新聞記事((大阪?)朝日新聞) 1936(昭和11)年 1月24日付け

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さて、過日入手致しました1936年からのスクラップブックのお目当ては、二・二六事件の2頁前のこのページであります。

先日、上の方の➕日本赤十字社訪問の記事は既にupしました。⬇︎
https://muuseo.com/nine_o_nine/items/214?theme_id=39653

その下方に、貴重な離日の日=1月23日 神戸港に於いての記事 がスクラップされているのです!

…しかし残念な事に、新聞の構成所以でしょうか?バラバラに貼られていて文脈が滅茶苦茶な状態なのです(3枚目のお写真)。 流石に一回剥がして…も難しいので、デジタル時代の恩恵に授かり素人作業ではありますが今回、再構成の上展示・掲載させて戴く事と致しました。



同日の神戸港は丁度、"聲樂王"フョードル・シャリアピン氏が来日しその記事とも絡めてあり写真の切り抜き部分からも実に複雑な構成であったと推測しますが、スクラップされた方は上手くシャリアピン記事と根自子さん記事を分けておられてはいるのですが前述の通りでありまして、先ずはシャリアピン氏の方は(4枚目のお写真)の様な感じです。

お写真の下部には根自子さんのものが被っておりましたのを切り離して貼られてあります。
(因みにこの下方のお写真はwikiにも掲載されており朝日新聞大阪本社訪問の際、カタカナで署名した…とあります)

流石に元の紙面通り!は難しいですが、記事・文章として読める様に並べ直しました!(2枚目のお写真)

恐らく(大阪)朝日新聞 1936(昭和11)年 1月24日 と推測します。

"この聲樂王を迎へたよき日、わが天才提琴少女 諏訪根自子も…"で始まるこの記事によりますと船上から、そのシャリアピン氏にご挨拶された…とありますが実際どうだったのでしょうね?それにも増して大変興味深い記載が幾つか見受けられます。

*ヴァイオリンを二梃持って

こ、これは??ひとつは鈴木政吉製、そしてもうひとつは音の小さな練習用ヴァイオリンだったのでしょうか?それとも知られざる?

そしてこれ迄も度々考察して参りました前夜から当日の足取りですが、

山田耕筰氏、お見送りだけではなくなんと一緒に神戸迄…だったんですね〜?(徳川候代理の所三男氏も同)そして神戸驛到着(*これで神戸港驛の線は消えました)の後は

*オリエンタルホテルで小休憩した旨が!

う〜ん流石セレブリティー、違いますね〜?

*西洋料理、特にフランス料理が好きなので食物のホームシックにはかゝりません。

なるほど・・・きっと語学だけではなくマナーとかそう言った事も含めまして準備・お勉強されたのでしょう・・・

とは云え、パリでの原智恵子さんのお部屋(屋根裏部屋)にて懐かしい江戸の香り=味噌・醤油・海苔・お米で質素な料理をこさえ郷愁の食卓を囲み、「おいしいおいしい!」と何度もおかわりされる微笑ましいエピソードなどに触れれば…なんと申しましてもやはり日本人は基本和食が根底に在り…でありますよね。

https://muuseo.com/nine_o_nine/items/122?theme_id=39653

新聞記事((大阪?)朝日新聞) 1936(昭和11)年 1月16日付け
1月15日は芝にある日本赤十字社をご訪問された事が新聞で報じられています。'36年のスクラップ帳より。大変貴重な当時の紙面侭(朝日新聞、恐らく大阪版) 當然白黒写真ですが、珍しくセーラー服ではなく紺の上着に赤いスカートな装いの根自子さん。右は徳川家達公(社長)。 女子赤十字社員徽章を授かります。 「ベルギーの王様の前で演奏する際にも付けてよい」准勲章と副社長が補足している。その『平和の勲章』は、この翌'37年5月にエリザベート皇太后御前演奏時に果たしてつけられたのでしょうか? https://muuseo.com/nine_o_nine/items/107?theme_id=39653 #諏訪根自子 #NejikoSuwa #徳川家達 #日本赤十字社
https://muuseo.com/nine_o_nine/items/214
婦女界 1938(昭和13)年 第五十八巻 第五號 十一月號
婦女界 1938(昭和13)年 11月號。巴里の追憶 -フランスより歸りて- 根自子さんの特集ではありませんが、同時期にパリに滞在されていたピアニストでご友人の原智恵子さんの一時ご帰国時の手記です。 ご本人のご活動や生活、あの伝説のショパンコンテストの事など興味深い事項は勿論の事、開戦後間もない時期のパリそしてヨーロッパの生々しいご時世、そんな日々にあって志を同じくする音楽・芸術家仲間であり同年、ベルギー・ブリュッセルより移ったばかりの友人の根自子さんの事が丸々2ページ強にて綴られております。 ご友人の眼・言葉を通じパリでの生活の一端を窺い知る事の出来る非常に興味深い内容になっております。 ★お友達・根自子さん *少ない在パリ日本人の中でも特別仲良くしていた。 *週に一度は訪ねあう仲。 *根自子さんは師であるカメンスキー先生宅に寄宿し子供の居ないご夫妻に寵愛され、幸せな日々を送っていた。 *先生宅では當然、右を向いても左を向いてもフランス式の生活。 *智恵子さん宅(屋根裏部屋)の懐かしい江戸の香り=味噌・醤油・海苔・お米で質素な料理をこさえ郷愁の食卓を囲み、おいしいおいしいと何度もおかわりをする。 *時折り、セッションをしたり将来、二人で世界演奏旅行をしようとか、遠い未来の望みに胸をふくらませた *深い哀愁を湛えた大きな眼。音楽の話になると物に憑かれた様に輝き出す。 などなど・・・ 希望に満ちた、海外に学ぶ若き音楽家。芸事は解せませんが、体験から海外生活の不自由さは有る程度理解出来ます。しかしながらそれも1930年代の話となれば、EMSで数日で荷物が届き、日本料理店・食材があってクオリティ云々を問わずばまがりなりにも身近にあって…そんな近年とは根本的に異なるわけで、稀少な祖国の食材での手作りの味とはどれだけありがたく嬉しかった事か?想像するに余ります。 研鑽と覚悟、そして報国の念。これらは戦後の過酷な程、密なスケジュールの演奏會を見れば明らかな事。 藝術に生涯を捧げる。書けば簡単ですが、その覚悟は・・・原智恵子さん、そして根自子さんの当時の手記・インタビューに触れる度にその志、芯の強き女性の姿に感銘をおぼえます。 https://muuseo.com/nine_o_nine/items/36?theme_id=39620 原さんとは、前年パリ万博のソワレ(夜会)⬆︎でご共演、戦後も度々演奏會ご一緒されていらっしゃいます。それ以前にも遡り1932年刊の「音楽世界」誌で"天才と天才"としてご一緒に演奏されてる写真があります(*それもまた別の機会に…)ので旧知の仲、きっと同じレベルでしか感じ得ない、見ることの出来ない世界を共有されていたんだと察します。 #諏訪根自子 #nejikosuwa #原智恵子
https://muuseo.com/nine_o_nine/items/122

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