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- 15F 地理学展示室_日本地図の部屋
- 大日本帝国最初期の地図@明治20年代の中等教育地理教科書
大日本帝国最初期の地図@明治20年代の中等教育地理教科書
我が国の国号は明治22年(1889年)、憲法の発布によって正式に「大日本帝國」となった……のだが、実際のところその後もそれまでと同様、「日本國」「大日本國」「日本帝國」などとまちまちに呼ばれていたらしい。ごく一部の知識層を除いて、「唐」「天竺」「大和」の三国が「世界」だとおもっていた極東の島国へ西洋の世界地図がどっともたらされ、そのはじっこによーく見ないと気づかないようなちっぽけな点々にへばりついているに過ぎない、という現実をつきつけられ、それでも自らに「大」をつけて新たな世界に伸していこう、という多分に背伸びした(そして無用に肩を怒らせた)メンタリティも含め、名古屋大学大学院・前野みち子氏の論文「国号に見る「日本」の自己意識」
http://hdl.handle.net/2237/8151
は、日本人の「国」に対する認識の動きや揺れがうまい塩梅にまとめられていて興味をそそられる。
今回は憲法が布かれて間もないころの中学校・師範学校用日本地理の教科書巻頭に載っている、明治8年(1875年)「樺太千島交換條約(サンクトペテルブルク条約)」締結でサハリン島南部を抛棄した代わりに18の島々を得た千島列島のほかは現在とほとんどかわらない版図の日本全図を眺めてみよう。陸地をかこむ淡い彩色と隷書風のタイトルまわりの流麗な飾り罫が、いかにも19世紀らしい味わいを醸し出している。標題は「大日本國全圖」となっていて、本文序文は「我日本ハ地球ノ東半球ニ表立セル帝國ニシテ、」という書き出しだから「大日本帝國」の意識がなかったわけではない本なのだけれども、ここにはつけていない。コンパクトに全土を1枚の折り込み図版におさめるため、メインの図は右に傾けて描いてある。主な山や川、都市、幹線道路や鉄道線路などが結構ていねいに描き込まれているが、離島はほぼその輪廓だけでさらっと流している。凡例に「國界」とあるのは今いう国境ではなく、地勢で区分けした旧来の「一畿八道八十五國八百四郡」の「くにざかい」を示している。行政上の区割りである「一道三府四十三縣二十三區」という行政区画はすでに定められていたことが本文には書いてあるが、教育の場でひとつの地図に両方描き込むとごちゃごちゃするからどちらか片っぽ、となったときにえらばれるのは、この時代の人々の誰にも馴染みのある伝統的なおクニの方だったことがわかる。その一方で、隣国との境界線は全く描かれていない。本文にも離島については、住民のいるところと東西南北の端っこ以外は「枚擧ニ遑〈いとま〉アラス」、つまり その他大勢 式で済ませている。
「太平洋」と「日本海」は今とかわらないが、オホーツク海は「疴哥斯科(よみはたぶん〈オコスカ〉)海」、東シナ海は現在も台湾や支那で使っているのと同じ「東海」になっている。沿岸海域をみると、「鹿島灘」「相模洋」のように「〈なだ〉」の書き方が2種類あるのだが、本文ではみな「灘」になっているので何か意図があって書き分けしているわけではなさそう。湾はなぜか「駿河湾」だけ書いてある(本文には港名はぞろぞろ載っているが、湾はひとつも出てこない)。島は「種子島」の西にある「硫黄島」のとなりの「竹島」とか、伊豆諸島の「三宅島」の西の「大野原島」みたいなマイナーな小島がちゃんと書いてあったりするのに、小笠原とか屋久島と奄美との間の十島とかはひとつも島名が書いていない、というようなくわしさのバラつきがある。「隱岐」の北方の「松島」「竹島」は、並び方からして旧幕時代以来の呼び名そのままとおもわれる。琉球の「沖ノエラブ島」の西に書いてある「ヱビラヤ島」というのは、位置からして伊平屋か伊是名あたりのようにおもえるがよくわからない。
ところで、この地図はいつの時点のありさまを描いたものか、ということについてちょっと考えてみると、当時は原図をつくるにせよそれを版に起こすにせよすべて手作業で時間がかかっただろうから、タイムラグがそれなりにあるだろう。年代特定に最も使えそうなのは既成線と未成線とが描き分けられている鉄道路線にちがいない、ということでチェックしてみると、東京から北へ向かう日本鐵道線(今の東北本線)が「岩手」と書いてあるところまで開通している。すぐ西側に「岩手山」とあるからこれは盛岡駅で、一ノ關〜盛岡間が開通したのは明治23年(1890年)11月。一方神戸から西へ伸びる山陽鐵道線は「倉敷」と書いてあるあたりまで通じているようだ。三石から延長された線路が岡山駅まで繋がって開業に漕ぎ着けたのが明治24年(1891年)3月、岡山〜倉敷間が営業運転を開始したのが翌4月の下旬、さらに笠岡まで延伸されたのが同年7月というから、ここだけで判断すればこの年の5〜6月ごろの状況を示している、ということになる。しかし大阪鐵道の王寺〜奈良間が開通したのはその前年明治23年(1890年)暮れのはずなのに、この地図では未成線扱いになっている……ということで、同年6月に出た初版の地図から翌々年8月の再版時より1年くらい前の状況へは一応アップデートされているようだが、洩れているところもあるとおもった方がいい、という腰の力が抜けるよーな結論が導かれてしまうのだった。今も昔も教科書に書いてあることなんてアタマから鵜呑みにしちゃダメ、ほかの資料にもあれこれあたってみてホントはどうなのか確認しないといけないのである。