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- 1F 資料室 各レコード会社の月報 その1 1950年代
- 月報 日本マーキュリー 1950年代
月報 日本マーキュリー 1950年代
関西系のレコード会社で、1924年に設立された「合資会社内外蓄音器商会」がルーツとなり、以降「太平蓄音器(株)」〜「大日本蓄音器(株)」と推移します。戦時中に「大日本雄弁会講談社(キング)」に吸収され(これは政策的な企業の戦時統合)、同社の西宮工場となり、更にキングから独立して「富士工業(株)」〜「富士航空工業(株)」となったところで終戦を迎えます。
1950年6月に「タイヘイ・レコード」を設立して戦後の歴史がスタートします。当初は焼け残った戦前の原盤による再プレスで資金を集め、アメリカのマーキュリーとの契約による洋楽と、国内の新人歌手の育成に力を入れます。これらは大きく成長し、
(1)JATP(Jazz At The Philharmonic)等の本場アメリカのジャズ・レコードの普及
(2)テネシー・ワルツ(パティ・ペイジ)等ポピュラー・ソングの大ヒット
(3)野村雪子,藤島桓夫,松山恵子,西田佐智子(後に西田佐知子)の活躍
として実を結びます。
勢いに乗って1953年7月には社名を「日本マーキュリー(株)」と変更します。(1952年8月とする説もあります)
(1)を率いていたのがノーマン・グランツですが、彼はクレフ・レコード、ヴァーヴ・レコードを立ち上げています。
また、マーキュリー・レーベルにはクラシックもあり、オリンピアン・シリーズが有名でラファエル・クーベリック/シカゴ交響楽団のレコードなども国内発売されていました。更に、アメリカのヴォックス(VOX)レコードをいち早く紹介したのも、日本マーキュリーでした。クレメンス・クラウス、オットー・クレンペラー、クララ・ハスキルなどのレコードが発売されています。珍しいところでは、8インチ・サイズのLP( ¥900) なんていうものも出ていました。
しかし、その先は順風満帆とは行きませんでした。社名にまでしたマーキュリー・レーベルがキングに移って洋楽の柱を失い、育てた人気歌手も野村雪子はビクターに、藤島桓夫と松山恵子は東芝に引き抜かれ、西田佐知子も日本グラモフォンに移ってしまいます。「新マーキュリー(株)」の設立〜日本ディスク社との合併と手を打つも、日本ディスク社からは見離され(自身はビクターと業務提携を結ぶ)、1960年にはタイヘイ音響(株)と合併して「タイヘイ・マーキュリー(株)」を設立、といったところまでは年表で追えるのですが、この頃は事実上開店休業に近かったようです。新譜が1963年まで発売されたという記録もあるのですが、もうミュージック・マンスリー等に掲載されておらず、詳細は判りません。
それでもこの会社、1980年までは存続していたようです。資産の売却を重ね、メーカーとしては終わっていたものの、隣接するヤンマー音響(仔細不明)と共に(?)他社レコードのプレスを受託していたそうです。かつて、神戸新聞社が「神戸発 レコード120年 埋もれた音と歴史」と題する連載記事を掲載したことがあり(1999年)、そこにはこの会社の最後の様子が記されていました。この記事(丁寧に取材された良い記事でした)はネット上でも開示され、私が閲覧したのは2010年でしたが、今は見られなくなっているようです。
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