青鉛鉱 (linarite) 多田鉱山 #0162

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鉱石表面の多くの部分を皮膜状の青鉛鉱と孔雀石が薄く覆っていますが、一部では青鉛鉱の柱状結晶が観察できます。(背景はソフトウエア処理しています。)

川辺郡猪名川町を中心とする東西20㌔、南北25㌔の広大な鉱山地帯からなる「多田銀銅山」(2015年(平成27年)国史跡指定)のうち、特に品位の高い銀を有する鉱脈を有した猪名川町銀山が一般に「多田銀山」と呼ばれています。古くは「東大寺縁起」に742年(天平14年)に東大寺大仏鋳造のための銅を採らせたといい、「多田五代記」には多田源氏の祖源満仲が970年(天禄元年)に採銅が始めたといいますが確実な記録はなく、1037年(長暦元年)に摂津国能勢郡(現大阪府豊能郡)に銅が謙譲され、その後採銅所が置かれたという記録が史料上の初見とされます。下って天正年間(1573年~1592年)には現在の猪名川町域において豊臣秀吉が鉱山開発にあたり、台所間歩、瓢箪間歩、千石間歩など、秀吉ゆかりの坑道が今も残されています。江戸時代の1660年(万治3年)に大口間歩で銀の含有率の高い良好な鉱脈が発見され、翌1661年(寛文元年)に幕府の直山となり「銀山町」が置かれ、代官所と四つの口固番所が普請され、周辺70余村は「銀山付村」として幕府の直轄領となりました。1665年(寛文4年)には銀3,600貫目(約13トン)、銅75万斤(約450トン)を産出し吹屋の数は76軒、「銀山三千軒」といわれるほどの賑わいを見せたといいます。しかしその後は多量の湧水により採鉱が困難となり、1682年(天和2年)には直山から請山に変わり口固番所も廃止され、以降は村民による小規模な銅の採鉱が行われました。明治時代に入って三菱による稼行となり、1895年(明治28年)には島根県の実業家堀藤十郎が「多田鉱山」という名称で採掘特許を得、1897年(明治30年)から近代化した設備により銀・銅・鉛を生産しましたが、金銀価格の下落により1908年(明治41年)に休山、その後1925年(大正14年)に久原鉱業(後の日本鉱業)に鉱業権が移り、1944年(昭和19年)以降は日本鉱業が操業を続けましたが、1973年(昭和48年)に閉山しました。

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