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かわいいイラストの近現代史年表@昭和初期の少年ヴィジュアル百科事典
国家総動員法が制定され、いよいよきな臭くなってきた昭和13年に刊行された、少年向けヴィジュアル百科事典に載っている「現代の繪話」というタイトルの、明治初頭から昭和初期にかけてのカラーイラスト年表。 子どもたちの興味を惹くためだろう、かなりトリビアルなネタも取り交ぜてあって、かわいらしい彩色の絵も親しみやすく、面白い仕上がりになっている……が、しかしこうしてみると、ひと昔ふた昔前の日本は結構物騒な世界だったんだな、と改めて感じさせられる。 この本全体が、装幀デザインからして「たのしく国威発揚・戦意昂揚」を目指した編集方針なのがみてとれる、ある意味「わかりやすい」方向性の百科事典なのだが、図版が(巻末の政治家や軍人などのおエラ方顔写真は別として)全般的にかわいい感じで、なかなか魅力的。 それにしても、この絵を眺めて眼をきらつかせていた少年少女たちが、その数年後にどのような人生を歩んでいたのかは知る由もない。ただ、少なくともこの当時に思い描いていた将来とは、かなり違ったものであったろうことは、想像に難くない。 文化によって得られたものは千年、二千年経って、その価値をいよいよ増して残り得る。しかし戦争によって得られたもののうち、千年経ってなお残っているものは、「破壊の傷痕」と「消しがたい遺恨」がほとんどだろう。 それでも為政者が敢えて戦争に踏み出す選択肢を決して棄てようとしないのは、短期的には自身の立場や権益をまもったりつよめたりするのにおおいに役立つことを知っているからだろう。殊に、自国内や自身のまわりに、国民の視線を一刻も早く逸らさせたいような問題を抱えている塲合には。
少年百科寶鑑 昭和13年(1938年) 昭和13年(1938年) 網版刷り図版研レトロ図版博物館
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商店建築図案@大正後期の商店建築デザインコンペ優秀作品選集
前回のショウウィンドウ図案 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/154 に引き続き、震災復興期の建築資料展覧会に出品された公募商店建築デザイン画の受賞作を今回は取り上げる。 1・2枚目の「洋品化粧品ト美容店」、3枚目の「喫茶店」、4枚目の「金物商(普通一般家庭ニ用フル諸金物)又ハ硝子商(シートグラ(<「シートグラス」の誤りとおもわれる。要するに板ガラス)及びガラス製器具)」の3つが金賞、5枚目の「寫眞機諸材料店」、6枚目の「化粧品店と附設理容館」、7枚目の「寫眞機業商店」、8枚目の「小さな百貨店」が銀賞を勝ち取った作品。各階平面図もそれぞれにあるのだが、画像の枚数制限があるのでほぼ割愛。どれも正面の造作はかなり凝っている。屋上庭園を設けたり、水洗便器や汚水浄化装置・温水暖房設備を導入したり、とかなり先進的な仕様で、最初に掲載されている建物などは、1階が洋品雑貨売り場と事務室、2階が化粧品・薬品売り場と休憩室、3階が男女ヘアサロンと貸し展示会場と事務室、4階が店主一家の住処と女中、店員の居室というプランが想定されていて、荷物上げ下ろし用のエレベータまである。二つ目の喫茶店は貨客用エレベータつきだ。内部は壁面にレリーフをあしらい、調光スイッチつきのブラケット灯がそれを照らし、またガス灯も併用すると書いてある。三つ目の商店は金物やガラス製品以外の小売商でもよく、また上階は貸店舗や賃貸居室を設定可能なことも想定している。 実はこの図案集、国会図書館デジタルコレクションに帝國圖書館旧蔵の初版が公開されている https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966918 のだが、序文の後の図版ページが頭から4丁分失われている。だから最初の「洋品化粧品ト美容店」は平面図も含めまるまるなく、次の「喫茶店」も正面図・立面図が欠けているのだ。帝國圖書館の蔵書は、デジタルコレクションでインターネット公開されているものだけでも一部のページ抜けや破れ欠損・書き込みなど、利用者のモラルを疑わせる痕跡が相当数みられる。この本の欠落ページも最優秀作品のところが消えているわけで、おそらくはさもしい性根の手合いがこっそり破り取って持ち去ってしまったものとおもわれる。いつの世にもほかの人々の迷惑を顧みない困り者は少なからずいた、ということを端的に示しているのだろう。 なおこれらの図版は拡大してみても網点がなく、写真をコロタイプで縮刷したものとおもわれる。だから細かいところまでかなりよく見えるのだけれども、それでも手書きの解説文や註釈などの文字が小さくてなかなか読み取りづらいページもある。余白をかなり大きくとってあってかっこいいレイアウトではあるが、それにしてももうちょい読みやすくできなかったのかな、というのが正直なところww それにしても、こんなスタイリッシュで趣味のよい建物群が整然と建ち並ぶ通りを散歩したら、どんなにか心たのしいことだろう。今のピカピカした、面白味も統一感もないガラス張りのハコをごちゃごちゃと並べたてた都市風景は、機能的にははるかに進歩しているのだろうけれどもどうも好きになれない。
商店建築及店頭計畫圖案 大正13年(1924年) 大正13年(1924年) コロタイプ図版研レトロ図版博物館
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商店ショウウィンドウ図案@大正後期の商店建築デザインコンペ優秀作品選集
大正12年(1923年)9月、南関東を襲った大震災により壊滅した帝都を、単なる都市機能の復旧だけでなく、その景観をも意識した美観あふれる街として復興しよう、という機運はかなり早くから盛り上がったようで、だいぶ前に図版研架蔵資料目録の方で昭和初期の例を取り上げたことがあるが、欧米の都市で最尖端のデザインを身をもって接してきた民間人による図案集が大正の末ごろから続々と刊行された。その一方で、公の機関による商店建築のデザイン競技会が企画され、公募作品のなかから特にすぐれたものを集めた図案集も震災の翌年に出ている。これは予想を超えた人気を呼んだらしく、なんと初版が出てから半月で再版されている。今回はその図案集から「店頭計畫圖案」、つまりショウウィンドウのデザイン画をいくつかみてみることにしよう。 この本の序文によれば、その競技会は府立東京商工獎勵館が大正13年(1924年)5月1日から翌6月10日まで開催した「帝都復興建築資料展覽會」の展示品の一部として企画されたもので、「(甲)商店(住居を含む)計畫圖案」「(乙)店頭計畫圖案」の二種を募集した。いずれも幅11メートルの大通りに面した、間口10メートル奥行き25メートルの敷地に新築するものとし、甲の方は鉄筋コンクリート耐火造に限り、乙の方は任意とされていた。懸賞として最優秀賞である金賞は3名、優秀賞の銀賞は5名と設定されたが、4月25日の〆切までに寄せられた応募総数は260、半分以上は東京府内からだったが関西からのものも多く、北海道や満州から送られてきたものもあったという。乙、つまり店頭計画図案はそのうちたった32で、やはりどうせ出すなら建物全体をやりたい、と考えるデザイナが多かったようだ。委嘱された4名の専門家が審査した結果、商店建築110、店頭は18が入選となり、そのうち金賞はいずれも商店建築、銀賞はひとつを除いてやはり商店建築が受賞した。展示会場では入選作品全128点が観覧に供され好評を博したそうだ。 なお府立東京商工獎勵館は、欧州大戦後に盛んになってきた国内工業のレヴェルアップを目的に東京府と実業界とがタイアップして大正6年(1917年)から寄附を募りはじめ、同10年(1921年)にそれを資金として有楽町の東京商業會議所そばに建てられたそうだ。後には東京都へ引き継がれ、大正13年(1924年)設立の東京市電氣研究所の後身と合併して東京都立工業技術センターとなったが、これが現在の東京都立産業技術研究センターの前身のひとつとなったという。 https://tobira.hatenadiary.jp/entry/20140715/1405402793 さて前置きが長くなってしまったが、1・2枚目が店頭計画図案作品の中で唯一銀賞を勝ち取った入選作。アール・ヌーヴォー調の植物文を主体とした、現在の東京ではおよそお目にかかれないような優美なデザインで、特に照明効果を意識しているためだろう、夜景として描かれているようだ。説明文には「洋品店店頭として計畫せり」とある。金物はすべてブロンズで、青みがかった仙徳鍍金仕上げ https://www.atomlt.com/kanamono_sc/sc03/sc03_13/ 、左右の飾り窓周囲は特製タイル貼り、内部の天井部分は金属板に銀色のエナメル塗装で前面は分厚い磨き板ガラス入り、入口手前の天井は石膏色に金彩、床は人造石磨き出しで植物や小鳥の模様を描きタイルを貼りまぜるなど、あれこれ凝った仕様が指示されている。 3枚目以降は「選外」で、「MATSUYA」とロゴが掲げられているのは化粧品店、4枚目はショウケースの中にグランドピアノやギターが見えるとおり楽器店、5・6枚目の「アサヒヤ」は洋服洋品店、7枚目の「TOILET SHOP」は化粧品店で、外光が前者の立面図で庇下や張り出し窓のショウケースなどに影をつくり、後者の平面図で2箇所ある両開き框扉のガラスを透かして店内に床面を照らしているさまが表現されている。8枚目は文房具店で、まぐさを飾る銅鈑打ち出し模様や鉄骨鋼鈑張りに繊細な模様のステンドグラスをあしらった左右出入り口の扉など、これまた凝った造りだ。 折角なので、次回は商店建築図案作品の入選作の方も取り上げてみることにしよう。
商店建築及店頭計畫圖案 大正13年(1924年) 大正13年(1924年) コロタイプ図版研レトロ図版博物館
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帝都から東(というか北)への旅マップ@二十世紀初頭の観光ガイドブック
前回 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/150 のつづき、まずは追記に書いたように琉球と臺灣の地図を洩らしていたので、「東部」篇に移る前にご覧いただこう。タイトルが「大島及琉球諸島」となっているが、左側の臺灣の左上に「臺灣圖」とあるところからして、この「大島」というのは臺灣島のことではなくて奄美大島を指しているものとおもわれる。こちらはさすがにつながっていない地域の境目に赤線がひっぱってある。前回の小笠原諸島のところも、本来はこのような線がおかれる筈がうっかり忘れられたのではないかしらん。 さて、2枚目の「北陸道」からが「西部」に対する「東部」の各地地図として載せられているもの。7枚目に掲げた本文冒頭部をご覧いただければおわかりのとおり、臺灣から再び帝都に舞い戻って今度は上野より出発している。3+4枚目の「東山道」は長いため、「中山道」と「奥羽」とに分けてある。5枚目の「北海道」には千島列島も載っているが、こちらの仕切り線はなぜか赤い線ではなくて薄い青の親子罫だ。地図10枚のデザインが統一されているようで、細かいところはそのへんあんまり気にしていない気ままさ加減だ。そういえば、こちらの巻にはなぜか目次もない(おそらく単なる落丁ではないとおもわれる)。 なお千島は当時遊覧できるような地域ではなかったのか、本文にはひと言も出てこない。終いの方の航路案内は東京灣内からはじまって東北・北陸・北海道方面のものがひと通り紹介されたあと、8枚目にあるように「伊豆七島及小笠原島」でしめくくられている。こうした掲載順も、当時の「国内旅行観」をあらわしているようで面白い。
日本海陸漫遊之栞 東部 明治36年(1903年) 明治36年(1903年) 銅版刷り図版研レトロ図版博物館
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帝都から西への旅マップ@二十世紀初頭の観光ガイドブック
大阪〜神戸間に蒸気船が就航したのが明治元年(1967年)、東京〜橫濱間で旅客鉄道が動きはじめた明治5年(1872年)だそうだが、以降路線がふえていくに連れ、あちらこちらへ観光旅行に出かける人々が増えるとともに、やがてそうした旅へいざなう案内書も次々に刊行されるようになっていった。今回は、20世紀が明けたころのそうした本のひとつに載っている地図を眺めてみよう。 この本では主な鉄道と船の路線に沿って各地の見どころを紹介しているのだが、全国を10枚の地図に分けて、鉄道は赤い実線、航路は黒い点線で示している。明治30年代にもなって、行政区ではなく昔ながらの五街道や旧国名表示って、古くさい感じがしなかったのかな? などとおもってしまうのだが、当時の世の中にもこういう「諸国漫遊」趣味が受け容れられる下地がちゃんとあった、ということなのだろう。色味に明治らしいやわらかさがあって、しかもわかりやすく描いてある。該当地域以外をさっぱりと白抜きにしているのも画面がごちゃごちゃしなくて、なかなかいいアイディアだ。各地図のタイトルに、いちいち「漫遊之栞」と隷書体風の赤い図案文字で大きく書いてあってたのしい。 上下2冊に分かれていて、それぞれそれぞれ「西部」篇、「東部」篇になっているのだが、先にも書いたように路線別なので「西部」といっても最初は東京から始まっている。1枚目の「東海道」の沖合には離島も描かれているけれども、はるか南の小笠原諸島などは伊豆諸島の右側に(むりやり)たくし上げてある。その間に区切り線もなにもないのは、ちょっと珍しいとおもう。「東海道」や2枚目の「畿内」は鉄道路線がかなり整備されてきているけれども、3枚目の「南海道」や4枚目の「山陰道及山陽道」、5枚目の「西海道」はそれに較べたらまだごく一部にしか敷かれてないことがひと目でわかる。なお本文では九州地方につづいて沖繩や臺灣まで紹介されていることが、8枚目に掲げた目次の項目からおわかりいただけるだろう。 次回は「東部」の地図をご覧いただく予定。 追記:我が国の版図なのに、なぜか琉球や臺灣の地図がない……と終いのところに書いていたのだが、それはどうやら記事を書いているヤツに「各巻地図が5葉づつ」という謎の思い込みがあったようで、それで見落としていただけで実はちゃんとあった。でも折角載せた画像を取っ払うのもどうか、ということで、抜けた地図は次回にまわすことに。あしからず〜。
日本海陸漫遊之栞 西部 明治36年(1903年) 明治36年(1903年) 銅版刷り図版研レトロ図版博物館
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包帯の巻き方図解@昭和初期の看護教科書
最近、割と身近で外科手術を受けた方があった。そろそろやらねばならない時期で、ご商売もCOVID-19パンデミックのあおりでお休み中、ということもあってちょうどよいタイミングでの施術、ということだったようだが、でも夏至も前から30℃超えの暑さに見舞われている最中に包帯ぐるぐる巻きだなんて、考えただけで気が遠くなる。 さて、今回は日本赤十字社傘下の病院などで働く看護師のために編まれた、昭和10年代の看護法の本に載っている包帯の巻き方図解をちょこっと眺めてみることにしよう。ひと口に「包帯」といっても円柱状に巻いてある細長いヤツだけじゃなくて三角巾とか、副え木やギプスなどを使ったのとかいろいろあるわけだが、最も基本の「卷軸帶」、つまりガーゼや木綿布を細く切って巻いたものについて解説した章の中からいくつか拾ってみた。巻軸包帯は患部を固定するのが目的だから伸縮性のある材料は使えず、巻き方がまずいと血行が停まってしまったり、緩んできてしまったりしてたちまち困ったことになる。きちんと巻けるようになるのに習熟を要するのは今も昔もかわりない。しかし当時は伸縮包帯とか網包帯とか粘着テープとかはなかったから、はるかに限られた材料でいかにそのときの状況にあわせて巻くか、という判断も含めて、今以上に難しい部分があったに違いない。 現在使われている巻き方やその呼び名などと見較べてみると、ほぼ変わっていないことがわかる。 https://www.kango-roo.com/learning/5601/ http://www.jhpia.or.jp/pdf/news69.pdf こうした巻く順番などの細かい要領は、今でこそ誰にでも容易にアクセスできるけれども、かつてはこうした医療関係者向けの専門書でもなければ見られなかった。それはさておき、この手の教科書で最も早いものは明治22年(1889年)初版の看護教程書だが、巻き方は違わないように見えるもののここまで細かくは解説されていない。そしてモデルになっている実演さん方にしても、いかにも当時の洋書にあった挿し絵を引き写してきたような西洋人(の男性)ばかりなのだが、この本ではモダンな日本人男女風に変わっている。日赤のはじまりは西南戦争の傷痍兵の惨状をみるにみかねて、という経緯だったから当初は近代戦にかかわる軍人だけが対象だったのが、だんだんと一般人へも間口がひろがっていった、という移り替わりを端的にあらわしているようにもおもえる。
看護教程草案(救護看護婦用) 第二卷 昭和16年(1941年) 昭和12年(1937年) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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120年ほど昔の武漢全景@明治後期の世界地理風俗写真帖
今年に入ってからというもの、ほとんど伝染病との関連でしか語られなくなってしまった街だからといって、その昔のことについて識っておくことに意味がないとはおもわない。ということで、3回前に西アジア風景を採り上げた写真帖に載っているパノラマ写真で20世紀初頭の武漢の景色を眺め、あわせて当時どのように解説されていたかをみておくことにしよう。 現地について詳しく調べたり訪れたりしたことがあるわけでもないのではっきりしたことはいえないが、2枚の写真が同じ高台から連続して撮られたものだとすれば、上が長江、下が漢江で手前の街並みは漢陽、漢江を挟んで向こう側が租界のあった漢口、そして長江の向こうにかすむ一帯が武昌、となるとこれは大別山頂からの眺めということになろうか。「百湖之市」と今も呼ばれるだけのことはあって、水たまりがあちらこちらに散在しているのがわかる(ちなみに、現在は162あるそうだ http://www.xinhuanet.com/politics/2019-03/31/c_1124307758.htm )。解説に「蘆漢鐵道」とあるのは京漢鐵路のことで、盧溝橋と漢口とを結ぶ路線として計画されたから当初はそう呼ばれたらしい。明治39年(1906年)4月1日に全線開通したというからちょうどこの写真帖の初版(5月26日出版)が出る直前ということになるが、実は明治33年(1900年)に北京正陽門(前門)まで延伸された際に改称されたのがここでは反映されていない。支那語訳文でも同じように書かれているところをみると、その辺の事情が編集者側で把握できていなかったのだろう。予定線としてここに書かれている粤漢鐵路は清朝が倒れたあとの昭和11年(1936年)6月に開通、また漢訳の方にしか出てこない川漢鐵路は四川の成都と漢口とを結ぶ計画だったが結局造られなかった(戦後の昭和27年(1952年)になってその一部にあたる成都〜重慶に成渝鉄路が敷かれた)そうだ。それはさておき、交通の要衝としてアメリカのシカゴに肩を並べる、という説明がおもしろい。武昌、漢陽、漢口あわせて当時120万近い人口があったというからかなり大きな都市だが、19世紀半ばの太平天国の乱よりも前は400万以上だったというから、それから較べたらずいぶん減ったともいえる。 なおこの写真を提供した高田早苗は当時早稲田大學総長を勤めていて、同大学関係者らとともに明治40年(1907年)「日清生命株式會社」という生命保険会社を立ち上げているのだが、この会社は「日支兩國に亙る一大生命保險」を目指して企図されたという話 http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/30602/1/0911905201.pdf からすると、時期的にもその準備のための視察でこの地を訪れたついでに撮影したのかもしれない。真ん中あたりが歪んでいるところからして、二つに折りたたんであったものとおもわれる。
地理風俗世界冩眞帖 明治39年(1906年) 明治39年(1906年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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オスマン帝国時代の西アジア風景@明治後期の世界地理風俗写真帖
COVID-19パンデミックのおかげで、当分の間おいそれとは旅行にも出かけられないので、今回はせめてものことでレトロ図版の海外観光気分をおたのしみいただくとしよう。20世紀初頭、まだオスマントルコが西アジア一帯に広大な領土を持っていた時代の写真を何点か。 最初のごはん風景、ご一家が食卓を囲っておいでの場所はどうやら建物の外のようだが、果たしてムスリム家庭の団欒がこんな風に男女一緒で眺められることがあったのだろうか……女学校の先生が頼み込んで特別にやってみせてもらっただけなのかもしれないけれど。母らしき中央の女性はさすがに、顔を布で覆ったままそっぽを向いておられて、お召し上がり中ではなさそう。2枚目は今でいうエルサレムの旧市街、神殿の丘側から眺めたところだろう。当時はアルメニア人住民もたくさんおられて、今とは違ってさまざまな経典の民が雑ざり合って暮らしていた。 3枚目の上は編集の都合らしいがちょっと場所が飛んで、ペルシア(今のイラン)の、ブルカを纏ってお出掛け中の婦人たち。下はまたエルサレムに戻って、いわゆる「嘆きの壁」だろうとおもうが熱心に祈りを捧げる人々のようす。現代のこの場所の写真をみると男性ばかりが目立つようにおもえるが、この図版ではむしろ女性が多そうにみえる。4枚目上は旧市街を西側の囲いの外から眺めたところ、下は預言者イエスの逸話が残るゲッセマネの園の風景だそう。 5枚目上はかの有名な塩水湖・死海、水着の観光客が大勢浮かんでいたりはしない。下はヤーファーの港町、ここは1950年に北隣のテル・アヴィヴと合併されているとのこと。この写真集の解説には街路が狭く不潔この上ない、ということが書かれている。6枚目上はベート・レヘム(ベツレヘム)市街とその手前に降誕教会、下の右は教会内部のようす、そしてその左はアナトリア半島北西部にあるアスランタシュ遺跡の、2頭のライオンを彫り込んだ巨大な岩の墳墓。 7枚目はディマシュク(ダマスカス)市街、8枚目は右がアナトリア高原南東側をシリアと隔てるトロス山脈をやや離れて眺めたところ、左の「アンゴラ」市街というのはアフリカ南西部の国とは関係なくて、今日のトルコ共和国首都アンカラのことのようだ。
地理風俗世界冩眞帖 明治39年(1906年) 明治39年(1906年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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初めて日本に導入されたプラネタリウム@昭和初期の子ども向け天文学入門書
大正十三年に創刊され、今も続く子ども向け科学雑誌『子供の科学』の初代編集長が書いた、やさしい天文学の本の巻末附録として載っている、大阪の「電氣科學館」へ我が国最初、世界でも二十四番目に設置されたプラネタリウムの写真とその説明。 同館は現在の大阪市立科学館の前身で、最上階に「天象館」というプラネタリウム施設が置かれて人気を博したという。そのドーム内部の巨大な投影機や客席の写真はときどき見かけるが、「講壇」つまり解説席の内側、しかもそこにある操作装置部分が写っているものはかなり珍しいのではないかと思う。ここにも書いてあるが、本書の出た前の年に据え付けられたばかりの、かなり早い時期の姿でもある。 #レトロ図版 #プラネタリウム #電気科学館 #大阪 #昭和初期
子供の天文學 昭和13年(1938年) 昭和13年(1938年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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建具金物のいろいろ@大正前期の工業辞典
二十世紀の初めに企画された、我が国初の総合百科辞典の草分け『大日本百科辭書』シリーズのひとつとして出された工業系辞典に載っている、当時使われていた建具金物あれこれ。複雑な仕組みのものは内部の構造も描かれている。 黄色っぽく見えるのは紙が焼けているのではなく、高品位のマット塗工紙にクリーム色の背景色を乗せてある。このような見開き図版ページは綴じ方が工夫されていて、三千ページ近い厚冊にもかかわらずノドのところも問題なく見られるようになっている。 こうした細かいパーツ類は時代によって機構も形状もかなり異なり、また今日まで伝わっている現物は極く限られるので、どのような種類があったのかを一目で識ることができるこのような図版資料が遺されているのは、なんともありがたいことだと思う。 なお国会図書館デジタルコレクションには明治四十四年版が公開されているので、それの「建具金物」項のところをリンクしておくとしよう。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/845406/436 ところで、『東京都図書館協会報』に収録されている平凡社取締役氏のご講演記録 https://www.library.metro.tokyo.jp/pdf/15/pdf/tla89.pdf によればこの版がでた翌年に同文社は倒産してしまったそうだし、図版研架蔵のものは初版刊行時期が違うので、これは後刷りなのかな? とも思うのだが、奥付にある発行者は相変わらず「東京市神田區表神保町貳番地」の「株式會社同文社」になっている。その辺の事情は今のところさっぱりわからない。 #レトロ図版 #建具金物 #建築部材 #蝶番 #錠 #引手 #大正前期
大日本百科辭書 工業大辭書 III 大正06年(1917年) 大正04年(1915年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館
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艤装詳細図いろいろ@昭和初期の飛行機図面集
大東亜戦中に出された、一般向け……というよりは航空機マニア向けの詳細図面あれこれ。エンジンやそれに連動するプロペラ部分、着陸/着水装置、胴体や羽の内部構造などが精密かつリアルに描かれている。 国内外の資料をかき集め図面を引っ張るまでに相当のご苦労があったらしく、昭和十五年創刊の雑誌を手がけた面々が始動当初から企画しながら刊行に漕ぎ着けるまでだいぶ遅れたらしいが、それも無理のないこと、と納得できる素晴らしい仕上がり。まるで活字のようにきちっと揃っている解説の文字も、拡大してみればすべて手書きであることがわかる。 きなくさい時代の本ゆえに、全体としては軍用の機械が多いのだが、旅客機など民生用のものもカヴァーされている。なにしろこの細密さは、図版好きを惹きつけるものがある。 #レトロ図版 #飛行機 #航空機 #メカニックイラストレーション #艤装 #昭和初期
世界飛行機構造圖集 昭和17年(1932年) 昭和16年(1941年) 網版刷り図版研レトロ図版博物館