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高山大河に囲まれた東西両半球の世界地図@明治中期の地理教科書
「ドイツ式」に倣ったことを謳う、明治二十年代の地理教科書の彩色世界地図。それまでに出ていた地理書があまりにもつまらないので、もうちちょっと何とかしたい、と考えて新機軸を打ち出したことが、この本の序文に綴られているのだが、巻頭近くにあるこの折り込み地図も「ドイツ式」なのかどうかは不明。 十九世紀の教科書に載っている世界地図は、だいたい例外なく宇宙空間から地球を眺めたような正射図法による、東西両半球が描かれていた。 それは、教える対象となる若者たちが、「地球は円い」というのが決して常識ではなかった世代を親に持っていた、ということもあろうし、これから未知なる広い世界に目を向けるにあたって、我が版図の大きさや海外諸国との位置関係などを把握させることが取り敢えず第一の課題だったから、実際に外洋航海をするに欠かせない海図に使われるメルカトル式正角円筒図法へはなかなか切り換えられなかったのだろうとおもう。 四角い紙に両半球図を描くとなると、どうしても周りには結構な余白が生じることになる。そのまま何もなし、という地図も少なくはないが、この地図のように世界の著名高山の高さ較べ、大河の長さ較べを図解して興味を惹こうと工夫された例もときどき見かける。実際、資料としてもデザインとしても、今日でも魅力ある図版ではないだろうか。色遣いや標題文字の排列など、全体としてなんとなく「たのしさ」や「かわいらしさ」が感じられるような気がする。 東半球の右端のところに「大日本帝國」、そしてその左手には「支那帝國」と書かれている。単に「日本」と国号が書かれているものが多いが、このように「帝國」までくっつけてある例はあまり憶えがない。このころになると、南極大陸はかなりそれらしく描かれるようになる。もう少し古い本になると、海岸線の極く一部だけ描いてあったりする(さらにその前は、何も描かれていなかったりする)。
萬國地理指要 明治26年(1893年) 明治26年(1893年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館
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100年ばかり前のカボチャ品種@大正前期の種子絵袋見本帖
ハロウィンに冬至、と、この季節はカボチャがしばしば話題にのぼるころ合い。 ということで、だいぶ傷んでいるのでここ何日か分解修繕に取り組んでいる種子袋見本帖のうち春蒔き野菜のものの中から、カボチャのところをいくつか拾ってご覧に入れるとしよう。 刊記は何もないので断言はできないが、 ----- ☆マルに「S」の印がついていること ☆明治末に滅んだ「淸國」を冠した品種名のものが複数含まれていること ☆発芽率データが載っていないこと ----- からして、大正前期から種子の国内販売を始められている老舗種苗会社「サカタのタネ」の前身企業「坂田農園」のものではないかと推定している。 (2023年8月23日追記:中田カボチャ氏にコメント欄にてご教示いただいたところでは、マル「S」は「昇文堂絵袋」を指す由。) 2013年の創立100周年を記念して開設されたという同社特設サイトの「サカタのタネ歴史物語」 ----- サカタのタネ歴史物語|サカタのタネ 100周年記念特設サイト PASSION in Seed 100 years https://www.sakata100th.jp/story/01/ ----- によれば、「坂田農園」として創業して4年目の大正5年(1916年)に種子の販売を開始、大正10年(1921年)ごろに国内民間企業としては初の発芽試験室を設けてからは種子袋に「発芽率○○%」と書かれるようになった、ということだから、この見本帖に綴じ込まれている絵袋はその間のもの、ということになる。 袋に仕立てた際に裏側になる右手の解説文が文語体、という古風さからしても、大正期の初めごろのもの、という推測は腑に落ちるとおもう。 今日、お店などでは見かけないようなものもあるが、品種改良は絶え間なく続けられているから、とうの昔に消えてしまったものも数多くあるにちがいない。ここに掲げたうちには、家畜飼料用のものも含まれている。「ポンキン」というのはもちろん、英語の 'PUMPKIN' が訛った呼び名だろう。 栽培品種の多くは、普通の植物図鑑にはほとんど載っていない。しかし、戦前の園芸商品カタログは表紙以外モノクロ印刷なのが常で、大半はどのような色味だったのかはわからない。そういう点で、美麗な石版多色刷り図版の古い種子絵袋見本帖は、その当時の「園芸品種図鑑」の趣きがある。
最新版石版刷繪袋春季用見本帳 (多分)大正前期 石版刷り 洋紙図版研レトロ図版博物館
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東半球と西半球@明治中期の地理教科書
明治20年代前半に版を重ねていた分厚い地理教科書の巻頭に載っている、彩色世界全図。子午線と180°線とで地球をすぱっと割った「東半球」と「西半球」の2葉に分かれている。このような世界地図が載っている地理書はたいがいが明治20年代、早くて18〜19年、晩くて20世紀が明けた明治33年(1900年)のようにおもう。こうした本の書き出しは必ずといっていいほど、「惑星/遊星は太陽のまわりを回っているまるい天体で、われわれの住む地球はそのひとつ」であって、球体である証拠としての現象が3つばかり挙げられている。というのも、それまでの日本人の大半は17世紀に入ってきた天文書『天經或問』 https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai2009/shiryo/kaisetsu08.html そのままの天動説か、あるいはいわゆる「仏教天文学」、つまりこの世は天地ともに平らで、世界の中心には巨大な須弥山という山がそそり立ち、太陽や月などが昇ったり沈んだりしてみえるのは実は須弥山の向こう側に隠れてしまうからだ、という考え方を信じていたから、世界地理を説くにもその前に誤った世界観をまずはただす必要があったからなのだろう。当時も他の描き方の地図がなかったわけではないのに、判で押したようにこうした東西両半球として描かれた図版が載っているのも、地球がまるく、我が国がその上にへばりついている小さな島々であることを視覚的にわからせようとしたからではないかしらん。 海岸線の形は大ざっぱには現代人の認識とあまり変わらないが、細かくみていくとかなりいい加減な感じだ。台湾など、そこだけ取り出したらどこの島だかさっぱりわからない。南極大陸はまだ海岸線のごく一部しか描かれていない。それと、国境がひとつも描かれていないのも、今ではあんまりない種類の地図ではないかしらん。 地名は漢字が宛てられているところが多く、ややわかりづらいかもしれない。オーストラリアが「豪州」の「豪」ではなく「墺」で始まっていたり、オセアニアが「亞西亞尼亞」になっていたり、ニューギニア島の東のニューブリテン島が「新貌利顚」と書いてあったりする。また、ベンガル湾やハドソン湾が「ベンゴール曲海」「ハドソン曲海」、カニャークーマリー(コモリン岬)や喜望峰が「コモリン海角」「好望海角」となっているし、マゼラン海峡は「マゲラン海峽」だがモザンビーク海峡の方は「モザンビク海岔〈かいふん〉(<大正前期の代表的な漢和辞典・上田萬年ほか『大字典』(啓成社)をひいてみたら「大きなる海峽のこと」だそうだ)」になっていたり、と今日では使われない用語が出てくる。このへんは多分支那語の借用なのだろう。ウラル海を「裏海」と書くのは、明治期の出版物にはよくみられる。 西半球図をみて、あれ? 海の難所として有名な「サルガッソ海」がアメリカ大陸を挟んで2ヶ所もある……とおもったら、あらら「太平洋」と「大西洋」とが逆じゃないの。タイヘンなポカミスだが、その所為でサルガッソ海もサンドウィッチ諸島の北方にもうひとつ出現しちゃったのではないだろうかww 19世紀の地図は色味がかわいいとおもう。地名などの「現代の地図との違い」とともに、題字の飾り罫その他のデザインもたのしめるのが、古地図を眺めるひとつの魅力だろう。
訂正萬國地理 明治25年(1892年) 明治21年(1888年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館
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化学実験室の「色」@大正後期の中等教育用化学参考書
大正期に中学校や師範学校での中等教育化学実験でよく使われていた、いろいろな試料の色味を示す彩色イラスト。本来は画像2枚で1ページなのだが、より近寄った形でご覧にいれるため敢えてそれぞれ上下に分けた。 1枚目の「粉末の色」上段の「黃燐」は粉じゃなくて蝋のようなかたまりだが、これは左隣の「赤燐」との対比のために敢えておいたのだろう。赤燐はマッチ箱の擦り付け面に硫化アンチモンなどと混ぜた「側薬」として塗ってあるくらい安定した毒性のない物質だが、黄燐はそれ自体猛毒で皮膚につくとひどい火傷を起こす上、このかたまり状態で60℃くらい、微粉末だと30℃ちょっとで自然発火して三酸化燐や五酸化二燐(十酸化四燐)といった毒ガスが発生する極めてあぶないヤツなので、とても粉末など学校では扱えない。びんの中で水に浸かっているのは、温度が勝手にあがらないようにするため。なおこの画像だとおわかりいただけないかとおもうが、黄燐の一部にニス引きしてあるのか、斜に光を当てて眺めてみるとにぶく光る部分があって、より立体的に見えるように工夫されているのが面白い。その隣の「酸化水銀」は酸化第二水銀。「酸化第二鐵」=酸化鉄(III) 、つまり鉄錆。紅殻〈べんがら〉色の顔料だが、製鉄材料としても使われていたようだ。次の「酸化鉛」は一酸化鉛(酸化鉛(II))のことで、顔料「密陀僧〈みつだそう〉」としても古くからしられていたので、明治期の化学教科書にはそう書かれていることが多い。 下段の「鉛丹」も古くからある顔料で四酸化三鉛。この粉をうっかり吸い込むと鉛中毒になる。「過酸化鉛」は二酸化鉛のことで、鉛の板にくっつけて鉛蓄電池の電極として使う。「酸化クロム」は三酸化二クロム(酸化クロム(III))で、クロム緑としての顔料や研磨材に用いる。「沃化水銀」は赤いので、沃化第二水銀(沃化水銀(II))だろう。次の「硫化水銀」は硫化第二水銀(硫化水銀(II))で、顔料の朱。本文「硫化第二水銀」項脚註の解説に、鉛丹を混ぜた朱がよくあるが硝酸で黒褐色に変わるからすぐわかる、とあることから、当時そうしたまがい物の顔料が横行していたことがしれる。 2枚目上段「クロム酸鉛」はクロム酸鉛(II)、黄鉛として顔料に用いるが発癌性物質としてしられる六価クロム化合物のひとつでもある。「ベレンス」は当時「伯林〈ベルリン〉青」と呼ばれた顔料(要するにプルシアンブルー)で、フェロシアン化第二鉄のこととしてこの本には書かれている。「綠靑」は塩基性炭酸銅(II)で、要するに銅の錆。銅器には抗菌作用があることが古くからしられていたが、この本の「銅イオン」の解説に「烈しき毒性を有し、强力なる殺菌作用を呈す」と書かれている。実際には金属の「極微動作用」(銅特有のものではなく、たとえば銀イオンにもある)による効果なのだそうだが、大正期にはまだしられていなかったのか(少なくとも昭和十年代には採り上げている論文がある https://ci.nii.ac.jp/naid/110007119598/ )、これが恐らく「緑青は猛毒」という妄説がひろまる原因になったのだろう(くわえて、銅原料の精錬不足で砒素の混じった製品が出まわり、それで実際健康被害が出たらしいから、そのことも誤解が定着する要因になったとおもわれる)。「群靑」つまりウルトラマリンは本来青金石からつくる顔料だが、この本の「珪酸アルミニウム」項脚註には「陶土(=ケイ酸アルミニウム)に硫酸ナトリウム、炭、硫黃を混じ先づ空氣を絕ちて熱し、更に硫黃を加へ空氣を通じて熱して製す」とある。「沃度ホルム」は当時も今も殺菌消毒用の傷薬として使う。 下段「塩化金」は塩化金(III)のこととして本文には出てくるのだが、図版では金色というよりもっと赤っぽいので、これは金を王水で溶かして蒸発させると塩化水素と化合して生じる塩化金酸(これも「塩化金」と俗称されるらしい……なお本文では「之れを金鹽化水素酸と稱す」と解説してある)では、とおもわれる。「アリザリン」は本来はアカネの根から採る染料だが、ドイツでコールタールから化学合成する方法が編み出された。我が国で工業化に成功したのは大正4年(1915年)だそうだ。 https://jp.mitsuichemicals.com/jp/corporate/group/1912_1932.htm 「ピクリン酸」(=2,4,6-トリニトロフェノール—当時は「三ニトロ−フェノル」と呼ばれていたようだ)は、これも化学染料の一種であると同時に、熱や衝撃を加えると爆発する性質を利用した炸薬としても使われた。「靑藍」は「藍靛〈らんてん〉」ともいい(この本では誤って「又藍錠とも稱す」と書いてある)、要はインディゴのことで元はアイ(藍)の葉から造る染料だが、これもナフタレンから合成した化学染料に取って代わられたのは、☝の記事にもあるとおり。最後の「リトマス」はリトマスゴケ科の地衣類から採った色素で、これを濾紙に染ませたものが化学実験でおなじみのリトマス試験紙だ。リトマスゴケのなかまは☟これこれこんなヤツ。http://www.ha.shotoku.ac.jp/~kawa/KYO/SEIBUTSU/syokubutsu/CHII/kashigoke/index.html ……と、こんな調子でひとつひとつ書いていると明日になってしまいそうなので、あとは端折って。 3枚目はアルカリ/アルカリ土類金属イオン(この本では「揮發性鹽類」と書いてある)をガスバーナーの酸化炎で加熱したときの「焔色反應(=炎色反応)」と、それから針金の先に輪っかを拵えてホウ砂をくっつけ加熱してガラス球のようにした上で金属イオンをつけて酸化炎で再加熱したときの「硼砂球の反應」(還元炎で加熱すると金属によってはまた別の色になることが本文には書いてある)。どちらも今ではステンレス鋼の針金を使うこともあるようだが、当時はすべて白金線だった。4枚目はそのようにして加熱したときに発する光をプリズムで分光したスペクトル。こうやればたとえ僅かに含まれる元素であってもどれなのか特定されるから、とても近寄れない太陽やはるか遠くのほかの恒星がどんな物質からできているのかすら推定できる。なお左端の「瓦斯〈がす〉焔(有色)」はバーナーの空気取り入れ口が十分開いていなくて不完全燃焼している状態、その右の「瓦斯焔(無色)」は適正に酸素が供給されている状態を示す。 5枚目は上段左の3つが☝のリトマスの粉を試薬として、中性・酸性・アルカリ性の水溶液に加えたときの反応の様子、次の「フェノルフタレン」も同じく試薬で、試料が酸性ならば色がつかないがアルカリ性だと図のように赤っぽくなることを示している。臭素水は有機化合物の酸化による反応などをみる試薬で、また当時はジフテリアの治療にも使っていたらしい。「沃素〔酒精溶液〕」はヨウ素をエタノールで溶かしたもの、つまりヨードチンキだ。6枚目はいろいろな金属塩の水溶液。このうち「金塩」「白金塩」はガラス乾板を用いて写した陰画を感光紙に焼き付けたあと、これを鍍金〈めっき〉仕上げするときに使う(なお余計な話だが、ご存知の方はご存知とおもうけれども、写真乾板は臭化銀(silver bromide)をにかわでガラス板にくっつけたものだから、それを使った写真を「ブロマイド」と呼ぶのであって、決して「プロマイド」ではない。これは多分大正期の映画俳優写真の販売店が、間違っているのをしってかしらずか「プロマイド」と映画雑誌に広告しているのを目にした映画マニア連が何の疑問ももたず、投稿欄などでさかんに「プロ交換希望」などと使ったためにひろまってしまったものとおもわれる)。 そして7、8枚目は不揮発性の物質を精製して得た結晶それぞれの特有な色と形とを示した図。 こうした黒い背景に色をのせた図版は、コントラスト差があるだけに見る者に強い印象を与える。化学実験は色や光の変化などで人目を惹く、まるでマジック・ショウようなある種の「見世物効果」があるとおもうが、こうした色刷り図版を参考書に採り入れているのも、やはり似たような視覚効果で興味を惹きつけよう、という意図が含まれている気がする。これがあるのとないのとでは、魅力が段違いなのは否めないだろう。
理論實驗化學講義 大正11年(1922年) 大正04年(1915年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館
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大日本帝国最初期の地図@明治20年代の中等教育地理教科書
我が国の国号は明治22年(1889年)、憲法の発布によって正式に「大日本帝國」となった……のだが、実際のところその後もそれまでと同様、「日本國」「大日本國」「日本帝國」などとまちまちに呼ばれていたらしい。ごく一部の知識層を除いて、「唐」「天竺」「大和」の三国が「世界」だとおもっていた極東の島国へ西洋の世界地図がどっともたらされ、そのはじっこによーく見ないと気づかないようなちっぽけな点々にへばりついているに過ぎない、という現実をつきつけられ、それでも自らに「大」をつけて新たな世界に伸していこう、という多分に背伸びした(そして無用に肩を怒らせた)メンタリティも含め、名古屋大学大学院・前野みち子氏の論文「国号に見る「日本」の自己意識」 http://hdl.handle.net/2237/8151 は、日本人の「国」に対する認識の動きや揺れがうまい塩梅にまとめられていて興味をそそられる。 今回は憲法が布かれて間もないころの中学校・師範学校用日本地理の教科書巻頭に載っている、明治8年(1875年)「樺太千島交換條約(サンクトペテルブルク条約)」締結でサハリン島南部を抛棄した代わりに18の島々を得た千島列島のほかは現在とほとんどかわらない版図の日本全図を眺めてみよう。陸地をかこむ淡い彩色と隷書風のタイトルまわりの流麗な飾り罫が、いかにも19世紀らしい味わいを醸し出している。標題は「大日本國全圖」となっていて、本文序文は「我日本ハ地球ノ東半球ニ表立セル帝國ニシテ、」という書き出しだから「大日本帝國」の意識がなかったわけではない本なのだけれども、ここにはつけていない。コンパクトに全土を1枚の折り込み図版におさめるため、メインの図は右に傾けて描いてある。主な山や川、都市、幹線道路や鉄道線路などが結構ていねいに描き込まれているが、離島はほぼその輪廓だけでさらっと流している。凡例に「國界」とあるのは今いう国境ではなく、地勢で区分けした旧来の「一畿八道八十五國八百四郡」の「くにざかい」を示している。行政上の区割りである「一道三府四十三縣二十三區」という行政区画はすでに定められていたことが本文には書いてあるが、教育の場でひとつの地図に両方描き込むとごちゃごちゃするからどちらか片っぽ、となったときにえらばれるのは、この時代の人々の誰にも馴染みのある伝統的なおクニの方だったことがわかる。その一方で、隣国との境界線は全く描かれていない。本文にも離島については、住民のいるところと東西南北の端っこ以外は「枚擧ニ遑〈いとま〉アラス」、つまり その他大勢 式で済ませている。 「太平洋」と「日本海」は今とかわらないが、オホーツク海は「疴哥斯科(よみはたぶん〈オコスカ〉)海」、東シナ海は現在も台湾や支那で使っているのと同じ「東海」になっている。沿岸海域をみると、「鹿島灘」「相模洋」のように「〈なだ〉」の書き方が2種類あるのだが、本文ではみな「灘」になっているので何か意図があって書き分けしているわけではなさそう。湾はなぜか「駿河湾」だけ書いてある(本文には港名はぞろぞろ載っているが、湾はひとつも出てこない)。島は「種子島」の西にある「硫黄島」のとなりの「竹島」とか、伊豆諸島の「三宅島」の西の「大野原島」みたいなマイナーな小島がちゃんと書いてあったりするのに、小笠原とか屋久島と奄美との間の十島とかはひとつも島名が書いていない、というようなくわしさのバラつきがある。「隱岐」の北方の「松島」「竹島」は、並び方からして旧幕時代以来の呼び名そのままとおもわれる。琉球の「沖ノエラブ島」の西に書いてある「ヱビラヤ島」というのは、位置からして伊平屋か伊是名あたりのようにおもえるがよくわからない。 ところで、この地図はいつの時点のありさまを描いたものか、ということについてちょっと考えてみると、当時は原図をつくるにせよそれを版に起こすにせよすべて手作業で時間がかかっただろうから、タイムラグがそれなりにあるだろう。年代特定に最も使えそうなのは既成線と未成線とが描き分けられている鉄道路線にちがいない、ということでチェックしてみると、東京から北へ向かう日本鐵道線(今の東北本線)が「岩手」と書いてあるところまで開通している。すぐ西側に「岩手山」とあるからこれは盛岡駅で、一ノ關〜盛岡間が開通したのは明治23年(1890年)11月。一方神戸から西へ伸びる山陽鐵道線は「倉敷」と書いてあるあたりまで通じているようだ。三石から延長された線路が岡山駅まで繋がって開業に漕ぎ着けたのが明治24年(1891年)3月、岡山〜倉敷間が営業運転を開始したのが翌4月の下旬、さらに笠岡まで延伸されたのが同年7月というから、ここだけで判断すればこの年の5〜6月ごろの状況を示している、ということになる。しかし大阪鐵道の王寺〜奈良間が開通したのはその前年明治23年(1890年)暮れのはずなのに、この地図では未成線扱いになっている……ということで、同年6月に出た初版の地図から翌々年8月の再版時より1年くらい前の状況へは一応アップデートされているようだが、洩れているところもあるとおもった方がいい、という腰の力が抜けるよーな結論が導かれてしまうのだった。今も昔も教科書に書いてあることなんてアタマから鵜呑みにしちゃダメ、ほかの資料にもあれこれあたってみてホントはどうなのか確認しないといけないのである。
中等教育大日本地誌 明治25年(1892年) 明治23年(1890年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館
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無脊椎なヒトたちの彩色博物画@明治後期の小型百科辞典
明治の終い近くに出された一冊モノ百科辞典の「海産動物」項附図として載せてある見開き一枚の彩色博物画から、節足動物だの軟体動物だの棘皮動物とか腔腸動物とか、とにかく脊椎がない種類の生き物たちの部分を拡大して眺めてみよう。 欄外の名称を図版番号で拾ってみるとそれぞれ、一枚目「1 イボヤギ」「2 キクメイシ」「3 ウミシャボテン」「4 赤サンゴ」、二枚目「5 アコヤガイ」「6 アワビ」「7 サヾエ」「8 カキ」、三枚目「9 ビゼンクラゲ」「10 カツオノエボシ」「11 オビクラゲ」「12 水クラゲ」「13 カツオノカムリ」「14 カイメン」「15 カイロードーケツ」「16 ホッスガイ」、四枚目「28 カリナリヤ」「29 アメフラシ」「38 タコブネ」「39 オームガイ」「45 タコ」「46 イカ」「47 ゴカイ」、五枚目「18 イソギンチャク」「22 アシナガヾニ」「32 カブトガニ」、六枚目「27 ヒドラクチニヤ」「37 ホヤ」、七枚目「31 クルマエビ」「33 イセエビ」「40 ウミユリ」「41 ヒトデ」「42 ウニ」「43 ナマコ」、八枚目「36 サルパ」「44 ヤドカリ」。このうち「カツオノカムリ」がカツオノカンムリなのはまだご想像がつかれるかもしれないとしても、「カリナリヤ」はゾウクラゲ、「アシナガヾニ」はタカアシガニ、というのはお分かりにならないのでは……。「ヒドラクチニヤ」は多分カイウミヒドラ。いずれも透明な身体をもつ「オビクラゲ」「サルパ」なども、結構マニアックな選択ではないかしらん。にもかかわらず、以上六種はどれもこの辞典中には立項されていない……覧る側は「そこが知りたかったのに……なんちゅー不親切ぶり」などとついつい勝手を並べたてたくなってしまうww のだが、しかし編む側の立場で考えてみれば、そんな細かいところまでいちいちフォローしていたら、一冊では到底終わらなくなってしまう。項目の取捨選択は悩ましいところだ。 それはさておき、色彩もうるさくない程度に鮮やかで美しく、博物図ひとつひとつをみても全体として眺めても、美意識に裏打ちされた魅力にあふれた図版ではないだろうか。拡大複写してポスターに仕立てたいくらいだ。 なお、この図版のほかの部分は「爬虫類両棲類の部屋」 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/collection_rooms/9 、「魚類の部屋」https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/collection_rooms/3 に展示してあるので、もしまだご覧になっておられない方は是非☆ #レトロ図版 #無脊椎動物 #海の生き物 #博物画 #百科辞典 #明治後期
國民百科辭典 明治41年(1908年) 明治41年(1908年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館
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海水魚の彩色博物画@明治後期の小型百科辞典
引き続き、明治後期の一冊モノ百科辞典の「海産動物」項附図として載っている彩色博物画から、魚類のところを拾ってみよう。 それぞれの名前は、一枚目「19」は「マグロ」(クロマグロだろうか?)、二枚目「17」は「タイ」(これはマダイだろう)、「20」は「トビウオ」(胸鰭がハマトビウオほど長くないからツクシトビウオとかなのかな?)、「21」は「ヒラメ」、「30」は「サバ」(マサバ)、三枚目「23」は「イワシ」(マイワシ)、「24」は「ニシン」「25」は「カナガシラ」、「26」は「ムツ」、「34」は「フグ」(マフグ……だと思うけれど尾鰭の形がなんだか丸過ぎないかな?)、「35」は「カツオ」、四枚目「48」は「ツノザメ」(アブラツノザメと思っていーんじゃないかな)、「49」は「シュモクザメ」と欄外に書かれている。見出し語が表音式なので、明治時代の本でも旧仮名遣いにはなっていないのだった。 この図版では多分、「一般人に身近」という考えで食用魚を選って描いたのではないかしらん(シュモクザメは肉は食べないかもしれないが、フカヒレを採る)。なお明治期の水族館には、結構早くから海の生き物を展示する水槽があらわれていた(けれども短命におわった)ことが、鈴木克美「わが国の黎明期水族館史再検討」 https://www.muse-tokai.jp/wp/wp-content/uploads/2017/09/bulletin_03.pdf を読むとわかる。 さて、引き続きこの「海産動物」図(その全体については「爬虫類両棲類の部屋」https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/collection_rooms/9 に展示)から、カメでもウオでもない色々な生き物たちのところも拾って「貝類ほか海産生物の部屋」https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/collection_rooms/4 に載せてみることにしよう。 #レトロ図版 #海水魚 #食用魚 #博物画 #水族館 #明治後期
國民百科辭典 明治41年(1908年) 明治41年(1908年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館
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ウミガメの彩色博物画@明治後期の小型百科辞典
明治の末近くに次々と出された一冊モノ百科辞典のひとつに載っている、「海産動物」項附図として添えられた彩色博物画の中から、ウミガメ二頭のところを拡大して眺めてみよう。 左の小さい方「51」が「タイマイ」、右の大きい方「52」が「ショーガクボー」(=アオウミガメ)。甲羅の模様、鱗の生え具合など丹念に描き込まれている。当時はいずれも甲羅は鼈甲細工(アオウミガメの方は「和鼈甲」と呼んだらしい)として、またアオウミガメの方は食肉・食卵としても人気があった。北原白秋が小笠原に滞在した際の短い旅行記に、ウミガメの肉を料理して旅人に食べさせたり缶詰にしたりする話が出てくる。 http://nihongo.hum.tmu.ac.jp/~long/bonins/natsu.htm ところでこの図版全体をご覧いただければおわかりのように、当「展示館」のうちのどれかひとつだけには収められない、色々な海の生物が一緒に描かれている。このように複数のカテゴリにまたがったものを実物展示する場合には、さてどこに置くのが一番いいかしらん、と悩むことになることもあるだろうが、そこはヴァーチャル博物館のいいところ、その一部分をあちらこちらに気軽に分けて置いてお見せすることができる。ということで、引き続き「魚類の部屋」 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/collection_rooms/3 、「貝類ほか海産生物の部屋」 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/collection_rooms/4 に続きを載せることにしよう。 #レトロ図版 #海産動物 #海亀 #アオウミガメ #タイマイ #博物画 #明治後期
國民百科辭典 明治41年(1908年) 明治41年(1908年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館
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建具金物のいろいろ@大正前期の工業辞典
二十世紀の初めに企画された、我が国初の総合百科辞典の草分け『大日本百科辭書』シリーズのひとつとして出された工業系辞典に載っている、当時使われていた建具金物あれこれ。複雑な仕組みのものは内部の構造も描かれている。 黄色っぽく見えるのは紙が焼けているのではなく、高品位のマット塗工紙にクリーム色の背景色を乗せてある。このような見開き図版ページは綴じ方が工夫されていて、三千ページ近い厚冊にもかかわらずノドのところも問題なく見られるようになっている。 こうした細かいパーツ類は時代によって機構も形状もかなり異なり、また今日まで伝わっている現物は極く限られるので、どのような種類があったのかを一目で識ることができるこのような図版資料が遺されているのは、なんともありがたいことだと思う。 なお国会図書館デジタルコレクションには明治四十四年版が公開されているので、それの「建具金物」項のところをリンクしておくとしよう。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/845406/436 ところで、『東京都図書館協会報』に収録されている平凡社取締役氏のご講演記録 https://www.library.metro.tokyo.jp/pdf/15/pdf/tla89.pdf によればこの版がでた翌年に同文社は倒産してしまったそうだし、図版研架蔵のものは初版刊行時期が違うので、これは後刷りなのかな? とも思うのだが、奥付にある発行者は相変わらず「東京市神田區表神保町貳番地」の「株式會社同文社」になっている。その辺の事情は今のところさっぱりわからない。 #レトロ図版 #建具金物 #建築部材 #蝶番 #錠 #引手 #大正前期
大日本百科辭書 工業大辭書 III 大正06年(1917年) 大正04年(1915年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館
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局方薬品ラベルのカラー広告@二十世紀初頭の医療器械カタログ
当時の有力医療器械ディーラーの取扱商品カタログ巻末に載っている、印刷見本を兼ねたレディメイド薬品ラベルの広告。上から毒薬、劇薬、普通薬を示していて、見本に使われている薬品は「昇汞〈シヤウコウ(=しょうこう)〉(=塩化第二水銀、水で稀釈して手指消毒などに用いられたが、あまりに強い毒性のため今では使われなくなった)」「石炭酸(=フェノール、これも消毒薬で今も局方にあるが、結構危ない薬品)」「單寧酸〈タンニンサン〉(収斂薬で下痢止めなどに使う)」。 なおご参考までに、消毒薬の歴史については白石正「消毒薬の適正使用—今昔物語—」(@『環境感染誌』第31巻第4号)がわかりやすくまとめられている。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsei/31/4/31_16RA03/_pdf 簡潔鮮明でひと目で中身がわかる、予め日本薬局方に基づく薬品名が刷り込まれたラベルは医療業界の大歓迎を受け、真似っこ商品が次々と売り出されるようになったのだが、先に取り上げた『調劑術講本』の著者小林九一と薬種商の子が創業した横浜の印刷業者大川印刷所とが組んで拵えたこの『大川藥名牋〈やくめいせん〉』がオリジナルのようだ。 西洋のものを模倣してはいるが、日本語名の方には独特の雰囲気ある隷書体を採用するなど、そのデザインセンスの恰好よさは今でも古くささを感じさせない。 #レトロ図版 #薬品ラベル #薬局方 #医療 #印刷物 #毒薬 #劇薬 #明治後期
販賣品目録 明治33年(1900年) 不詳 石版刷り図版研レトロ図版博物館
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ペーパークラフト自動車構造模型@昭和初期の運転免許受検教材(大東亜戦中版)
多分昭和16年に刊行されたと思われる、別途掲載の紙製自動車構造模型の別ヴァージョン。特に真ん中辺りのギア周りが前のものより詳しくなっている。 なお出典資料については、図版研「架蔵資料目録」ブログにて紹介している。 http://lab-4-retroimage-jp.seesaa.net/article/470608450.html また収蔵については、「モノ日記」に記事を書いた。 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/diaries/22
自動車學習模型 昭和16年(1941年) 昭和16年(1941年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館
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ペーパークラフト自動車構造模型@昭和初期の運転免許受検教材(大東亜戦前版)
恐らく昭和11年に刊行されたと思われる、紙製の自動車構造模型。解説書の図版だけでは解りづらい、パーツの複雑な取り合いなどの仕組みを初学者が自習する手助けとなる教材。 人体解剖図などでこうした模型は明治期からあるが、自動車のものは珍しいと思う。 なお出典資料については、図版研「架蔵資料目録」ブログにて紹介している。 http://lab-4-retroimage-jp.seesaa.net/article/470464 また収蔵については、「モノ日記」に記事を書いた。 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/diaries/22
自動車學習模型 昭和11年(1936年) 昭和11年(1936年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館
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バフプリマウスロック(鶏の品種)@明治の畜産学掛図
二十世紀初頭の畜産学掛図に載っている、アメリカ原産の淡黄色のニワトリで卵肉兼用種。 明治末の養鶏の本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/841764/67 によれば全身白い羽毛のプリマスロックとロードアイランドレッドという品種(当時輸入されていなかったからか、この本には解説が載っていない)とを掛け合わせたものというが、もうひとつバフコーチンと淡色ブラマという品種との掛け合わせにより産まれた系統もあるとあって、何がなんだかよくわからない。 ほかの毛色のプリマスロック種にくらべると、我が国ではあんまり普及しなかったようだが、今でも多少は飼われているようだ。なおこの図では紹介されていない白色種の方は、明治二十年頃に日本にもたらされたものの、漣紋のものに押されて一時はほとんど見られなくなってしまったという。三十年代も後半になった辺りから盛り返してきて、明治末には優秀な個体も各地に現れるようになってきたとのこと。親鳥も雛も病気になりにくく、肉、卵ともに質量ともすぐれている、という特徴を生かして、現代では主に改良品種をつくるのに使われているようだ。 なお出典資料については、当研Q所「架蔵資料目録」ブログにて紹介している。 http://lab-4-retroimage-jp.seesaa.net/article/460136977.html
各種家禽冩生圖 明治36年(1903年) 明治36年(1903年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館
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漣プリマウスロック(鶏の品種)@明治の畜産学掛図
二十世紀初頭の畜産学掛図に載っている、卵肉兼用種のニワトリ。濃い灰色と白色との細かい縞模様がさざなみのように見えることから「漣」と冠されたそうだが、今日では「横斑」と呼ぶのが普通らしい。 明治末の養鶏の本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/841764/66 によれば、明治初年にアメリカマサーセッツ州で作出された品種で、同じような縞模様のある同国で最も古い品種ドミニックにあるいは淡黄色のバフコーチン、あるいは黒色ジャヴァを掛け合わせて作ったといわれているそう。プリマス(Plymouth)はイギリスからの最初の入植者が母国の出港地に因んで名付けた原産地の都市名で、レッグホーン同様綴り通りに読んでしまったため「プリマウス」となっているようだ。丈夫なニワトリだからそれに「ロック(岩)」とつけた、という説がこの本では紹介されているが、現地に伝わる入植者が初上陸の際に踏みつけた(とされる)岩「プリマスロック」と何らかの関連があるのかどうかはわからない。 十九世紀末期に輸入されて以来、我が国でも採卵用、食肉用にそれぞれ改良が重ねられて各地で繁殖していたが、現在では品種改良のために用いられる方が主らしい。 なお出典資料については、当研Q所「架蔵資料目録」ブログにて紹介している。 http://lab-4-retroimage-jp.seesaa.net/article/460136977.html
各種家禽冩生圖 明治36年(1903年) 明治36年(1903年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館
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銀色ハンバーグ(鶏の品種)@明治の畜産学掛図
二十世紀初頭の畜産学掛図に載っている、銀白色に黒い模様の入った採卵種のニワトリ。 明治末の養鶏の本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/841764/59 によれば黒い紋様のところは緑色の光を放つ、とある。銀色の部分も含め、全体にメタリックな光沢のある羽毛をもつ美しいニワトリらしい。 ハンブルク種は多産が特徴のひとつだが、かなり年がいっても卵を産む、という点でも評価が高かったようだ。今日我が国であんまり飼われなくなったのは、雛のときにやや弱いのと、活潑で広いところで放し飼いにするのに向いている、という性質が大量飼育には合わないからなのかもしれない。 なお出典資料については、当研Q所「架蔵資料目録」ブログにて紹介している。 http://lab-4-retroimage-jp.seesaa.net/article/460136977.html
各種家禽冩生圖 明治36年(1903年) 明治36年(1903年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館