Billy Joel / Keeping The Faith [STEREO / STEREO] (US, Columbia, 38-04681) <January 1985>

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Billy Joel / Keeping The Faith [STEREO / STEREO] (US, Columbia, 38-04681) <January 1985>

P ZSS 173147 1B / P ZSS 173147 1B

アルバム「イノセント・マン」(1983年8月8日発売)からは、なんとシングルが6枚もカットされました(日本ではその合間に"This Night"もシングルになりました)。順は以下の通り;
① "Tell Her About It"(Released: July 1983)
② "Uptown Girl"(Released: September 1983)
* "This Night"(Released: October 1983;Japan)
③ "An Innocent Man"(Released: December 1983)
④ "The Longest Time"(Released: March 1984)
⑤ "Leave a Tender Moment Alone"(Released: June 1984)
⑥ "Keeping the Faith"(Released: January 1985)

https://www.youtube.com/watch?v=ph7oZnBH05s

[Wikipedia]

"Keeping the Faith" is a song by rock singer-songwriter Billy Joel, from his 1983 album "An Innocent Man", serving as its closing track and the final single released from the album. The cover for the single shows an image of Joel and the judge (character actor Richard Shull) in the "jukebox" courtroom from the video.

It reached No. 18 on the main US Billboard Hot 100 chart and No. 3 on the US Billboard Adult Contemporary chart. The song was the only single from the album that failed to chart on the UK Singles Chart, despite the success of An Innocent Man in the United Kingdom.

【人生最高のモテ期!ビリー・ジョエル「イノセント・マン」とスーパーモデルの関係】
https://article.yahoo.co.jp/detail/70af12a9c3493b565eb9e288b7d3eb44bbb52cf3
1/11(木) 6:00配信

●前作からわずか10か月で発表された「イノセント・マン」

ビリー・ジョエルのアルバム『イノセント・マン』は、前作『ナイロン・カーテン』からわずか10か月後の1983年8月に発表されました。これほどのスーパー・アーティストが、わずかな期間で新譜を発表したこと自体、奇跡に近いものがありました。

そもそも締め切りが迫ってこないと曲創りの気合いが入らないし、書き始めたところで、頭を捻りあげて曲を絞り出さねばならないほど遅筆のビリーが、なぜにこんなに短期間でアルバム完成させることができたのか… 本当に驚きました。

その理由は、謎解きでもなんでもありませんが、“そこにいい女がいたから” なのです。この真相について、彼のインタビューを参考にしたり、そして、当時の担当者ならではの推測を交えてこの10か月間を整理してみようと思います。

●モテ期のビリー・ジョエル、サン・バルテルミー島での運命的な出会い

テーマは “モテ期を迎えたビリー” です。つまり2024年には75歳になるビリー・ジョエルの33〜34歳当時の女性関係ということですが、1982年にリリースしたアルバム『ナイロン・カーテン』のレコーディング中に、ビリーは最初の妻エリザベスと離婚しました。この年、自身のオートバイ事故で入院。ピアニストが親指を激しく損傷し、決して望んだわけでもないのに離婚成立と、あのアルバムが重く暗くなる理由はシンプルでした。そしてそこから彼を取り巻く状況が大きく変わっていきます。

そんな時、ポール・サイモンが、離婚で落ち込んでいたビリーを励まし、気分転換をかねてカリブ海に浮かぶある島へ行くよう強く勧めたのです。プロデューサーが同じフィル・ラモーンということで、ビリーとポール・サイモンはかねてより交流があったのです。

ビリーは勧められるまま、友人夫婦を誘って1982年のクリスマスホリデーに、ポール推薦のサン・バルテルミー島へ向かったのです。ファンの間では有名な話ですが、ここでクリスティ・ブリンクリーとの運命的な出会いが待っていました。そんな流れで2人は知り合って、ついには結婚ということになるのですが、実際はそう単純なものでもなかったようです。

●クリスティ・ブリンクリー、エル・マクファーソン、そしてホイットニー・ヒューストン

島で日焼けし過ぎて、間が持たなかったビリーは、ホテルのバーの片隅にあったピアノでなにげに「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」を弾いていました。弾き終え顔を上げると、なんとそこには当代きってのスーパー・モデル、アメリカの恋人とも謳われたクリスティ・ブリンクリーと新人モデルのエル・マクファーソンが立って、じっとビリーを見つめていたのです。

当時のエルはまだ絶賛売り出し中。2人は互いに知り合いで、エルにとってはクリスティはあこがれの先輩。2人は別々の用事で偶然この島に来ていましたが、どちらも、この男がビリー・ジョエルということは知らなかったのです。でも男なら分かりますが、そういうこと関係なしに、美女たちと会話が出来てビリーは嬉しかったに違いありません。

この時のビリーのコメントが最高です。モデル2人の存在に気付いたビリーは何気に鍵盤に目線を落として感謝しました。

「ピアノよ、よくやったお前のおかげだ」

ピアノをはさんで美女2人と話が盛り上がっていましたが、そこへもうひとりの少女が「自分の歌を聴いてください」と割り込んできました。もちろん彼女はビリー・ジョエルだと知ってのアプローチでしたが、そりゃモデルと話している方が楽しいです。ビリーは「うっとうしい子供だな」と軽くあしらっていたようです。

ところが実は、その少女こそがホイットニー・ヒューストン。彼女はこの3年後にデビューしますが、後になって、あの時の少女が彼女だと知ったビリーは大後悔しています。これもビリーのコメントが残っています。

「ホイットニーの第一発見者になりそこねたよ」

●ニューアルバムの曲作りは進んでいない? 浮名を流すビリー・ジョエル

離婚後にロングアイランドからマンハッタンに戻った当時のビリーは、セントラル・パークに面したサン・モリッツ・ホテル(現在のリッツ・カールトン・ホテル)のペントハウスにピアノを持ち込み、住居兼仕事部屋として長期間借りていました。

なにしろ前妻エリザベスとは若くして結婚していたし、大成功してからも妻がマネージャーだったので女遊びすら出来なかったビリーですが、離婚してからは憑きモノがとれたように人生最高潮のモテ期を迎えていたようです。

ビリーとクリスティがサン・バルテルミー島で出会った頃、彼女は、まだシャンパンメーカーの御曹司であるレーサーと付き合っていました。そういう事情もあり、NYへ戻ってからはビリーは新人モデルのエル・マクファーソンにご執心になってます。後に “THE BODY” というニックネームがつくほどの完璧なスタイルを持つ彼女ですが、並ぶとビリーとは20cmほどの身長差があったようです。この長短2人のデートはアチコチで目撃され、ゴシップ紙を数回賑わしていたのが1983年1〜3月頃のこと。

ビリーはエルだけでなく数々の女性と浮名を流して遊び惚けていたので、ニューアルバムの曲作りは、全く進んでいないはずです。この時点で、まだクリスティとは何もありません。

●クリスティとの恋愛と、具体的になった「イノセント・マン」

そして3月クリスティに悲しいニュースが飛び込んできました。付き合いはほとんど終わっていたらしいのですが、レーサーのボーイフレンドが事故で亡くなったのです。彼の死の記事を目にしたビリーはクリスティを慰めるために、カリブの島で別れて以来初めて連絡をとっています。ちょうど、この頃からエルも人気が急上昇。仕事も忙しくなりパリにいることが多くなってきました。

この電話をきっかけにビリーとクリスティは会う機会が増え、いよいよ本格的な恋愛状態にかわってきます。おそらくこれが4〜5月頃です。このあたりからですね。『イノセント・マン』が急に具体的なものになってきました。

男なら誰しも痺れあがるエピソードがあります。クリスティとのデートの後、初めてサン・モリッツのペントハウスに誘った晩、帰宅すると部屋に人影があったのです。なんとそこにパリから突然戻ってきたエルがいた、と。これって他人事じゃないですね。この状況でのビリーのコメントには笑ってしまいます。

「フランク・シナトラだったら2人同時に、うまく相手できたはずだよ」

●アルバムの作品は全てクリスティへのラブソング

アルバム『イノセント・マン』の発売は8月8日(日米同時)です。付き合い始めた5月頃からの3週間ほどでアルバムの曲を書き終え、あっという間にレコーディングも終えています。

そして1983年7月3日、NYのCBSスタジオにはビリー・ジョエルと小林克也さん。東京のスタジオでは、桑田佳祐さんというキャスティングでTBSラジオの特番放送がありました。このため私は部長と2人でNYへ出張していますが、NYのスタジオには期待通りに光り輝く美しいクリスティ・ブリンクリーも顔を出していました。CBSスタッフも、ビリーよりもクリスティに興奮状態で、私もちゃっかり一緒に写真を撮らせてもらいました。

翌1984年、彼女はビリーの日本公演時にも同行してましたが、スーパーモデルなのに気取ったところを感じさせず、気さくに仲間とワイワイと盛り上がる、明るい典型的なアメリカンな女性でした。

ビリー本人も語っている通り、この時、クリスティはビリーにとっての “ミューズ” でした。そしてアルバムの作品は全て彼女へのラブソングです。彼女との出会いやトキメキが、高校生時代の自分を思い出させ、そのテンションが当時ラジオで聴いていたフォー・シーズンズやスプリームスなどへのオマージュとなり、“60年代音楽へのリスペクト” がこのアルバムの重要な要素になっています。

2人は1985年3月に結婚しましたが、その時のビリーのコメントは有名です。

「この結婚は、全米中の背が低い男に希望を与えたと思う。自分ですら、こんな素敵で背の高い女性を妻にできたのだから」

かくして、クリスティの存在がビリーに数週間で曲を作らせ、スーパースターにもかかわらず前作より1年足らずでアルバムを発表させました。そして幸福感あふれる『イノセント・マン』は結果700万枚のメガセールスを記録。女のチカラってすごいです。

2021年5月9日に掲載された記事をアップデート

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