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- 120年ほど昔の武漢全景@明治後期の世界地理風俗写真帖
120年ほど昔の武漢全景@明治後期の世界地理風俗写真帖
今年に入ってからというもの、ほとんど伝染病との関連でしか語られなくなってしまった街だからといって、その昔のことについて識っておくことに意味がないとはおもわない。ということで、3回前に西アジア風景を採り上げた写真帖に載っているパノラマ写真で20世紀初頭の武漢の景色を眺め、あわせて当時どのように解説されていたかをみておくことにしよう。
現地について詳しく調べたり訪れたりしたことがあるわけでもないのではっきりしたことはいえないが、2枚の写真が同じ高台から連続して撮られたものだとすれば、上が長江、下が漢江で手前の街並みは漢陽、漢江を挟んで向こう側が租界のあった漢口、そして長江の向こうにかすむ一帯が武昌、となるとこれは大別山頂からの眺めということになろうか。「百湖之市」と今も呼ばれるだけのことはあって、水たまりがあちらこちらに散在しているのがわかる(ちなみに、現在は162あるそうだ
http://www.xinhuanet.com/politics/2019-03/31/c_1124307758.htm
)。解説に「蘆漢鐵道」とあるのは京漢鐵路のことで、盧溝橋と漢口とを結ぶ路線として計画されたから当初はそう呼ばれたらしい。明治39年(1906年)4月1日に全線開通したというからちょうどこの写真帖の初版(5月26日出版)が出る直前ということになるが、実は明治33年(1900年)に北京正陽門(前門)まで延伸された際に改称されたのがここでは反映されていない。支那語訳文でも同じように書かれているところをみると、その辺の事情が編集者側で把握できていなかったのだろう。予定線としてここに書かれている粤漢鐵路は清朝が倒れたあとの昭和11年(1936年)6月に開通、また漢訳の方にしか出てこない川漢鐵路は四川の成都と漢口とを結ぶ計画だったが結局造られなかった(戦後の昭和27年(1952年)になってその一部にあたる成都〜重慶に成渝鉄路が敷かれた)そうだ。それはさておき、交通の要衝としてアメリカのシカゴに肩を並べる、という説明がおもしろい。武昌、漢陽、漢口あわせて当時120万近い人口があったというからかなり大きな都市だが、19世紀半ばの太平天国の乱よりも前は400万以上だったというから、それから較べたらずいぶん減ったともいえる。
なおこの写真を提供した高田早苗は当時早稲田大學総長を勤めていて、同大学関係者らとともに明治40年(1907年)「日清生命株式會社」という生命保険会社を立ち上げているのだが、この会社は「日支兩國に亙る一大生命保險」を目指して企図されたという話
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/30602/1/0911905201.pdf
からすると、時期的にもその準備のための視察でこの地を訪れたついでに撮影したのかもしれない。真ん中あたりが歪んでいるところからして、二つに折りたたんであったものとおもわれる。