツ海軍の潜航艇からの魚雷を喰らって沈没してしまった、という「面白い話」が紹介されている。なお貨客船平野丸の撃沈から100年を記念して平成30年(2018年)、当時犠牲者を埋葬したウェールズ南部の土地に慰霊碑が建てられたそうだ。 https://www.nyk.com/news/2018/20181005_01.html 5・6枚目は「種類」のところに添えられている図版で、イヌはもちろんウサギにくらべてもだいぶ少ない。当時最も多く飼われていたのはもちろん短毛の在来種「日本猫」だが、「併〈しか〉し最近は大分〈だいぶ〉歐洲種、中にもペルシヤ種が愛養されるやうになりました。」とある。そのほか、被毛の長いものとして5枚目上の「アンゴラ種」、それから「フランス長毛種」「ロシヤ長毛種」、短いものとして「シヤム種」、それから5枚目下の「エジプト種」が紹介してある。 「毛色」のところで、「日本種は白、黑、茶もしくはその斑〈ぶち〉か白黑茶の三毛に限られてゐますが、その模樣に依つて虎斑〈とらふ〉、雉猫〈きじねこ〉などの名稱があります。虎斑は虎の斑のやうなだんだらの斑があるもの、雉猫は一見雉のやうな毛並のものを云ふのです。外國種にはこのほかに赤茶、鼠、靑などの毛色もあつて、ペルシヤ猫は白、黑、金色、靑色、灰󠄁色及びそれ等〈ら〉の斑があげられます。」と説明してあり、つづいて「こゝで一つ不思議なのは、三毛の雄猫で、日本でも昔から三毛の雄は非常に數が尠〈すくな〉いために珍重されますが、歐米でも矢張りこの三毛の雄は殆んど生れず、優生學的にいろいろ硏󠄀究した學者もありますが、まだはつきりした理由は判らないやうです。卽〈すなは〉ち三毛の雄は科學的にも未だ謎の存在で、猫の七不思議が今一つ殖えた譯〈わけ〉です。」とあるのだが、三毛柄は伴性遺伝によるもの、ということがわかったのは結構最近になってかららしい。ネコの性染色体は人間と同じくXXが雌、XYが雄なのだが、遺伝の仕組みを理解させるために長年ネコの毛色について調査研究を重ねてこられた東京学芸大学附属高等学校教諭の浅羽宏氏によれば、メラニン色素(黒)かフェオメラニン色素(茶/オレンジ/黄)かを発現させるO遺伝子はX染色体に乗っているため、Xをひとつしか持たない雄は三毛にはならない(雄が三毛になり得るのは三倍体XXY)、という理屈のようだ。 http://ci.nii.ac.jp/books/openurl/query?url_ver=z39.88-2004&crx_ver=z39.88-2004&rft_id=info%3Ancid%2FAN00158465 ここに添えてある「變〈かは〉つた虎斑猫」は何種かは書いてないのだが、この太い渦巻き柄は「クラシック・タビー」と呼ばれる欧米に多い模様。今や「国産」をうたうネコ餌の容器にまで登場するほど人気の品種アメリカン・ショートヘアーなどはこの手だ。ネコの野生種と家畜種とを比較した図鑑、澤井聖一+近藤雄生『家のネコと野生のネコ』(エクスナレッジ) https://cat-press.com/cat-news/book-ieneko-yaseineko によると、13世紀にイタリアで生じた、という説と、イギリスの雑種の8割がこの柄ということから同国が発祥地なのでは、とする説とがあるそうだ。 なおネコの被毛の色柄表現にかかわる基本的な遺伝子は20種ほどあるそうだが、その仕組みについて浅羽氏のご解説を視覚的によりわかりやすくたのしく理解できるよう工夫した『ねこもよう図鑑』(化学同人) https://netatopi.jp/article/1201046.html がすこぶる面白いので、まだの方は是非ご一読いただきたい。 さて、昭和初期のネコの餌についてだが、もちろん当時は既製品のキャットフードなどはなかった。で、この本には「食物の與〈あた〉へ方」としてどのように書いてあるかというと、「普通朝夕の二囘、お飯の少量に牛乳か魚肉の煮たものを少し添へるか、その汁を交ぜてやれば喜んで食べます。非常にその點〈てん〉は樂で、魚の あら(<傍点つき) とか頭とか鰹節〈かつぶし〉の粉をふりかけて與へても喜んで食べます。味噌汁をかけてもお腹の空いた時は食べますが、一般的には菜食は不向で、その他では猫にも依りますがうどんを好んで食べるもの、鹽〈しほ〉せんべいを嚙んで與へると、これ又喜んで食べるものがあります。」とあって、要するに基本的にはいわゆる「ねこまんま」推しだったようだ。今日では、ネコの身体はナトリウムなどの金属を摂り込んでしまうとなかなかうまく排出できず、それが重なると健康を害することから塩気は極力避けることが推奨されているが、かつてはそういう知識はなかったため全く気にされていなかった。最近の飼い猫は栄養状態がよい上に家の外に出さない個体もふえていることから、前掲の「令和元年 全国犬猫飼育実態調査」によれば平均寿命が15.03歳とのこと、そういえば20年を超えたという個体の話もときどき聞こえてくるようになったが、塩分の摂り過ぎに飼い主が注意するようになったのも長生きにプラスに働いているのではないだろうか。なお、「さうした譯で食物は手近のもので間に合ひますが、食べ過ぎるとよく嘔吐することがあり、こんな場合殊更に靑草など食べて吐き出すものです。」とあるのは、毛玉吐きの習性が誤解されているものとおもわれる。7枚目のイギリスの猫病院はどうみても屋外だが、これは日本にはない形態なのではないだろうか。雨が大量に降ったりせず、そのかわり陽射しが少ない時期の長い土地ゆえかもしれない。 「飼育上の注意」として「最も大切な點は、猫の環境を住心地よくすることです。」とあるのは、今でも大いに首肯けるところ。8枚目の親ネコが仔ネコを運んでいる図は、「猫のお産」「仔猫」のところに添えてある。お産は床下などの薄暗い、外敵におそわれる心配のないところでするもの、と説いたあと、「仔猫を見たい許〈ばか〉りに、無暗〈むやみ〉に覗き込んだり、仔猫をいぢつたりしますと、母猫は不安を感じて、仔猫を啣〈くは〉へて他へ移轉することがあります。」と注意しているが、これも大事な点。トイレのしつけについては、「不淨を一定のところでさせる習慣をつけるため、戸外に出られる通路を作ってその度に外へ出すやうにするか、小箱に砂を盛つて、その中で行はせるやうに仕込みます。仕込み方は犬と同樣、繰返し行へば間もなく習慣となります。」と書かれている。箱に砂を入れてトイレにするのは座敷猫、つまりおそらくは(完全ではないかもしれないが)室内飼いの場合だろう。ブラッシングは日に一度はしてやることを奨めている。
愛翫動物 昭和05年(1930年) 昭和05年(1930年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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ペットとしてのウサギ@昭和初期の愛玩動物飼育手引書
明治の初め、さまざまな西洋の文物とともに舶来種のウサギももたらされ、にわかペットブームが起きたのだが、明治5年(1872年)からそれが本格化し人気の柄のものに高値がついて、投機に入れ込む人が続出し社会が混乱したという。 http://doi.org/10.15083/00031135 あまりのことに明治10年(1877年)対策として高額の課税がなされてブームはしぼんだが、ウサギの毛織物製造の産業課をこころみる動きがそのころからはじまり、明治30年代にかけていくつか会社も立ち上げられたものの、政府がバックアップをしなかったこともあって輸入製品に太刀打ちできず失敗におわったそうだ。大正も末になって、アンゴラウサギを蕃殖してその毛で商売しようという人も現われたが、昭和3年(1928年)あたりから養兎業者が増えてきて、さまざまな種類が飼われるようになったという。 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10076939&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 その一方で、利殖のためでなく純粋に生活にうるおいをあたえるためのペット飼育が、庭つきマイホームを手に入れた人々の間で流行るようになってきた。今回取り上げるのはそうした時期に出された、一般向けの総合飼育解説書のウサギのところ。 当時はペットショップなどはないから、ウサギを飼うための巣箱は自作する必要があった。1枚目の上のはビールびんの空きケース(2ダース入り木箱)を加工したもので、放し飼いができるような広い庭がない家庭用のもの、2枚目のはもっと広い敷地に拵える、庭木を取り込んで金網で囲った「兎のお家」。図には描かれていないが、金網の外から飼い犬が土を掘って中に入り込んだり、穴掘りの得意なウサギ自身が脱走したりしないよう、「尠〈すくな〉くも地下一尺位〈くらい〉は金網に限りませんが、兎の逃亡の邪魔になる亞鉛板か貫板〈ぬきいた〉を埋込んで置く必要があります。」と本文には注意書きがある。なお1枚目の下はウサギの持ち方を示している。なお今日では「耳はつかまない方がよい」という考え方に変わっているようだ。 3〜7枚目はウサギの種類についての解説に添えてある輸入種の例の図。「ベルヂアン種」はベルギー原産で野ウサギに似ていて、赤茶色の毛で耳や脚が長い。「フレミツシユ種」は「ベルヂアン」とフランス産の大型種「バタコニアン種」とをかけ合わせた中欧産の、当時最大種のウサギで灰色のが多い。「イングリツシユ種」は脊骨に添った1本の縞と、それから胴のわきと眼のまわり、鼻先、耳に黒斑がある特徴的な見た目。「白色メリケン種」は我が国在来種の白ウサギと外来種(どれなのかは書いてない)とを交配させて作った大きな白ウサギ。「ヒマラヤン種」は「露西亞種」とも呼ばれ支那北部産で、鼻・耳・脚・しっぽが黒くそのほかの部分は真っ白、というもの。「ダツチ種」はオランダ産で黒・灰・黄・白とその斑、と柄はいろいろ、写真のようにびしっと塗り分けになっているのが特徴。「ロツプイヤー種」は「耳が素適(<ママ)に大きい英國兎」で毛色は「ダツチ」に似ているが、虚弱なのが欠点。「チンチラ種」は昭和に入ってからひろまった、毛の特に柔らかい種。「シルバー種」はその名のとおり銀色の毛をもつ英国産の割と大きな品種。終いのもこもこしたヤツが「小亞細亞のアンゴラ地方の原産で、佛蘭西〈ふらんす〉で盛んに飼育され」ていたという「アンゴラ種」。白・黒・茶とそれぞれの斑があり、ご覧のとおり非常に毛が長いのが盗聴だが比較的弱いのが玉に瑕、というように解説している。このほかにフランス産のダッチ種の突然変異「ジヤパニーズ種」、イギリスでダッチ種に在来種を交配して作った斑の色が濃い「タン種」、オランダ原産で光の当たり具合により毛色が変わってみえるという「ハバナ種」、ベルギー産で白いのと青いのとがあるという「ベヘリン種」、イギリスでダッチ・アンゴラ・ローブ種などをかけ合わせて作出した緑色の毛の「インペリヤル種」も、図はないが紹介されてある。 さて、8枚目に掲げたのはこの章の最初の部分なのだが、これをお読みになるとおわかりのように、当時家庭でウサギを飼う目的は現在のように単に日常生活のともとしてかわいがるだけでなく、食肉目的もあった。輸出元の西欧諸国ではもちろん食べていたわけだし、我が国でも、鳥肉の一種という方便で昔から食べられていたから数えるときに「1羽2羽」という、とする説があるように、元から馴染みのある人々もある食材だったから、それは自然な流れといえるだろう。しかし、ここに「食肉の矛盾」として書かれているように、飼っているウサギを絞めて食卓にのせる、ということに抵抗を感じる人々が昭和のはじめには既にかなりの数あったことが知れる。
愛翫動物 昭和05年(1930年) 昭和05年(1930年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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罫線と花形@昭和初期の広告印刷解説書
誠文堂新光社の前身企業のひとつ誠文堂は、大正初期に書籍取り次ぎ業から転身した出版社だが、昭和に入って商業広告の専門誌『廣告界』を出すようになって商業デザインにも深くかかわるようになったことから、広告デザインや商業デザインに関するよい資料をいくつも出している。今回は昭和初期のそうした本のひとつから、活版印刷に用いる飾り罫についてのところを拾い出してみる。なお著者の郡山幸男は明治24年(1891年)に印刷雜誌社が発刊した専門誌『印刷雜誌』 https://books.google.co.jp/books?id=AtbdHMExz8oC&pg=PA36 の名と機能とを引き継いだ同名誌を大正7年(1918年)に創刊、戦後の昭和21年(1946年)には彼が設立にも関わった印刷學會の機関誌となり現在まで続いているという。 https://www.japanprinter.co.jp/company/ 1・2枚目は当時の最も代表的な罫線類で、「普通何所〈どこ〉の印刷所にもあり得べく、なかつたら、惡い印刷所と斷定してもよい程度のもの」を示している。活字と同じく鉛に錫・アンチモンを加えた合金製の、高さも同じ薄板の天地に線が彫刻してあって、必要に応じてそのつど適当な長さに切って使った。現在のDTPなどでも同じ名称(もちろん新字だったりかな書きだったりはするが)を使っているものが多いが、当時の印刷・出版業界での呼び方がわかるのはたのしい。なお「星罫」は三点リーダ(…)を細かくしたような点々の罫線のことだが、印刷がつぶれているのかとおもって拡大してみてもやっぱり單柱罫と変わりなくみえるので、恐らくこれは組版の時に間違っているのに誰も気付かなかった、ということなのだろう。10版も重ねて相変わらずこのまんま、というのは、印刷の専門書だけにちょっとかなしい(この本のどこかで実際に使っていればそいつも画像の隅っこに載せてやろう、とおもって3度ばかりひっくり返してみたのだが、残念ながら見つからなかった……)。 なお3・4枚目にかかげたところに書いてあるように、單柱罫の板は天地にそれぞれ細罫と太罫が彫ってあって、細い方を「表罫」、太い方を「裏罫」と呼んでいたのが、その元の意味はうしなわれた活版以外の組版でも使われている。 4枚目の続きのところには「飾罫線」の「最も普通のもの」の例が並べられている。当時はこういうのが流行していた、ということとおもわれる。5枚目の「オーナメント」が現場で「メント」ということもあった、などというのはさすがギョーカイに永年身をおかれた著者ならではの情報だろう。こうした形の仕切り飾りは明治期からあんまり変わっていないようだ。次の「ブレース」は今でも使う。今日では「中括弧」「波括弧」などとも呼ばれるようだ https://www.benricho.org/symbol/kigou_03.html が、昭和初期にどうだったかはここではわからない。6枚目の「花形」は、ここにもあるように活字と同じようにパーツひとつひとつが一本一本独立しているものをたくさん組み合わせて飾り罫やかつては「輪廓」と呼んだ飾り枠、地紋などに組むのに使った。こちらは結構流行り廃りがあったようで、形によっては時代がだいたい特定できる。 7・8枚目の「輪廓」は我が国のものではなく、「西洋の雜誌に現はれた輪廓を蒐集して見」たもので、7枚目の方は「多く英米」、8枚目の方はフラクツールが並んでいるのでおわかりかともおもうが「多く獨逸〈どいつ〉」の刊行物から採ったとある。当時の商業広告で評価が高いものには、2枚目にみられる「太雙柱罫」のたぐいを使ったものが多かったそうで、しかしこうしたもののうち特に装飾的な輪廓に使える罫線は、当時の日本の活版所では用意されていないものが少なくなかったという。おそらくはそのために、このように輸入雑誌などを集めてきて切り貼りした図案集が昭和初期にいくつも出されたりしたのだろうとおもわれる。
廣告印刷物の知識 昭和08年(1933年) 昭和05年(1930年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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大東京の橋@昭和初期の東京風景写真帖
今日は都知事選の投開票日……何ひとつ期待はしていないけれど、一応投票だけはした。ま、それはさておいて。 昭和7年(1932年)、大正12年(1923年)の震災の後にそれまで農村だった東京十五區の外側の郡部へ住宅地がひろがっていき、そのままのしくみではいろいろと障りがもちあがってきたところで、荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾の五郡だったところに新たに二十區を設定して三十五區からなる「大東京」になった。さらにその4年後、昭和11年(1936年)に北多摩郡の一部をくっつけて、現在の二十三特別区とほぼ同じ版図になった。そのへんの経緯などは「探検コム」のお方がわかりやすくまとめておられる。 https://tanken.com/35.html 住民が東京市外に移り住むようになったのは、震災で被災したというのももちろんあるが、都心部は煤塵などの公害がひどかったようだし、住環境も狭くてよいとはいえない状況になっていたから、この際もっと空気も水もきれいな広いところで暮らしたい、という人がふえたからだろう。 今回ご覧に入れるのは、ちょうどそのころの大東京の姿を紹介した小型の写真帖に載っている、いろいろな橋の姿。1・2枚目はご存知日本橋、明治44年(1911年)に架け替えられた石橋が今も使われているが、2枚目の図版と違って高速道路が上におっかぶさってうっとうしいことこの上ない。当時は中央に据えられていた道路原標も、都電の路線が廃止された昭和48年(1973年)に橋向こうに見える今はなき大栄ビル(旧帝國製麻ビル)の脇にどけられてしまっている。 https://blog.goo.ne.jp/ryuw-1/e/bc95758191a3d9f1b52e68aef01c742c 3枚目は隅田川にかかる橋々のなかから震災復興建築としての清洲橋と永代橋、それから駒形橋上から吾妻橋方向を眺めたところ、そして4枚目として拡大した部分には御茶ノ水驛に近い昌平橋あたりの中央線高架橋と聖橋。よくみると、聖橋の下の鋪道を若い女性がふたり歩いているのが写っている。 5・6枚目のはね上げ橋は、湾岸を走る貨物線が通っていた芝浦可動橋。 http://odawaracho.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-0ae8.html 廃線になった後もしばらく残っていたが、現在では東京臨海新交通臨海線が頭上を通る、新浜崎橋という特徴のない歩行用の橋にかけ替わっているらしい。 7・8枚目は新たに東京市に加わった地域から、世田谷區の多摩川にかかる鉄橋……ということなのだが、このトラス橋は鉄道線のように見える。世田谷区から多摩川を渡っている線路といえば東急田園都市線の二子玉川〜二子新地間しかない筈だが、二子橋梁はたしかこんな形はしていなかった。じゃあいったいこれはどこ? ……としばらく悩んだが、同じく東急の東横線が多摩川を渡る多摩川橋梁が以前はこんな鉄橋だったのを思い出した。 http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link151.html 同線前身の東京橫濱電鐵が大正15年(1926年)丸子多摩川驛〜神奈川驛間を開通させたときに造られたというが、二十世紀末ぐらいにかけ替えられて今はトラスじゃなくなっている。この橋の東京側は当時大森區(現在は大田区)の筈だが、丸子橋の上あたりからこの鉄橋方向にレンズを向けたとすれば、川向こうの左手や奥はたしかに世田谷區の玉川村ということになるようにおもう。
大東京寫眞帖 昭和12年(1937年) 昭和12年(1937年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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星座早見星図@昭和初期の一般向け科学雑誌附録
梅雨もたけなわ、雨が上がってもちっともすっきりしないので、せめて図版の星空でも眺めよう。もっとも、今日日の都区内の空なんて、夜半に屋根の上に出てみたって「……サソリはどこ?」ってくらい薄ら明るくてねぼけているのだけれども、まぁそれはさておいて。 昭和初期あたりの『科學畫報』や『子供の科學』のような人気科学雑誌は、毎年夏になると必ずといってもいいほど天文特集を組んでいたようだ。そして附録としても天文モノが企画されることが少なくなかったようだが、古書市場でときどき見かけるものと滅多に見ないものとの落差がけっこう激しい気がする。今回取り上げる小さな星図帳は、収蔵するまで一度も目にしたことのなかったもののひとつ。判型はたて21cm×よこ18.5cmほどで36ページ。巻号が書かれているだけで刊記はないが、本誌と同じ発行日なのは間違いないだろう。 天の北極と南極それぞれから赤緯45°までがひとつづつ、季節によって大幅に見え方の異なるそのほかの部分(南北の赤緯45°の間)は1年間を8つに分けて、そのなかの1日の夜半南中時の星々のならびを心射図法(ノーモン投影法) https://docs.bentley.com/LiveContent/web/ContextCapture%20Editor-v5/ja/GUID-CB5477DF-FFF6-DB0B-F3D2-AC57CA38DD39.html で描いてある、というもの。欄外に目盛りがふられているので、観測する日にちや時刻のずれはすぐに割り出せるようになっている。ここに掲げたそのうちの2点は6月21日(4、5枚目)と8月6日(6、7枚目)の真夜中の南空、ということになる。見開きの左側は夜空の見た目と比較できるようになっていて、右側の星座図と見較べることで注目している星の並びが何座なのかわかる、という仕組み。よくある回転式の星座早見盤とどちらが使いやすいのかはわからないが、なかなか面白い発想の小冊子だとおもう。我が国で昭和初期までに刊行された星図は、白地に刷り色で点を打った陰画のものが多いようにおもえるが、だとすればこの図版は実際の見え方に即して陽画で描いてあるという点でも割と珍しいのかも。 ただ、やや厚手の塗工紙ながら、褐変して角が崩れているところからして質がそれほどよくはなさそうで、これを頻繁に出し入れして眺めていたらたちまちぼろぼろになってしまうだろうとおもわれる。だから現存するものが僅かで、それゆえに見かけないのかもしれない。この図を組み合わせて箱に仕立てて中に入ったら、マウリッツ C. エッシャーの有名な版画作品のひとつ「もうひとつの世界」 https://www.wikiart.org/en/m-c-escher/other-world みたいでたのしそうだ。 追記:そういえば誠文堂が新光社を吸収合併して誠文堂新光社になったのは昭和10年(1935年)だった、と思い出して直すついでにこの附録の本誌の方を念のためあたってみたところ、編集後記「錦町より」に「附録「最新圖解星座」の解說並に圖表の作製は小森正氏が、星座圖の製圖は水路部の眞崎初太郎市が何れも御多忙の最中迅速に完成されたものである。」と書いてあったので、ラベルのデータをあわせて書き換えておいた。 この記事の投稿時には国会図書館デジタルコレクションの書誌データ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10984581 を元に書いたのだが、実のところ雑誌などは途中で版元名などが変わった場合でも最終的な名称で全号統一されてしまっているため、実際の奥附と違っている場合があるのだが、大概はインターネット公開されておらず画面上でどのように書かれているのか確認できないので、うっかりするとこういうヘマをやらかすのだった。
最新圖解星圖(科學畫報第二十一卷第三號附録) 昭和08年(1933年) 網版+活版刷り 洋紙(塗工紙)図版研レトロ図版博物館
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昭和十年代の東宝系映画館@昭和初期の興行会社史本
昭和18年(1943年)の暮れといえば大東亜戦の戦局がだいぶ悪化し、建物疎開のための閣議決定「都市疎開實施要綱」が出されたころだが、そんなときに大手興行会社・東京寳塚劇場(東寶)が創立十周年を記念して刊行した社史本に載っている、同社経営の都内映画館写真をご覧いただこう。どうしてそんな時局に出せたかといえば、もちろん当局の戦意高揚などの宣伝に一役買っていたからなのは間違いない。 1・2枚目の日比谷映畫劇場は省線有樂町驛近くに洋画専門封切館として昭和9年(1934年)2月開場、最新設備を完備しながらも50銭均一、という庶民的な入場料設定を初めて導入し話題をさらったという。昭和五十年代の末に取り壊されたらしい。 https://blog.goo.ne.jp/ryuw-1/e/0f5cb3dde19c28b71f607faf279b9cff 現在ではここに東宝日比谷ビル(日比谷シャンテ)が建っている。 3・4枚目の東橫映畫劇場は澁谷道玄坂に東寶直営館として昭和11年(1936年)11月開場、直後に運営会社が合併された、とこの本の「東寶十年史略」はいう。これは小林一三が東急の創始者五島慶太をたき付けて建てさせたものの、日比谷映畫劇場の観客がこちらに引っ張られては困る、と考えて出来上がったところですかさず取り上げてしまった、という話が菊地浩之氏のご著書『日本の15大同族企業』に出てくる。 https://books.google.co.jp/books?id=S-2fDwAAQBAJ&pg=PA62-IA2 なお、渋谷は空襲で大部分が焼け野原になったが、この建物は免れたそうだ。 http://www.touyoko-ensen.com/syasen/sibuyaku/ht-txt/sibuyaku07.html ☝の「昭和24年、渋谷駅前で焼け残ったビルの移動」のところに写っている。平成元年(1989年)2月まであったが、現在はここに渋東シネタワーが建っている。 5〜7枚目の帝都座は昭和6年(1931年)5月、日本活動寫眞の封切館として新宿通り沿いに開場。昭和15年(1940年)11月の末に東寶傘下になった。 https://suzumodern.exblog.jp/26434559/ 昭和47年(1972年)まであったというが、何月までだったのかは意外と情報が拾えない。今は新宿マルイ本店が建っている。 なお、7枚目の「帝都座グリル」(おそらく地下にあった食堂のことではないかと)内部風景は小さな写真なのだが、拡大してみるとお客がごはんを召し上がっているのがかろうじて見える。右手手前がネクタイをしめている?男性1名、左手奥に男女カップル……かな? 少なくとも、顔の見える方は女性のようだ。 8枚目は錦糸町駅前の操車場だったところに昭和12年(1937年)にできた遊園地、江東樂天地の娯楽施設のひとつとして、江東劇場とともに12月に開場した本所映画館。昭和20年(1945年)3月の東京大空襲で被災したもののこの2館の建物自体は残り、昭和46年(1971年)5月に閉場するまで続いたという。 http://www.cinema-st.com/road/r118.html 現在、楽天地ビルが建っている場所らしい。 ……というわけで、昭和初期のモダン建築映画館が空襲をくぐりぬけ、戦後も意外と長く命脈を保っていたのだが、今はひとつも残っていない。 ところで5枚目の帝都座外観写真、なかなかいい画なのだが残念ながらノドがきつくて右ページ側はうまく撮れなかった。ある程度以上のページ数のある束厚本はどうしてもノドの部分がみづらくなるが、この本のようにせっかく見開きで図版を大きくみせる趣向なのに、そのへんちゃんと配慮してくれていないのはいかにも残念。あるいはこれも、時局柄材料や精神的なゆとりがうしなわれていたあらわれなのかも……ともおもったり。
東寶十年史 昭和18年(1943年) 昭和18年(1943年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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生物ドローンカメラ@昭和初期の中等教育用理科図解参考書
最近はドローンを使って一般人でも割と気軽に空撮ができるようになったが、かつては伝書鳩に專用のカメラを取り付けて撮影させていたことがあった。明治40年(1907年)、ドイツ人薬剤師J.ノイブロンナーが初めて考案した「鳩カメラ」は、パノラマ撮影用だったそうだ。 http://blogbu.doorblog.jp/archives/52402641.html いわば「生物ドローンカメラ」といったところだが、いくら軽量機とはいえかなりデカいし、こんなじゃまくさいものを取りつけられて、ハトにはさぞや災難だったことだろう。 今回は、前にジュラルミンのところ https://muuseo.com/home/734046 を取り上げた昭和十年代の中等教育理科の図解参考書から、その「寫眞機」項に載っている図版を眺めてみることにしよう。ここに鳩カメラが出てくる。1枚目のページ中の「3」のハトと6枚目のページの左上のハトは構図がそっくりでカメラの向きとか右側に鉛管がくくりつけられている脚とかも似通っていて、ぱっと見まるっきり同じ写真のようにも見えるが、よ〜く視ると前者は頭から何か被せられているようだ。 8枚目にご参考までに掲げておいた「航空寫眞」解説には、「之〈これ〉は歐洲大戰以來,大いに發達して來たものであるが,今日では,平時に必要缺〈か〉く可〈べか〉らざるものとなつて來た」とあるが、図版の方はキャプションに「軍用鳩の體につける寫眞機」とあるように、新聞社などの民間企業ではなく陸軍の鳩を撮ったものとおもわれる。背負いケージや車輪つきの鳩小屋の図が写真ではなくイラストなのは、恐らく「撮影場所を特定されては困る」とか、何かしら軍機に引っかかるからなのだろう。
解說實驗應用理科講義 昭和13年(1938年) 昭和13年(1938年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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120年ほど昔の武漢全景@明治後期の世界地理風俗写真帖
今年に入ってからというもの、ほとんど伝染病との関連でしか語られなくなってしまった街だからといって、その昔のことについて識っておくことに意味がないとはおもわない。ということで、3回前に西アジア風景を採り上げた写真帖に載っているパノラマ写真で20世紀初頭の武漢の景色を眺め、あわせて当時どのように解説されていたかをみておくことにしよう。 現地について詳しく調べたり訪れたりしたことがあるわけでもないのではっきりしたことはいえないが、2枚の写真が同じ高台から連続して撮られたものだとすれば、上が長江、下が漢江で手前の街並みは漢陽、漢江を挟んで向こう側が租界のあった漢口、そして長江の向こうにかすむ一帯が武昌、となるとこれは大別山頂からの眺めということになろうか。「百湖之市」と今も呼ばれるだけのことはあって、水たまりがあちらこちらに散在しているのがわかる(ちなみに、現在は162あるそうだ http://www.xinhuanet.com/politics/2019-03/31/c_1124307758.htm )。解説に「蘆漢鐵道」とあるのは京漢鐵路のことで、盧溝橋と漢口とを結ぶ路線として計画されたから当初はそう呼ばれたらしい。明治39年(1906年)4月1日に全線開通したというからちょうどこの写真帖の初版(5月26日出版)が出る直前ということになるが、実は明治33年(1900年)に北京正陽門(前門)まで延伸された際に改称されたのがここでは反映されていない。支那語訳文でも同じように書かれているところをみると、その辺の事情が編集者側で把握できていなかったのだろう。予定線としてここに書かれている粤漢鐵路は清朝が倒れたあとの昭和11年(1936年)6月に開通、また漢訳の方にしか出てこない川漢鐵路は四川の成都と漢口とを結ぶ計画だったが結局造られなかった(戦後の昭和27年(1952年)になってその一部にあたる成都〜重慶に成渝鉄路が敷かれた)そうだ。それはさておき、交通の要衝としてアメリカのシカゴに肩を並べる、という説明がおもしろい。武昌、漢陽、漢口あわせて当時120万近い人口があったというからかなり大きな都市だが、19世紀半ばの太平天国の乱よりも前は400万以上だったというから、それから較べたらずいぶん減ったともいえる。 なおこの写真を提供した高田早苗は当時早稲田大學総長を勤めていて、同大学関係者らとともに明治40年(1907年)「日清生命株式會社」という生命保険会社を立ち上げているのだが、この会社は「日支兩國に亙る一大生命保險」を目指して企図されたという話 http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/30602/1/0911905201.pdf からすると、時期的にもその準備のための視察でこの地を訪れたついでに撮影したのかもしれない。真ん中あたりが歪んでいるところからして、二つに折りたたんであったものとおもわれる。
地理風俗世界冩眞帖 明治39年(1906年) 明治39年(1906年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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オスマン帝国時代の西アジア風景@明治後期の世界地理風俗写真帖
COVID-19パンデミックのおかげで、当分の間おいそれとは旅行にも出かけられないので、今回はせめてものことでレトロ図版の海外観光気分をおたのしみいただくとしよう。20世紀初頭、まだオスマントルコが西アジア一帯に広大な領土を持っていた時代の写真を何点か。 最初のごはん風景、ご一家が食卓を囲っておいでの場所はどうやら建物の外のようだが、果たしてムスリム家庭の団欒がこんな風に男女一緒で眺められることがあったのだろうか……女学校の先生が頼み込んで特別にやってみせてもらっただけなのかもしれないけれど。母らしき中央の女性はさすがに、顔を布で覆ったままそっぽを向いておられて、お召し上がり中ではなさそう。2枚目は今でいうエルサレムの旧市街、神殿の丘側から眺めたところだろう。当時はアルメニア人住民もたくさんおられて、今とは違ってさまざまな経典の民が雑ざり合って暮らしていた。 3枚目の上は編集の都合らしいがちょっと場所が飛んで、ペルシア(今のイラン)の、ブルカを纏ってお出掛け中の婦人たち。下はまたエルサレムに戻って、いわゆる「嘆きの壁」だろうとおもうが熱心に祈りを捧げる人々のようす。現代のこの場所の写真をみると男性ばかりが目立つようにおもえるが、この図版ではむしろ女性が多そうにみえる。4枚目上は旧市街を西側の囲いの外から眺めたところ、下は預言者イエスの逸話が残るゲッセマネの園の風景だそう。 5枚目上はかの有名な塩水湖・死海、水着の観光客が大勢浮かんでいたりはしない。下はヤーファーの港町、ここは1950年に北隣のテル・アヴィヴと合併されているとのこと。この写真集の解説には街路が狭く不潔この上ない、ということが書かれている。6枚目上はベート・レヘム(ベツレヘム)市街とその手前に降誕教会、下の右は教会内部のようす、そしてその左はアナトリア半島北西部にあるアスランタシュ遺跡の、2頭のライオンを彫り込んだ巨大な岩の墳墓。 7枚目はディマシュク(ダマスカス)市街、8枚目は右がアナトリア高原南東側をシリアと隔てるトロス山脈をやや離れて眺めたところ、左の「アンゴラ」市街というのはアフリカ南西部の国とは関係なくて、今日のトルコ共和国首都アンカラのことのようだ。
地理風俗世界冩眞帖 明治39年(1906年) 明治39年(1906年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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アメリカ・フランス・日本のレヴュー@昭和初期のエロ・グロ・ナンセンス図鑑
モダン尖端文化華やかなりし1930年代に刊行された、一風毛色の変わった「圖鑑」に載っている、ニューヨークのブロードウェイ、パリ、そして日本の東京・大阪で公演されているそれぞれのレヴューの特色を紹介した記事。 レヴューやヴォードヴィル、キャフェ・コンセール、サーカスなどを総称してアトラクションと呼ぶ、というようなことを『キネマ旬報』誌同人で映画評論家の内田岐三雄〈うちだきさお〉が同誌でおよそ2年にわたり断続的に連載していた「アトラクション講座」冒頭で語っているが、大正後期から昭和初期にかけては映画館でも実演アトラクションを併演してお客を引っ張っていたこともあってか、映画批評や脚本書きなどで飯が喰えているような愛好家の中にはフランスやアメリカまで渡航して現地のレヴューを観ておられた方も少なくない。ここで解説をなさっている、同じく同人の松井翠聲や如月敏もそうした人たちだ(余談:図版研ではとある方面のご依頼を受けて、昨年いっぱいずーっとアトラクションまわりの資料を本1冊書けるほどあつめ、実際に執筆にもちょこっと手を着けたりしていたのだが、今年に入って先方からの音沙汰が途絶えたため打ち切った。こちらの企画でもないのに勝手に進めるわけには行かないし、それにどーしても本にまとめておきたい、というほどに興味あるテーマでもないので、どうやら日の目は見なくて済みそう)。 アメリカのレヴューはこれでもかと金を注ぎ込んだ豪華な演出だが、露出度はそれほど高くない。フランスの方は少なくとも臍から上の身体は覆わないのが当たり前で、ここにも書かれているように股間の前だけ葉っぱのような飾りで隠しているような衣裳(……なのかしらん?)も珍しくなく、国外からの観光客の度肝を抜いていたようだ。当時の写真を眺めてみてもそれほどとも感じないけれども、この時代の人々にしてみれば強烈な刺戟のショウだったことが、こうした記事から知れる。 それに較べたら日本のレヴューは、殊に人気を誇った松竹のものなどは「エロ」の面ではかなりおとなしい。寳塚少女歌劇は華やかで更に上品な感じだが、白井鐵造が持ち込んだ演目「モン・パリ」「パリ・ゼット」など、オリジナルはそれとはかなり雰囲気の異なる「エロ百パーセント」の「ハダカ踊り」だったようだ(公演を撮影した同名の映画作品が輸入上映されていたことが当時の映画雑誌の広告や記事などからわかるので、そうした現地事情は日本人にも結構広く知られていたらしい……よくぞ検閲で撥ねられなかったな、とおもうのだけれども)。 如月も感歎しているように、昭和に入った辺りになると洋食など栄養のよい食事で育ち美容にも気をつかい化粧法に手慣れた、前の世代とは顔立ちも身体のプロポーションも大きく異なる、おもわず見とれてしまうようなお嬢さん方が街を闊歩するようになった。そうした変化が舞台の上の世界にもはっきりとあらわれ、欧米のショウと見較べてもそれほど見劣りしないステージを堪能できるようなモダンな世の中になってきていた……戦争がそれを許さなくなるまでは。
現代獵奇尖端圖鑑 昭和06年(1931年) 昭和06年(1931年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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セルロイドを造る機械たち@昭和初期の一般向け工業製品工程図解書
今やほとんど石油製品に取って代わられて、国内では全く造られなくなってしまったセルロイドは、その独特の風合いや手触りで根強い人気を保っている合成樹脂だが、戦前には世界市場で圧倒的なシェアをもつ有力な輸出品だった。元はアメリカで考案された技術だが、可塑剤として使われる樟脳を採るクスノキが東アジアにしか生えておらず、明治28年(1895年)にその精油を豊富に供給できる台湾を併合した日本は、それまで輸入していたセルロイドの国産化に邁進するようになったのは自然な流れだったろう。なにしろ、繊維素(セルロース)の原料となる木綿ぼろも加工に添加するエタノールも国内で安定して確保できるものばかりだったからだ。 今回紹介するセルロース製造工場内部の図版は、この本の序文に列挙されている材料提供に協力した団体等一覧、及びこの章の解説内容からして大日本セルロイドのものとおもわれるが、同社は大正8年(1919年)に8社が合併してできた企業なので、そのうちのどの場所なのかはわからない。日本化学会が認定した化学遺産第009号「日本のセルロイド工業の発祥を示す建物及び資料」には、そのうちの1社堺セルロイドの工場内部写真が載った『記念帖』が含まれるが、その紹介記事 http://www.chemistry.or.jp/know/doc/isan009_article.pdf で見くらべてみると、そちらよりはだいぶ狭いような印象をうける……が、それは単に写真の撮り方の違いによるのかもしれない。この本の解説によれば原料となる硝化綿(ニトロセルロース)の製法にはいろいろあるのだそうだが、当時最もひろく行われていたという「壺式硝化法」がここでは図解されている。1枚目の、タイトルとともに写っている製品は靴べら、交通機関の回数乗車券を入れる透明ケース、その奥の手提げ籠のようなものはおむすび入れかしらん。 さて、2枚目の工程図解に沿って写真を眺めてみることにしよう。まず最初の「ぼろの撰別」は、染めたぼろが混じると後にセルロースに着色する際に色味が意図と違ってしまうため、白いものだけを選り分けておく必要あっての作業だそうだが、よく視ると集塵機の下で立ち働く女性とおもわれる作業員はみなマスクをしていて、おそらくは埃がもうもうと立ちこめる、いかにも身体によくなさそうな作業環境におもわれる。こうした単調な選別作業は、昔はだいたい女性ばかりが充てられていたことが、古い図版を数多く眺めていると読み取れる。 2番目の「捏和〈ねっか〉機」は硝化綿に樟脳とエタノールを加えて密閉槽で熟成させた餅のように粘り気のあるセルロイドの塊を温めながらこねる機械で、色を着ける場合はここで着色剤を加える。3番目の「壓延機」は、捏和により均一に混ざって僅かに黄色みを帯びた透明になったものをこれのローラーにより蒸気をあてながら圧し延ばして板状にする。セルロイドは元々、ビリヤードの球を造るのに用いられる象牙の代用品として考え出されたものだが、同じく動物原料の鼈甲の模造品や、その他の美しい模様は、色彩や透明度の異なるセルロイド塊をこね合わせ具合を巧く調整したり、あるいは複数種の板を重ね合わせて圧縮したり、というような職人の工夫と技術とにより作り出されるのだそうだ。そうしてできあがった板には気泡が含まれているので、それを温めながら水圧をかけて追い出し、畳くらいの大きさの分厚い板状になったものを4番目の「裁斷機」で切り揃える。表面に艶出しをする場合には板が冷えてしまわないうちに5番目の「光澤機」にかける。さらにバフで磨いてつやつやにすることもあるという。最後の「成形作業」は人形などの中空の製品を造る工程で、真鍮製の鋳型の間にセルロイド板を二つに折りたたんではさんで加熱し、折り曲げた生地の間に細い管で蒸気を吹き込んで型に密着させてから空気を吹き付けて冷すやと形ができあがる。あとは鋳型から外してはみ出た余分な部分を削り、色を塗ったり艶出ししたり細かい彫り込み加工などを施して完成させる、という手順が解説されている。 セルロイドは加工がしやすく、一度固まると変形しにくく、じつにさまざまな用途に利用されていたが、非常に燃えやすいという欠点がある。卓球の球は今でもセルロイド製のものが使われているが、材質が劣化してくるとその分解熱で自然発火してしまう危険性がある、と日本卓球協会が警告している。 http://www.jtta.or.jp/Portals/0/images/news/2016/kikenseruroido.pdf 今のコレド日本橋のある角地にかつてあった白木屋百貨店で昭和7年(1932年)暮れに起きた昭和初の高層建築物火災は有名だが、売り場の電飾を修理しようとして誤って電線をスパークさせた火花がクリスマスの飾り付けに引火し、それがさらにそばのセルロイド製人形などに燃え移ってあっという間に火の海になったという。 https://www.tfd.metro.tokyo.lg.jp/libr/qa/qa_38.htm https://bunshun.jp/articles/-/19515 大正〜昭和初期の映画雑誌を読んでみると、各地の映画館でしばしば大勢の死傷者を出す痛ましい火事を伝える記事が出てくるのだが、これも当時の映画フィルムがセルロイド製だったからで、映写機の光源に使っていた炭素アーク灯の熱とか、冬場にそばにある暖房用火鉢にうっかり近づけたりとかで一旦燃え上がるともう手がつけられなかったらしい。この章の終いには「特殊セルロイド」として大日本セルロイドの製品がいろいろ載っているが、その中には不燃性のものもある。しかしこれが大いに普及しなかったらしいのは、どうやらコストが需要に見合わなかったかららしい。同社から昭和8年(1933年)に写真フィルム事業専業として分かれた富士寫眞フイルムは国産映画フィルム製造のさきがけだが、早々に開発に着手していた不燃性フィルムベースの量産化に目処が立ったのは昭和27年(1952年)も暮れになってからのことだったそうだ。 https://www.fujifilm.co.jp/corporate/aboutus/history/ayumi/dai2-04.html 大東亜戦中は外交関係の杜絶、綿火薬としての用途も大きかった硝化綿の軍需対応による工場の業態転換などで停まっていた輸出も、工場設備の戦災被害が小さかったこともあり戦後には盛り返し、昭和24年(1949年)には再び世界のトップシェアを握った。難燃化に向けた取り組みも続けられていたそうだが、敗戦に伴うインフレーションの影響が大きかった上、昭和20年代半ばからは発火の危険性もなく安価な石油系が出まわるようになり、燃えやすさが改めて大いに問題視されれたことに加え、価格面でもコスト割れして市場がみるみるしぼんでいった。それからわずか10年ほどで、セルロイドは樹脂製製品に占める割合は1%を切ったらしい。そして平成8年(1996年)には、ついに国内生産は打ち切られてしまった。現在国内需要にこたえている製品はすべて輸入品だ。 http://www.celluloidhouse.com/kenkyu24.pdf セルロイドは埋めておけばちゃんと土に還る。いつまでも環境に残る石油系プラスティックによる生物への悪影響が大いに問題になっていること、代替品としてのいわゆるバイオプラスティックが必ずしも無害なかたちで生分解されない上、透明なものを造るのも難しいことを考えると、セルロイドの改良を今一度研究してみる余地はないのかな、とおもってしまう。
圖解商品の科學 昭和12年(1937年) 昭和12年(1937年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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来たるべきオリンピック大会場想像図@昭和初期の子ども向け科学雑誌
昭和12年夏、子ども向け科学雑誌のカラー口絵として巻頭を飾った、その3年後に東京市内で開催予定だった我が国初のオリンピック大会の、当時最尖端の科学技術の粋を集めた「來るべきオリムピツク大會場」想像図。目次では「一九四〇年オリムピツク競技場」という題になっている。 テレタイプや大型のファクシミリなど、今やすっかり過去の遺物となってしまった器械装置が並んでいるが、これが当時の「近未来」として若者の胸をときめかせていたのだ。左下の黒っぽい図はよくみると「家庭におけるテレビジョン」と書いてある。当時のディスプレイ装置は以前にも紹介した https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/90 ように非常に画面の小さいブラウン管しかなかったので、どうやらこれはプロジェクターで壁か映写幕に投影する方式のもののようだ。残念ながら最後の行がちょん切れてしまっている下欄外の解説文によれば、超短波で送波するため東京からせいぜい横浜市内くらいまでしか受信できないものの鮮明な画像が期待される、とある。後に三国同盟を結ぶドイツやイタリアよりもアメリカの旗が、日の丸と並んで大きく描かれている辺りに、一般にとってはまだ平和そのものだった当時の雰囲気が読み取れる。 それにしても、この図版を手に取って眺めながらわくわくしていた少年たちが数年後にたどったであろう運命をおもうにつけ、つくづく未来がどうなるかなんてわからないものだ、と考えてしまう。今直面しているCOVID-19パンデミックだって、今年の初めに誰がこんな状況を予想していただろう。1年先に延期された東京オリンピックが果たして開催できるかどうかだってわからない。ましてや、我が身や世の中が5年先、10年先にどうなっているかなんて、到底わかりっこないのだ。
子供の科學 第二十三卷第七號 昭和12年(1937年) 網版+活版刷り 洋紙(塗工紙)図版研レトロ図版博物館