オスマン帝国時代の西アジア風景@明治後期の世界地理風俗写真帖

0

COVID-19パンデミックのおかげで、当分の間おいそれとは旅行にも出かけられないので、今回はせめてものことでレトロ図版の海外観光気分をおたのしみいただくとしよう。20世紀初頭、まだオスマントルコが西アジア一帯に広大な領土を持っていた時代の写真を何点か。

最初のごはん風景、ご一家が食卓を囲っておいでの場所はどうやら建物の外のようだが、果たしてムスリム家庭の団欒がこんな風に男女一緒で眺められることがあったのだろうか……女学校の先生が頼み込んで特別にやってみせてもらっただけなのかもしれないけれど。母らしき中央の女性はさすがに、顔を布で覆ったままそっぽを向いておられて、お召し上がり中ではなさそう。2枚目は今でいうエルサレムの旧市街、神殿の丘側から眺めたところだろう。当時はアルメニア人住民もたくさんおられて、今とは違ってさまざまな経典の民が雑ざり合って暮らしていた。
3枚目の上は編集の都合らしいがちょっと場所が飛んで、ペルシア(今のイラン)の、ブルカを纏ってお出掛け中の婦人たち。下はまたエルサレムに戻って、いわゆる「嘆きの壁」だろうとおもうが熱心に祈りを捧げる人々のようす。現代のこの場所の写真をみると男性ばかりが目立つようにおもえるが、この図版ではむしろ女性が多そうにみえる。4枚目上は旧市街を西側の囲いの外から眺めたところ、下は預言者イエスの逸話が残るゲッセマネの園の風景だそう。
5枚目上はかの有名な塩水湖・死海、水着の観光客が大勢浮かんでいたりはしない。下はヤーファーの港町、ここは1950年に北隣のテル・アヴィヴと合併されているとのこと。この写真集の解説には街路が狭く不潔この上ない、ということが書かれている。6枚目上はベート・レヘム(ベツレヘム)市街とその手前に降誕教会、下の右は教会内部のようす、そしてその左はアナトリア半島北西部にあるアスランタシュ遺跡の、2頭のライオンを彫り込んだ巨大な岩の墳墓。
7枚目はディマシュク(ダマスカス)市街、8枚目は右がアナトリア高原南東側をシリアと隔てるトロス山脈をやや離れて眺めたところ、左の「アンゴラ」市街というのはアフリカ南西部の国とは関係なくて、今日のトルコ共和国首都アンカラのことのようだ。

Default