YASHICA ML 35m/F2.8

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YASHICA ML 35m/F2.8

M42スクリュウーマウントレンズではないレンズの第3弾!
今回は、ヤシカのオールドレンズの登場です。

ヤシカと聞くと大したことはないんじゃないかと思われる方も多いのではないでしょうか?ところが、このヤシカレンズは曲者で、当時コンタックスと一緒になって、C/Yマウントという企画で、かのあまりにも有名なCarl Zeissレンズを製造販売していたのです。このC/YマウントのCarl Zeissレンズはドイツ(MMDなど)と日本(MMJなど)で製造されており、Carl Zeissレンズの技術がふんだんに導入されて、結果、ヤシカのレンズ自体も大変優れたレンズを生み出すようになっていたのです。

当時のヤシカは、高い技術力を持っていた富岡製作所を傘下に入れていたので、Carl Zeissの優れた技術と富岡製作所の高い技術が融合して優れた製品を生み出していたようです。
当時のヤシカレンズは広角系に優秀なレンズが多かったらしく、和製ディスタゴンとかと例えたりする様なオールドレンズ好きの人達には人気の高い名玉が多いようです。

この時代のヤシカレンズは、中古レンズ市場でも結構高値で流通している様で、少しでも安いレンズを探している様な者にとっては中々ハードルの高いレンズでもあります。

今回手に入れたレンズは比較的定低価格でしたが、ネットで調べてみた結果、どうやら理由が有りそうでした。
結論からいうと、監視カメラ用のレンズだったのではないかという事です。
レンズ自体は同じ物の様ですが、細かい所でちょっとした違いがある様です。
ただ実際に撮影してみた結果で見るとかなり写りは良く好印象で、通常?製品と比較した訳では無いのですが、個人的には問題ないと結論付けてしまいました。

参考動画:https://www.youtube.com/watch?v=frIAR3GorCY
https://www.youtube.com/watch?v=zgazZGIhhoY
https://www.youtube.com/watch?v=CaHQrwQYwn0
https://www.youtube.com/watch?v=zgazZGIhhoY
https://www.youtube.com/watch?v=FKBFMypONtI

【製品概要】
メーカー : YASHICA
発売時期 : 1982年~
レンズ構成 : 5群6枚(レトロフォーカス型)
最小焦点距離 : 0.3m
開放絞り値 : F2.8
最小絞り値 : F16
フィルター径 : 52mm
サイズ : 61.5×41.5mm
重さ : 230g

【ヤシカと富岡製作所について】
長野県諏訪市のバルブメーカー北澤工業株式会社(現・東洋バルヴ株式会社)勤務の牛山善政が独立して1949年12月、従業員8人で電気時計メーカー「八洲(やしま)精機株式会社」を創業。その後「ピジョン」ブランドで写真用品を販売していたエンドー写真用品株式会社(東京都中央区京橋)からカメラ生産を受託し、株式会社富岡光学器械製造所のレンズを使用した6×6cm判二眼レフカメラの「ピジョンフレックス」を1953年6月に発売した。同年には社名を「八洲光学精機株式会社」に改称した。さらに折からの二眼レフブームに乗り、1954年にかけてピジョンフレックスと同一設計の「ヤシマフレックス」および「ヤシカフレックス」、シャッターを株式会社コパル光機製作所製に変更した「ヤシカフレックスB」の生産を開始し、自社カメラ事業を本格化させた。このためピジョンフレックスの製造は1954年、35mmレンズシャッター機「ピジョン35」の受託製造先だった長野県の信濃光機株式会社に移された。
カメラ事業の拡大を受け、1955年には諏訪郡下諏訪町の旧片倉製糸丸六製糸場に本社工場を移転した。また1957年に子会社の米国販社「ヤシカ社(Yashica Inc.,)」をニューヨークに開設し、二眼レフカメラメーカーとして積極的に海外市場に進出。1958年には本社の社名も商標と同じ「株式会社ヤシカ」に改称した。同年にはローライフレックス4×4を模した「ヤシカ44」が意匠権を侵害しているとしてローライの米国代理店が訴訟を起こす騒動もあったが、従業員数は1982人に達して急成長を遂げた。
1959年には戦前から続くカメラメーカーのニッカカメラ株式会社を買収して35mmカメラの製造を開始し、ライカタイプのレンジファインダー機「ヤシカE」や、一眼レフカメラの「ヤシカペンタマチック」などを発売した。またズノー光学工業を買収し、同社の技術も獲得した。
さらに自動露出制御の大衆機ブームに合わせ、世界初の電子制御式35mmカメラと銘打つ「ヤシカエレクトロ35」を1965年12月に発表。電池電源をこれまでになく積極的に活用したことによる露出制御の自動化・機構簡略化および大口径レンズの導入によって、暗い所の撮影が困難で壊れやすいとされていた大衆向けEEカメラのイメージを一新し、最終機種(1975年)までのシリーズ累計販売台数は世界で約500万台に達するベストセラー機となった。1968年には長年同社にレンズを供給していた富岡光学器械製造所(1969年に「富岡光学株式会社」に改称、現・京セラオプテック株式会社)を子会社化した。 ヤシカエレクトロ35で培った電子制御技術の実績と、子会社富岡光学のレンズ製造技術が評価され、1974年9月にカール・ツァイスと提携。1975年からTTL完全自動絞りとクイックリターンミラーを内蔵した35mm一眼レフコンタックスRTSを発売した。またコンタックスRTS用カール・ツァイスレンズと同一マウントの「ヤシカ」ブランド一眼レフおよびレンズを併売した。
この間経営面では、試作研究を続けていたテレビ受像器製造事業構想の挫折に加え、牛山善政社長の個人保有株に絡む経理部長の横領事件や社長親族の麻薬事件などの問題を抱えていた。さらに岡谷新工場建設の過大投資やオイルショックによる景気悪化が重なり、1975年に経営破綻。メインバンクである太陽神戸銀行と日商岩井による支援を受けてコンタックスおよびヤシカブランドのカメラ生産を続けたが、カメラのマイクロ・エレクトロニクス化が進む中で新製品の開発が困難な状態に陥り、遠藤良三社長(のち京セラ副社長)の手で1983年10月、京セラ株1対ヤシカ株13の比率で京セラに吸収合併された。本社工場は京セラの長野岡谷工場となった。
[京セラ時代のヤシカ]
ヤシカの事業を引き継いだ京セラ光学機器事業本部は合併後も高級機のコンタックス、低価格機のヤシカの各ブランドでカメラ生産を続けていたが、国内向けの普及機については1986年発売開始のオートフォーカスコンパクトカメラ「京セラTD」から京セラブランドで生産を開始した。しかし海外市場を重視した旧ヤシカの戦略で海外における「YASHICA」ブランドの知名度が高かったため、海外向けの低価格機は引き続きヤシカブランドで販売された。また合併翌年の1984年にはヤシカブランドの京セラ製MSXコンピュータ「YC-64(オランダ語版)」が海外向けに発売された。
カメラ生産は1984年12月以降、長野岡谷工場がコンタックスブランドやヤシカブランドの一眼レフ、北海道北見工場(北海道北見市豊地)がヤシカ/京セラブランドのオートフォーカスコンパクトカメラを担当したが、チップコンデンサなどの電子部品生産増強を目指した1988年の国内生産体制再編でカメラ生産ラインは長野岡谷工場に一本化された。しかし光学機器事業本部は合併時の期待どおりの収益を上げることができず、ヤシカ出身社員の多くは1990年代以降、京セラが手がけた第二電電(DDI、現在のKDDI)などの別事業に投入された。
京セラ長野岡谷工場は、ヤシカが1959年に岡谷市から購入した旧片倉製糸工場跡地を活用して1972年に開設。下諏訪町の工場は1973年7月より武藤工業の諏訪工場となっている。60年代にはヤシカが進出を目論んでいたテレビ受像器製造事業の専用工場を建設する構想だった。面積は約8万平方メートルで、単一工場面積としては現在も岡谷市内最大を誇る。京セラ合併後も光学機器事業本部の工場としてカメラ生産を継続。現在はサーマルヘッド部品、LEDヘッド部品、単結晶サファイア製品などを生産している。
京セラは2007年にカメラ事業から撤退。保有していた「ヤシカ」の商標権を京セラ製カメラの販売代理店だった香港の企業、JNCデイタム・テック・インターナショナル株式会社に売却した。

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