月報 1963年 日本クラウン

0

日本クラウンは、「月報コロムビア(1960〜1963年)」でもコメントしましたが、もともとコロムビアで常務取締役を務めていた伊藤正憲氏が中心となって設立された会社です。1963年9月に発足し、第1回新譜が1963年12月1日に発売されています。

と書くとスムーズに話が進んだように見えますがそうではなく、伊藤氏が他の重役陣との折り合いが悪く、事実上コロムビアを辞めさせられたことが発端になっています。後に「レコードと共に四十五年」という自叙伝的な本を非売品として発行していますが(発行元は日本クラウン)、ここからは「営業スタイルは昔ながらの「行けー」「やれー」の体育会系」、「マネージメントは義理人情に厚く、面倒見の良い親分肌」という姿が浮かび上がってきます。それが過去の成功体験によって強固に裏打ちされているため、経済合理性を重視する近代経営とは馴染まず、煙たがられたのかもしれません。

しかし、クラウンの設立はその「恨み辛み」の勢いで成されたものではなく、「義理堅く筋を通しながら」用意周到に行われたようです。現実は、コロムビアと裁判沙汰の騒ぎになったりしていますが、これに勝訴し、世間の見方も伊藤氏に同情的になって行ったようです。例えば、「御世話になった方に恩返しがしたい」と考え、会社を辞めて伊藤氏の下に走ったとしても、それは罪にはなりませんよね。そう考えた社員やアーティストも少なくなかったし、「資金が必要ならいつでも協力するぞ」というレコード店主も数多くいたのでしょう。
レコード業界はもともと既得権益を重視した閉鎖性の高い業界でしたから、裁判所の判断もそこにメスを入れたとも言われたようです。とすると、「体質が古くて合わない」と追い出された人間が、結果的に「業界の旧態依然とした慣習に風穴を開けた」ことになります。

スケジュールとしては
1963.09.06 創立総会
1963.10.22 披露パーティ(赤坂ミカド)
を経て第1回発売にこぎつけたようです。
プレス工場や洋楽レーベルを持たないレコード会社の誕生です。

第1回新譜は歌謡曲のシングル盤のみ19枚ですが、ミュージック・マンスリー64年1月号の記述によると、枚数は一致しているが12月1日と10日に分けての発売となっています。

CW-1 は美空ひばりさんで、もちろん移籍ではなく「友情出演」といったところでしょうが、これが後々第1弾レコードとして記録に残ることを考慮した上で採番されたことは間違いないでしょう。

#アナログレコード
#レコード資料

Default